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『吉松隆考その2。』

 先日のサキソフォンフェスティバルで、はじめて吉松隆の『サイバーバード協奏曲』を生で聴いた。 これまでこの曲は2枚の録音でしか聴いたことがなかったのだが、この曲くらいライヴで聴くと印象が変わる曲も少ないだろうなと思った。一緒に行った友達も、軒並み圧倒されてしまっていた。それまでのプログラムで少々辟易していた僕も(いったいあのフェスティバルは、田中靖人先生とアルモがいなかったらどうなっていたのだろう。ソリストはともかく、オケが酷すぎた。せっかくの機会なのだから、もっとしっかりとしたものを聴きたかった。もしもオケの力量があれだけのプログラムをこなせないと主催者側がわかっていたのなら、もっとプログラムを厳選するべきだったと思う。あのアルルや展覧会の絵、イベールやドゥビュッシーは一体なんだったのか。あれだけコンチェルトに成り立っていないものを聴いたのは久しぶりだった。そんな中、靖人先生やアルモは、無味乾燥な砂漠の中のオアシスのようだった。研ぎすまされた感性、透き通るようなアンサンブル、改めて自分は素晴らしい出会いに恵まれているなと思った)、全身でスリルを感じていた。

 その『サイバーバード』、先月にはカーネギーホールで演奏されたという。 日本の現代音楽を紹介するミュ−ジック・フロム・ジャパンという企画の25周年記念の演奏会でのこと。 それを書いた朝日新聞の記事で、末延芳春というジャーナリストがこのように書いていた。

 「とりわけ印象的だったのが......吉松の『サイバーバード』。 一見ジャズ風トリプル・コンチェルトの体裁を取りながら、ジャズの激しいバトルとも一線を画し、一種国籍不明の言語を用いて、あらゆる物と情報に恵まれながら、本質的な何かを失ってしまった絃日本人の悲しみのようなものを浮かび上がらせた。」
どうしても須川さんの演奏を聴くと、良かれ悪かれその「華」のあるプレイにばかり目がいってしまい曲の本質にある部分を見のがしてしまうといったことがあるのだが、このニューヨークでの演奏会は写真を見る限りソリストが違うようで、それで純粋に音楽に目を向けたこのような聴き方(読まれ方)が出てきたのかと理解した。 時に吉松の曲に主観的になり過ぎて外から俯瞰するという行為ができなくなってしまいがち になる自分にとっても、考えるきっかけを与えてくれる文章だった。

 吉松の作品には都会が似合う。 曖昧ながらそう感じたのはいつだったろう。似合うといった言葉は適切ではないかも知れない。 吉松の音楽が浸透する空間として、都会が相応しいのである。 以前、日吉に住んでいる友達の家から早朝に帰宅しようとして、東横線からの風景−−夜の闇が次第に朝焼けの鮮やかな色に染められて、うっすらともやのかかった静かな街が見える、そしてそこには様々な人達が生きている−−を眺めながら、僕は吉松のシンフォニーが流れているような錯覚を覚えた。 正しくいえば、そのような場所に求められている音として、吉松の音楽があった。

<閑静な街の/人も樹も色をしづめて/空は夢のやうに流れてゐる>。
これは三好達治の『少年』という詩のなかの一節である。詩に現わされているのは夕 暮れの風景だが、その詩句にも似て、吉松の「うた」は自分の中に、そして都会の片 隅にまで染み入っていった。

 『サイバーバード』は、それとは少々趣を異にするが、それでも都会にはかわりがない。

 「都会」という言葉も曖昧だ。 ここでいう「都会」とは、多種多様な要素が混在し、それらのうちのいくつかは混じりあい、いくつかはまったく混じりあることなくごつごつしたままに存在する「箱庭」のような空間、という意味の言葉である。もちろんその中にも暗黙の了解というか、ルールがある。 人間であればそれは「生きていること」、それだからこそ、それは音楽になり得るのだろう。

 第1楽章<彩の鳥>は端的にそのことを象徴しているかのようだ。 「様々な色彩の断層をすり抜けて飛ぶ、いくぶん錯綜したアレグロ」と吉松は書いている。ジャズやロック、クラシック、民俗音楽や絃音楽といった様々な要素が、決して混じりあうことなく、それでいて「吉松色」とでもいうべき響き、そして擬似的なソナタ形式(暗黙のルール?)のもとに置かれている。それは時にグロテスクですらある。

 それらの目まぐるしく展開する光景は、言い換えれば吉松がそれらと同じ座標軸に位置し横断しているということである。それまでの吉松作品の多くは、楽章毎にそのようなスタイルを用い、使い分けることは多かったが、ひとつの楽章の中にそのようにして混然をしたスタイルを持ってきたものは少なかった。つまり、空間を見下ろし俯瞰するという姿勢だったこれまでから、『サイバーバード』では自らもそれに含まれる要素のひとつとして描いているということである。

 故に第1楽章では、それらの雑多な様式は決して混じりあわない。部分である主体は全体を構成する一要素でありはするが、全体に意味を与えるべきものではないからだ。そしてその部分も部分のみで思考し屹立する。他者の介在しないモノローグ、それが第2楽章<悲の鳥>である。

 吉松は『サイバーバード』についてこう書いている。

 「私にとってこの曲は、もうひとつの深い思いとともにある。この曲を書いている時、私の2つ年下の妹が死んだ。ガンだった。その末期から死へ至る一月ほどの間、私は連日徹夜で看病しながら妹の病室でこのスコアを書き、<今度生まれてくる時は鳥がいい>と言って死んでいった妹の名を第2楽章に刻印した。つまり『サイバーバード』とは、生命維持装置と人口呼吸器に囲まれて最後まで自由な空を飛翔する鳥を夢見たそんな妹と私との見果てぬ夢でもある。」
第1楽章が移動、徘徊を通した様々な事物の観照だとするなら、第2楽章は一点に立ち止まってひたすら自らの内部に潜行するものである。外部の「箱庭」とは別の、内なる森の中の世界がそこにはある。情報量が過多だった第1楽章と比べて、第2楽章はそれが極めて少ない。必要がないからである。「都会」的な膨大な情報量全てが部分に必要であることはないからだ。

 先の吉松の文章からの個人的な感傷を抜きにしても、第2楽章は単なる個人的な悲しさを越えて「悲しみのようなもの」を湛えている。ここで、末延氏の「悲しみのようなもの」という言葉は、僕にとって、言い表せない何者かをよく表現してくれる。いうならば、何に悲しいのかわからないのだ、そしてそれは悲しいのかすらわからない、「のようなもの」という感覚、寄辺のない悲しさ。

 もしかしたら悲しみの対象はその「寄辺のない」ということにあるのかも知れない。 第2楽章のスタイルは第1楽章で垣間見たどのスタイルとも異なっている。根が無いとでもいおうか、外部で鳴り響く色彩は、自らの内側にはまったく差し込んでこない。何にも立脚せず、何にも繋がっていない感覚。それが末延氏のいう「本質的な何か」なのかもしれない。そういった漠然とした悲の光景から、鳥はもう一度飛び立とうとする。今度は鳥は横座標の上に留まってはいない。

 第3楽章<風の鳥>で繰り広げられるのはそうした音楽である。第1楽章でのスタイル=主題群が主体たる一要素の中で統一され、その要素(=鳥)はまさに新しい地平へ、「箱庭」の外側へと「一直線に」、「全力で疾走する」(吉松)のだ。

 一度だけ鳥はその羽根を休め、対話する。サキソフォンとパーカッションといった、まったく違う要素同士のいびつなカンヴァーセーション。これまでの録音でそのふたつは張り合うように演奏されていたが、先のフェスティバルで須川さんのサキソフォンはパーカッションの威嚇するような声とは対照的に、弱々しく自信なさげで、まるで苦痛に耐えかねて喘いでいるように聴こえた。しかし僕はその解釈を指示する。鳥はそこで、一度瀕死になるべきなのだ。それは必然的なことである。対話の直前、サキソフォンの旋律は一瞬感傷的になる。パーカッションはその鳥を鼓舞する者かも知れないし、もしくはそれまでの逸脱した個を抑圧しようとする圧倒的な何者かかも知れない。どちらにしても、フェスティバルの時の二人のソリストの対話は、一羽の鳥の試練と恢復を物語っていたように感じられた。

 自らを越え、既成の在り方を越えようとするものは、一度死ななければならない。嘘だと思うものはひとつ何かの神話を読んでみればいい。受難を経た者こそが、自らの言葉を語ることを許される。この対話を先のように表現したことによって、『サイバーバード』は真に「箱庭」の外へ飛び立てるようになるのだ。

 これ以上なく静かな場所から再び飛び出した鳥は何処へ行こうとしているのだろう。
その何処かを求める姿を、吉松に、そして自分自身に重ね合わせてしまうのは主観的に過ぎるだろうか。けれども、だからこそ最後のサキソフォンのアドリブの叫びが、僕には祈りのようにも聴こえるのだ。

 物語はここで終わる。鳥はもしかしたらイカロスかも知れないし、グスコーブドリかも知れない。断ち切るかのような突然の終末のあとに残る余韻は何処に響くのだろう。

 なお、吉松と彼の妹との「見果てぬ夢」を描いたもうひとつの作品として『鳥と虹によせる雅歌 Ode to Bird and Rainbow, Op.60』がある。この曲は『サイバーバード』の第2楽章とは対照的な美しさを持っていて、生で聴くと、ポリフォニー・ポリリズムを構成するひとつひとつの音、さえずりが「音もなく」広がっていく不思議な感覚に包まれる。「箱庭」と、そのなかに生きるあまねきものに染み込んでくるように。

00/12/31TSE 細越一平

TSUKUBA SAX.ENS.<saxkimmy@hotmail.com>