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原田敬子作曲、<PLATEAU for great-bassrecorder, gt, vn>を聴く
(渡瀬英彦&西村正秀 フルート&ギター・デュオリサイタル ゲスト太田祥子 vol.1、ルーテル市ヶ谷センター、2001.2.16)。夕方から降り始めた雨も上がり、暗闇の中で水たまりも濁りを消して静かな水面は鏡面のようになっている。そこに、幾重もの同心円状の波紋が、複雑な、それでいて美しい紋様を描き消える。一瞬の混沌を引き起こしたいくつかの雫は、まるで何事もなかったかのように水たまりと同一化している。そして平静の後に新たな雫が再び放たれ、まったく先ほどとは異なったパターンを刻印する。<PLATEAU>が抱かせたイメージは、そういった視覚的なものだった。
響きとは、音と音との距離、つまり<隔たり>を感じ、それに耳を澄ますことによって、はじめて実現されるというアイディアを基に、幾つかの作品を試作していた当時の小品。この作品では、響きという<音の状態>に加えて、奏者の<内的状態>に働きかけることを意図し、主に時間の構造に取り入れられている。様々な断片的持続は、常に異なった出口へと導かれ、断片と断片の境界では、奏者の内的状態の強い転換が求められている。各楽器間の関係は、聴覚を駆使した、極めて密で高度なアンサンブル力を要求される。
(プログラム・ノートより、抜粋)ステージ上で繰り広げられたのは、ひとつに組織化された音群というより、全方位に聴覚を集中しながら何らかの兆し/アクションに対して反応/リアクションを起こす、極度に鋭利で俊敏なカンヴァセーションの光景だった。特殊奏法も自在に操りながら、それぞれの音は時に探りあい、時に瞬発的に呼応し、時に反発し、そして時に協調しながらモノトーンの色彩(と、僕には感じられた。フルカラーではなく、モノトーンに)のタペストリーを形成していった。凪のような状態から律動的に高揚し、カタストロフィーとも違った瓦解の仕方をし?再び「何か」が起こるのを待つ。バスフルート/フルート(リコーダーパート)、ヴァイオリン、ギターといった発音形式の異なる3つの楽器は、爪弾いた撥音から異種交流独特の異物感のザラザラした触感、そしてそれらのもたらす余韻までもを、スリリングでエキサイティングな緊張感のもとに展開していた。
距離=<隔たり>、時間と「間」、瞬間と持続。何らかのきっかけから始まる細胞分裂のシミュレーションのような<PLATEAU>は、そのような思考のきっかけを与えてくれた。
しかし、そんな共感とともに、<内的状態>に関しての疑問も残った。これは聴き手のセンスの問題かも知れないが、受動的、あるいは能動的に転換される<内的状態>がどのように音楽に変換されるのかということ。いわゆる調性に依らない音楽の場合、その表情をうかがうことは困難なのかもしれない。人はそれをどう聴くのだろう。無表情と捉えるのだろうか、それとも冷徹な音楽と見るのだろうか。自分には、オーソドックスに分類された感情、例えばうれしいとか哀しいだとかいう感情を越えた、もっと混沌とした、無分別に混濁した感覚のエキスがサブリミナル効果のように瞬間ふっと浮き上がる、そんな獏とした感覚がある。そんな自分には、<内的状態>は共通意識をもたないままに転回され、それがどのような効果をもたらすのかが、把握できなかった。もしかしたら、そういった曖昧ではあるが強い転換が、意図したものであったのだろうか。
とはいえ、現代の優れた作品を、それに共感した音楽家の演奏で聴くことが出来たのは、とても幸運なことだった。このような機会がもっと身近なものになればと切に願う。
(敬称略)