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『音楽雑感その3。』

 ひとに薦められ、グスタフ・レオンハルト指揮、ラ・プティット・バンド演奏の『マタイ受難曲』を聴く。

 はじめの音からおののいた。正直、心の底から震えた。
正確にいえば、それは音とは呼べなかった。まるで壮大な宗教画か、静謐な大聖堂か、そうでなければ忘我の境地にある祈りのようだった。 <音楽は魂の内部に侵入して、このうえなく激しく魂を捉える>とプラトンは言った。 その言葉通りだった。言い換えれば、そうでなければ音楽ではないのかも知れない。 そこには怒りや哀しみ、そして温もりや悦び、そういった人間のあまねき感情が凝縮され、深化し遜され、そして声高に訴えるのでなく「ただそこにあった」。それでいて抗う必要もなく聞き手の魂の中に滲み入って来るのだ。

 一度だけ、といっても何回も聴ける/聴くべき曲の類いではないのだろうが、『マタイ』を聴いたことがある。御承知のように今年はバッハの没後250年で、世間はバッハ年といい、まるでバーゲンセールでもやるみたいにバッハをやりまくっている。そういう流行にのせられるのも癪だとおもいながら、便乗することにした。なにしろ僕のお気に入り、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が来日して『マタイ』やるというのだから、行かないはずもない。ちなみに合唱は聖トーマス教会合唱団(バッ ハ自身がカント−ルを勤め、『マタイ』を初演した)。

 そのときにも同じような経験をした。池袋の芸術劇場での演奏会だったのだが、音の塊が空に向かっていくような感覚があった。空気が浄化され、鼻腔から音楽が吸い込まれる、そんな感じ。

 僕はキリスト者ではないし、何か形式ばった宗教に属しているわけではない。かみさまがいることは漠に思うが、それが何をもたらしてくれるのかはわからない。そんな僕にすら、バッハの『マタイ受難曲』は何者かを語りかけてくることに、ある意味驚きを感じた。さきの、ラ・プティット・バンドを薦めてくれたひとに、それは何故だろうと聞いてみた。彼にすると、それは
「人間のもつ娯楽の中の、最も娯楽たるもの」
だからだという。

 「娯楽」という言葉にはじめ僕は疑問を感じた。 当時ひとは自らに課せられた労働をし、週末には教会に行き、神に祈った。そこで演奏されたのがカンタータであり聖歌である。字が読めない人間のため、聖書の場面が歌となり、劇となる。『マタイ受難曲』も当然のように<マタイによる福音書>をテクストとしている。人々はそこで聖書に書かれている物語を、キリストの受難を「生きた物語」として再確認した。テレビもラジオもCDも映画もなく、映画もプレイステーションもない。非日常空間たる教会での音楽は確かに娯楽であったといってよいのかも知れない。 くわえて、『マタイ』をはじめとするそれらの音楽は、いわゆる大衆にも理解できるものでなければならなかった。逆にいえば、伝わらなければ意味がなかった。そこには伝道の意味合いがあるのだから。人々が聴いて耳を塞いでしまいたくなるようなものも意味をなさない。日常での苦しみに加えて更に苦痛を伴う非日常を誰が望むというのだろう?
そして、『マタイ受難曲』は生まれた。

 音楽(のようなもの)に少しでもたずさわっている者として、「音楽とは何か」という問いは避けて通れないものだと思っている。それは自分の目指す道標でもあるし、少なくとも、自分なりの音楽観というものを持ち合わせていない限り(たとえそれが間違っていてもよいと思う、何故ならそれが間違っているとは誰も言えないから。これが真理といえる人間のことは信用しない/できない。それが言えるのは神様くらいのものだと思う。)、自分の奏でるものは音であり音楽には成り得ないと信じている。 『マタイ』のなかに、「音楽とは何か」というもののなにがしかの答えが潜んでいる気がする。少なくとも、それを少しでも感じられる人間でありたいと願っている。

01/01/01TSE 細越一平

TSUKUBA SAX.ENS.<saxkimmy@hotmail.com>