『マイルス・デイヴィス』


Miles Davis

1926-1991

 その時僕の延髄から後頭部に衝撃の戦慄がはしった。音楽というものに今一歩のめり込むことを躊躇していた高校3年の夏のある日の出来事だった。たまたま購入した『Jazz Land』という雑誌でマイルス・デイヴィスの特集があってその中に載せてあった『My Funny Valentine』というアルバムのジャケットがやたらと気になってそれを手に入れてしまったのだ。
 レコードに針を下ろした瞬間からピアノのイントロが弾かれるまでの間合いが妙に引き込まれる感じがしたのを憶えている。そしてマイルスの登場となるのだがもうその時は僕の肉体はロウ人形のようであった。

 それまで自分の人生設計をある程度心の中に抱いていた僕はあの衝撃的な出来事以来自らの心の奥底に眠る何かを目覚めさせ、かつ先のことに対して何も確信めいた想いを持てなくなった己の存在を知ることになる。要するに完全にのめり込み己の人生の終着点が存在するであろう方向を確実に見据えてしまったのだ。

 僕はマニアでも評論家でもないのでここでこのレコードの内容をとやかく述べるつもりは全くない。だが、ただ一つ言えることは、ここに音楽をやる人間のある種の表現力の頂点が存在するということだ。その領域には誰も二度と踏み入ることは出来ないと思う。

 70年代半ばマイルスは健康を害し長い間沈黙(療養?)していた。あれはたしか僕が20才のとき、東京で修業のために暮らしていたときのことだと思う。ある雑誌の特集でマイルスの住所を手に入れたので彼に手紙を書いた。内容はほとんど憶えていないが、とにかく彼の復帰を強く待ち望む気持ちを書き記したと思う。しかしひとつだけ確かに憶えているのは、近い将来ニューヨークへ渡りジャズ・トランペッターとしてやっていくという強固な気持ちを込めたことだ。
 その手紙を彼がどのような気持ちで読んだかは僕には察しようがないが、「マイルス復活」を望むそのような手紙は少なからず届いていたのではなかったかと思う。そして僕のその手紙が彼の元へ届いたであろうその頃からわずか1年半で彼の復帰ライブをボストンで見ることになる。なぜ彼がボストンを最初に選んだかは理解出来ないがその時ぐらい「地球は僕の為に廻っている」と思ったことはない。まだアメリカに留学して何ヶ月も経たないときであった。

 左の写真がそのときのものだ。自分の人生に最も影響を与えた男が目の前に立ってラッパを吹いていた。普通のライブハウスなので、もう手の届きそうなところに「Miles」はいた。巨人の復帰ライブにしてはあまりにも狭すぎるような気がしたが、それも彼のこだわりだったのかもしれない。
 トランペットから最初の音が発せられたときほのかな感動を覚えた。その後は音楽が全く耳に入って来ずただただ潤んだ目で彼のことを食い入るように眺めていた。ものすごく幸せだった、ものすごく嬉しかった。
 正直言って彼のトランペットに最初から期待はしてなかった。そこに、目の前に現れさえしてくれればいいと思っていた。トランペットは非常にフィジカルな楽器なのでまだ50代半ばとはいえぼろぼろの体には無理があるのではないかと。しかし、確かに衰えは見せたものの彼のラッパの音は生きていた。

 次の写真はパーカッションのミノ・シネルがソロをとっているときのものだ。マイルスはキーボードかモニターのスピーカーに寄りかかって横向きになりミノの方に目をやっていた。そのとき僕はステージの一番前に駆け寄ってシャッターボタンを押し、次の瞬間大きな声で「Miles!!」と叫んでいた。すると彼は僕の方へ視線をやり、にやりと白い歯を見せて笑った。そのとき僕はマイルスは変わったんだと思った。復帰以前に語られていた彼のひととなりとは違った印象を受けた。演奏が終わりステージを下りるまで彼は聴衆に手を振っていた。

 ボストンのあの時を最後に僕は何度か機会があったにも関わらず「Miles」のコンサートに足を運ぶことはなかった。何故だか分からない。

 マンハッタンの「312 west 77th street 」。ここにかれの家があった。僕が20代半ばの頃、彼の家から歩いて20分ぐらいのところに住んでいたので挫けそうになったときに散歩がてらよく彼の家の前を通り過ぎた。本当はずっと立ち止まっていたかったのだけれども、変に誤解をうけては困るのでちらりと目をやるぐらいだった。ただそれだけでエネルギーが貯えられた。

「1991年9月28日Miles Dewey DavisV逝く」。 この日の昼過ぎ僕はタイム・スクエアを歩いていた。そこにある電光掲示板のテロップの「Miles」という文字が視界に入った。彼の訃報を伝えるものだった。
 彼の訃報に対するU.S.Aのマスコミの取り扱いは凄まじいものがあった。他の面は別にして、こういった巨人に対するアメリカ人の称え方は賞賛に値する。
 たとえば、それより以前にこういう事があった。ニューヨークのタウン・ホールで彼のコンサートが行われたとき、演奏中あのウイントン・マルサリスが無断で飛び入りした。マイルスはすかさず「Get Out!」か「Get Off!」とか言ったらしくウイントンはステージを下りそのままコンサートは何もなかったように終わったらしい。その夜遅くのC.B.Sのニュースで僕は実際に見たのだが、ウイントンがバツが悪そうにレポーターにインタビューをうけていて、よく耳を傾けていると前記のことがあったらしく、言い訳がましいく強がりを言っていた。まあその件に関しての賛否両論は別にして、そんなことがニュースになるぐらい帝王マイルスの存在は大きかった。
 以上のようなことからも彼の亡くなったときの状況が察せられると思う。

 アルバム『My Funny Valentine』のタイトル曲の演奏を聞いていると未だに鳥肌が立つ。息遣いまでとらえられるこの録音を含め他に残した彼の遺産は僕のような人達はもちろんのこと、ジャズを愛する人々、マイルス・デイヴィスをこよなく敬愛する人々にとって永遠にバイブルで有り続けることだろう。

 Milesのあのときの笑顔が忘れられない。