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サックスの始祖がアドルフ・サックスなら、マルセル・ミュールはサックスの伝道師といってよいだろう。 改めて聴いてみると、ミュールの音は野太さと気品が一体化したような音で、言葉で表現するのが難しい。 こんなに素晴らしい楽器を世の中にひろめないわけにはいかない、そう彼は思ったのだろう。 しかし、哀しいかな、サックスのために書かれた曲は当時ほとんどなかった。 そこで彼は多くの作曲家に曲を委嘱すると同時に、既存の曲をたくさん編曲した。 例えば、ドヴォルザークの「ユモレスク」は、その中でも好例である。 あの軽妙なメロディーと豊かな旋律線、それを絶妙に表現するのに、サックスというツールは適材適所に思える。
さて、そのように偉大なマルセル・ミュールのあとに非常に卑近な例で申し訳ないが、僕達のクァルテットでも、しばしば編曲物を演奏する。 既存譜で恐らく最もお世話になっているのは、アルモ版の「ベルガマスク組曲」であろうか。 その他自分達でアレンジした曲も次第に数を増やしてきた。
サックスクァルテットの場合、オリジナルの楽曲を演奏するのが一般的であるように思える。 例えば冬のアンサンブルコンテストなどは、プログラムの大半がリヴィエかデザンクロの曲で埋められている。 そしてみんながみんな、ドゥファイエの亡霊にうなされるように同じ解釈をし、同じテンポで演奏する。 確かに上に挙げた曲は、曲としての完成度が非常に高く、また、サックスのために特化されて書かれている故、ある意味試金石であり、腕に自身のある団体なら一度はかましてやろうと思うに違いない(という自分も、高校の時にリヴィエの「グラ−ヴェとプレスト」で涙を飲んでいるのだが)。 当然それを否定する気はない。しかしそれだけというのは、サックスにとっても、奏者にとっても、不幸な気がしてならない。 まぁ、吹けるにこした事はないのだけれど。
僕にとってサックスはひとつのツールでしかない。 と書くと言い過ぎかもしれないし、じゃぁなんでお前はサックス吹いて、しかもウェブ上でこんなにサックスのことを褒めちぎっているのだという事になるかもしれない。 もちろん僕はサックスは大好きだし、もっともっと上手くなりたいと思っている。 けれど、一番陥りたくないのは、サックスのみに盲目の音楽になってしまう事だ。 また失言かもしれないが、バンドに疎い僕には、吹奏楽バンドに書かれた曲は、同じ響きしか聴こえてこないと感じる事がおおい。 サックスクァルテットに書かれた曲も然り。 そんな事はないぞとおっしゃる方もたくさんいらっしゃると思うが、それが実情ではないだろうか。 なんたらウィリアムスが書いた曲だろうがなんたらスミスが書いた曲だろうが、バンドをしてる人間の他は、どれも同じ「バンドサウンド」ではなかろうか。
話が逸れたが、音楽を奏でるのは楽器ではない、それは自分自身だと思う。 当然、サックスの音が要求されている場面では、その求められている音を出す事が必要である。 ただ、画一的な響き、まるで意図されていない響きが盲目的に連続するという事は避けたい。コンテストのように5分間で終わるような場ならよいが、 30分、40分といったステージを「僕らサックスクァルテット!」みたいな響きで終止するなら、聴く方もあまりに辛い。
僕らがプログラムにアレンジ物を入れるのは、そういった理由がひとつである。 アレンジもの(多くはピアノ曲からだが)の要求は幅広い。そこで葛藤も生まれる。 ピアノのタッチと減衰のニュアンスをサックスで表現するとどうなるか、弦のフレージングとボウイングの関係をどうサックスに導入するか、そういった試行錯誤から得るものは非常に多い。 サックスを、狭い範疇に収めたくないということもある。
と、ここまでかっこいい事を書いてきて、僕らがアレンジ物を取り上げるもうひとつの理由−−しかもこっちのほうが主−−がある。 あまり大きな声では言えないが、サックスの曲より他の楽器のほうがいい曲あるんだもん、という事である。 自分に限っていえば、もし僕がピアノが弾けたら、多分サックスは吹いていないと思う。 要するに、ピアノの代わりにサックスで吹いているという事なのだ。 「戦場のメリークリスマス」はクリスマスに便乗しただけだが、ブラームスの「インテルメッツォ」や吉松隆、そして今書いているグリーグの小品など、すべて自分がやりたいがため書き換えているに近い。 だからこそ、感性があう今のクァルテットが楽しい。
もちろん編曲は、教育課程の卒論で、バッハを木管五重奏に落とすといったシリアスなものでもないし、出版するわけでもない。 極私的なもので、かたひじはらずにやっているが、すこしはこだわりもあったりする。 和声のバランスや楽器の特性、また原曲の雰囲気を損なわないためには、編曲時に少し配慮してあげる必要がある。 しかしそんな苦労も、音にしてしまえばおおかた吹き飛んでしまう。結局、自分が奏したいから編曲するのだ。 マルセル・ミュールも、実のところそうなのかもしれない。彼の「ユモレスク」はそういった気分にさせてくれる。