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サックスはいじめられっ子。一言でいえば、そういう事になる。 特に、バンドのなかでサックスを吹いている人には、この気持ちはわかっていただけるのではないか。 吹奏楽に限らず、サクソフォンという楽器は、いまだにその定位置を見つけられず、いわば「イロモノ」的に扱われる。酷い事である。 こんなに豊かな響きを持ち、あれほどまでの運動能力と機動性をもっているのに−−モーツァルトがこの楽器を知っていたら、できたてのピアノを見たときのように、「こんな素晴らしい楽器ができた!」といって、大喜びするだろう...。
そう、とどのつまり、サックスが「イロモノ」なのはそれに尽きる。 モーツァルトはじめ多くの高名な作曲家はサックスの存在を知らなかった。サックスが生まれたのは1840年のことである。 発明したのはアドルフ・サックスという人物である(この人は、サックス同様、あるいはそれ以上に不遇な楽器、ユーフォニアムもつくっている)。 サックスという楽器の可能性にいち早く注目したのは、やはり「イロモノ」の作曲家、ベルリオーズであった。 彼はそこに、生まれる時代を間違ってしまった仲間意識を持ったのであろうか。あり得る事である。
サックスが初めて世間一般にお目見えした時の様子を書いた絵を見た記憶がある。 アドルフ・サックス自身がバス(バリトン?)・サックスを吹いているのだが、その隣にはスパナやらトンカチやらがゴロゴロしている。 どうやら彼はその機具で自前の楽器をボコボコしながら演奏したらしい。実に鮮烈なデビューである。 そんながらくたも、もう生まれてから一世紀と半分がすぎてしまい、楽器というに十分な機能と構造が確立した。問題は音域の狭さ(およそ2オクターヴ半)くらいのものだ。 なのに、いっこうにその地位は確立しない。 ディレンマだ。ひとつには、先に挙げた理由があろう。 楽器自体が若すぎたのだ。故に使われない。 サックスをフューチャーした最もメジャーな曲は、ビゼーの「アルルの女」の間奏曲であろうか。 もしくは、モーリス・ラヴェルの「展覧会の絵」や「ボレロ」でも聴く事ができる。 「ボレロ」なぞは、サックスの音色が他のどの楽器をも凌駕してしまうほどのインパクトを持っている(ちなみに、カラヤンの振ったベルリン・フィルの場合には、大方ダニエル・ドゥファイエの音を聴く事ができる)。 その他、マイナーなところだと、コダーイの「キージェ中尉」、オネゲルの「火刑台上のジャンヌダルク」くらいのものだろう。 少ない。オーケストラというものは、19世紀の後半から、構造上大きな変化は見られない。武満徹が邦楽器をコンチェルトとして入れようとも、オーケストラ自身に組み込まれてはいない。 つまり、リヒゃルト・シュトラウスやブルックナー、マーラーなどの時代から、オーケストラは何ら変化していない(外面上は)。 当然サックスもそ の憂き目を見る事になる。「展覧会の絵」の「古城」のアルトサックスソロなどは、バスクラリネットの人間が吹いてしまう事が稀ではない。
もうひとつには、サックスのその秀逸な性能がジャズによって花開いたという経緯がある。別にこれは、サックス全体にとっては不幸ではないのだが、クラシカルサックスを吹く人間にとっては、やはり重い足枷になってしまった事は事実である。 更に「イロモノ」という評価が定着したのだ。 もちろんジャズにも素晴らしい奏者はたくさんいたし、今もそうだ。ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、ジョシュア・レッドマン...。 好みの問題だ。 テナーサックスなどは特にだが、ジャズのレパートリーのほうが、クラシックのそれよりはるかに多い。 クラシカルな響きが好きな人間にとってはちょっと切ない。
以前、野中貿易の何十周年コンサートだかでクロード・ドゥラングルが招待されたのだが、彼がはじめにステージに現れたとき手にしていた楽器は、ベル管部分にあるキーが反対についた、セルマー社が初期に製造としたいうものであった。 1世紀もまえに生まれたその楽器は、独特な響きを持ちながら、それでもサクソフォンの音を響かせていた。 その音を思い出す度、僕は、無念の気持ちが込み上げてくるのである。 それも、モーツァルトのサックスに書いた曲が欲しいというわがままなのだが。 吹奏楽のなかのサックスの無念については、また今度。