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新国立劇場でダンスの公演を観た(ダンステアトロンNo.5、3月10日)。
興味はもちつつもなかなか足を運ぶ機会がなかったが、音楽監督に伊藤康英先生の名前があったこともあり、一念発起して(なんと言っても僕は出無精なので)行くことにした。しかし当日は完璧な風邪。まさに死ぬ思いで首都高をまわっていた。
話は全然変わるけれど、今年はあんまりインフルエンザは流行らなかったかわりに、風邪がきつかったですね。しかも風邪って普通は腹痛になったり頭痛になったりするものなんだけど、今年の風邪は本当に風邪。咳がでて熱がでてとにかくだるい。あーつらかった。ダンスというものをはじめて生で観て正直な感想は、もしも自分に何かの才能があって、もしも音楽と、ダンスのどちらをやるかといわれたら、ダンスといってしまいかねないようなくらいに魅力を感じたということ。それは自分が音楽のフィールドにいて、それについていろいろ感じ、それなりの知識があるからかも知れないし、もちろんあまりフェアじゃない例えだとは思うけれども、コンテンポラリー・ダンスには、現在の日本の現代音楽には感じることのできないエネルギーを感じた。
ところで今回のダンステアトロンは、バニョレ国際振付コンクール(パリ)という、コンテンポラリーダンスの登竜門で活躍した二人、伊藤キムと山崎広太が別々に振付け・演出した舞台、“Close the door, open your mouth”(音楽監督・伊藤康英) と“HYPER BALLAD”が上演された。
朦朧とした(嘘ではなく)意識にはじめ新鮮に写ったのが、山崎自身のダンスだった。その緩急のある動き、伸縮する身体動作、いくぶん神経症的なステップ。バレエや舞踏、そういったものにずぶの素人である自分にとって、その身体自体がとても新鮮だっ た。しかし何故かそれはその他の群舞と滑稽な空間配置(に見えた)によって、時間が経つに連れて印象が薄れていってしまった。そのかわりに、本当に夢にまで見たのが伊藤キムの“Close the door, open your mouth”である。人類最初の職業は娼婦だ、という説が正しければ、二番目はダンサーだと私は思います。奇しくも、どちらも生身の体を道具にするもの。でも自分の意志を他人に伝えるにはまだ不十分です。そこで音楽が生まれ、言葉が発明されました。伊藤キムの公演は、演出・振付け・出演の本人に加え、ダンサーでカウンターテナーという、まさに「歌って踊れる」ヨアヒム・サバテ、アーノン・ズロトニック、そして弦楽四重奏とチェンバロ(伊藤康英)という編成。
この順番が正しいかどうかはともかく、私たちが「身振り」と「口振り」でお互いの意志の疎通を図っていることは確かです。 この、普段は意思疎通の道具として用いる「クチ」を、音楽という媒体にのせる、早い話が「歌う」ということですね。ダンスを生業とする私は、人類にとって重要な道具である「体とクチ」の両者を何とか混合できないだろうか、とずっと考えてきました。
この作品に出演する2人のダンサーは、豊富なダンス経験に加え、カウンターテナーの技術も持ち合わせているという類い稀な存在です。身体表現としてのダンスと「クチ」表現である歌。さらに楽器をもった人間も加わったこの部屋の住人たちは、「ドアを閉じてクチを開けなさい」というお告げのもと、閉ざされた空間の中で異色のエンターテイメントを繰り広げてくれるはずです。
(伊藤キム、ダンステアトロン・プログラムノートより)
「バロックから現代的な音楽までのいろいろなスタイルを有機的に関係させてみたい」という康英先生の音楽もとても魅力的だったが(前半のカウンターテナーのゆっくりとした動きとともに歌われる息の長いフレーズは美しい!)、その音楽も含めて、限定された空間にひとつの世界観を創造した伊藤キムのファンタジーが、残存思念のように僕のなかの何処かに住みついてしまったようである。事前にスコアを見せて頂いて知っていたのだが、この舞台はJ・S・バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」のアリアに始まり、そしてアリアで終わる。全体は2部に別れ、部屋の住人がひとりずつ現れ、その関係性を探っていく前半と、伊藤キムというひとつのトリックスターが現れてからの世界の混乱と秩序の回復が顕わされた(ように感じた)後半。限定され圧縮され凝縮された世界モデルがそこにあった。
知っての通り「ゴルドベルグ」はアリアに始まり、それが30の変奏を経たのちに再びアリアがまったく同じ形で奏されるという不思議な構成をもつ曲である。そのアリアが始まりと終わりに配置されたことによって、限定されているが充足している空間世界を象徴していたと考えるのは短絡的であろうか。とにもかくにも印象に残っているのが、ヴァイオリン奏者がダンサーと接近しながら奏する、高音のロングトーンである。
秩序の根本にあるものの確認といおうか、例えば作曲技法のひとつ、十二音技法のセリーを素っ裸で提示してしまう大胆さといおうか、のちのちの様々なコミュニケーションの在り方は全てこのヴァリエーションだといわんばかりに二人は近付き、そして離れていく。
伊藤キムは抽象的な何ものかを具体的な身体表現と関係性に置き換えて、ありふれた現実世界を、秘密と発見に富んだスリリングな世界に転換した。ヴァイオリン奏者はダンサーによって抱え上げられ、横倒しに持ち上げられ、嫉妬と羨望の下に音楽を奏で続ける。ダンサー同士もお互いの存在に気付き、同化と差異化を繰り返しながら自己と他者を認識していく。 僕は、芸と芸術を判断するひとつの基準として、大江健三郎の方法論、つまりロシア・フォルマリズムの理論に立ち返ることにしている。その代表的な理論家シクロフスキーのいうところによれば、生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。
芸術の目的は認知(знававие、ウズナヴァーニェ)、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視すること(видение、ヴィジェニエ)としてものを感じさせることである。また芸術の手法(приём、プリヨ−ム)は、ものを自動化の状態から引き出す異化(остранение、オストラニェーニェ)の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかせる必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。伊藤キムのもたらしたものは「けっこう」自分には衝撃的だった。
僕は夢を見た。
伊藤キムの舞台が終わってから人を探して続けるような夢(かなり現実的だった)や、実際に自分が伊藤キムの舞台に立って何かを演じている夢、それに自分が何故かミドリムシ(正直、ミドリムシになって光合成する夢はこの頃よく見る)になって小さなクーペのような中で光合成をしたいのだが、自分ひとりではできないらしくうろうろする夢とか。「けっこう」というのは、僕はまだコンテンポラリーダンスの領域では門外漢であり、自分が果たしてどのくらい感じ取れているかがわからないからである。だけど、その「なんだかよくわからないがすごい気がする」という感覚は大事にしたいと思っている。貪欲に自分を広げていきたいとも。