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例えば、C・A・ドゥビュッシーの『プレリュード』(「ベルガマスク組曲」より、arr.中村均一)。 ことあるごとに奏でてきたこの曲を、僕達は今まで一度も満足に吹ききった事がない。この曲に取りかかってから、もうすぐ1年が過ぎようとしている。 宴会場からちゃんとしたホールまで、四季を通じて響かせてきたその余韻は、常に落胆を与え、自らの無力さを悟らせるには十分だった。 でも、いまだに、僕らはアンサンブルというものに失望していない。 むしろ、その悦びは何者にも代えがたいものとして、日増しに大きくなっていく。
アンサンブルはスリリングだ。特にカルテットの形態の場合、4人の音は裸のまま白日の下に晒される。 当然のように、楽譜のひとつひとつの音に繊細な感覚が求められる。 しかしそれが逆に、僕達に生きている存在としての音楽と、それを生み出す自分自身の責任を改めて教えてくれる。
日頃バンドの中で吹いていると、時にそのような感覚を忘れてしまっている自分に気付く。惰性が個の埋没を囁き、全体の輝きを鈍化させてしまう。 「死んでしまった」 音楽のぬけがら。アンサンブルへの欲求はそんななかで自然に沸き上がってきた。 幸い、下手の横好きで、サックスを吹くのが三度の飯より好きな人間がいた。 あとは、深く息を吸い、4本のサックスを震わせればよかった。
その頃からメンバーは入れ代わり、次第にレパートリーのようなものも出来はじめ、 「やっぱり経験やで」という言葉に導かれ、憑かれるように吹く機会を探した。 何度も衝突し、寝食を共にした。
どうしてそんなにサキソフォン・アンサンブルに惹かれるのだろう? 響きにただ身を委ねるのではなく、その響き自体を自分達の手で生み出している、その感覚がたまらないのだと僕達は思う。 それ故に失望は大きい。朧げながらに理想のかたちは見出せるのに(それすらも日々変わっていくのだが)、常にそれは霞がかるほどに遠くにあり、まるで近付いているのかわからない。 そして、決定的に、僕達は楽器がうまくない。
それでも、ある一瞬、自分達にも信じられないような響きが生まれるときがある。 まるで雨上がりの虹のように、それはとても脆く儚い瞬間なのだけれど、その感覚が、僕達を捉えて放さない。
神様がくれる御褒美なのか、悪魔の蜜なのか、それはまるで媚薬のように。だからこそ、僕らは余韻のなかに、諦めよりも確かな何かを見出せるのだと思う。