『ドン・チェリーそのカリスマ』


Donald Cherry

1936-1995

 その時、ステージで後光を背にした一人の黒人ジャズ・ミュージシャンに、僕は限りなく自然に近いほのかな感動を覚えた。そしてその日、彼は最後までトランペットを吹くことはなかった。

 ドン・チェリー。1950年代末、オーネット・コールマンと共に出現して新たなムーブメントを巻き起こし、一世を風靡したトランペッターだ。デビュー当時の辛辣な音楽性に相反して、晩年はナチュラリズムの最先端を走っていた。音楽の素材は変化しても、彼の一貫した生きざま(音楽性)に変化は微塵も見られなかった。

 1984年夏、ニューヨークはマンハッタンにあるブリーカー・ストリート(ヴィレッジ)。今はもうなくなってしまったヴィレッジ・ゲイトで僕がはじめてその歴史上の人物を目の当たりにしたその日、彼はピアノを弾き、一弦ベース(たぶんアフリカの民族楽器。インドのシタールをちょっと大きくしたような感じ)を延々と爪弾き、聴衆、と言うより観客を自分の世界へ引きずり込んだあげく、最終的に嘲笑うかのように現実世界に取り残して、踵を返して去っていった。これまで彼の音楽にはレコードでしか接することがなかったのだけれど、実際ナマで見てこれほどまでに一音楽家の奥行きの深さと言おうか、土台の大きさを痛感させられたことはなかった。通常、楽器演奏家は当然その専門楽器の演奏能力に対して批評の矛先が向けられたり、感想を述べられたりするのだけれど、彼を評価する場合その領域を遥かに超えている、と言うよりその様な行為そのものがおこがましく思えてくる。

 それ以降にこういう事もあった。あるジャズコンサートをテレビで見ていたら突然観客席から一人の人物が呼び上げられ飛び入りで演奏を始めたのである。その人物とはドン・チェリーだった。リズムセクションはというと、ピアノはハービー・ハンコック、ベースはロン・カーター、ドラムスはアル・フォスターで、ドンがおもむろに曲名を告げハービーのイントロから入りメロディーからアドリブ・ソロへと流れていった。しかし、曲が進行するにつれて彼(ドン)がときおりピアニストを振り返る場面が出てきて、とうとうハービーがお手上げをしてほとんど何もしなくなってしまって、ハービーらしくない世に言うところの普通の伴奏で続けて事無きを得た。

 だだここで付け加えなければならないのは、ハービーが本当に両手を上げるしぐさを一瞬見せたことと、ドンが一言も口に出して何も言わなかった事だ。僕自身これ以上この件に対して個人的意見を付け加えるのは不必要だと思われるが、以前にそのすごさを目の当たりにしているだけに、ハービーの気持ちを察するには十分であると思えた。

 こういった場合、共演者が偉大なるハービーのトリオであるので、一般目にはフロントの高慢かわがままに見えがちなのだが、彼にはそれを全く感じさせない恐ろしいまでに自然すぎるオーラが存在した。

 最初に記したようにオーネット・コールマンと鮮烈なニュー・ジャズ宣言をして以降彼のレーコーディングの履歴は圧倒されるものがある。ここに僕の愛聴盤を一枚上げさせて頂くとする。アトランティックに吹き込まれたこのアルバムはオーネットのリーダー作だがドンの存在感はすさまじいものがある。一般に同じ楽器のやることは発想からイメージ、意図するところまでだいたい見えてくるものだが、彼に関しては全くのところつかみ所がない。要するに別世界でやっているとしか判断しようが無い。もちろん晩年の彼の行動を見聞きしていると、実際の生活そのものが浮世離れしていたみたいだけれど・・・・・・・。しかしながらそんな人たちは世の中には沢山いるわけで、その感性をダイレクトに人々の心に注ぎ込めた彼の存在性は注目に値すると思う。

アルバム・データは以下とうり。

Ornette! Ornette Coleman
Atlantic SD 1378
New York, January 31, 1961
Ornette Coleman(as)
Don Cherry(tp)
Scott LaFaro(b)
Ed Blackwell(d)

 ここで注目すべきは当時のビル・エバンス・トリオのべーシスト、スコット・ラファロと、マル・ウオルドロンと共にエリック・ドルフィー&ブッカー・リトル・バンドのメンバーであったドラムスのエド・ブラックウエルの参加である。個性派ぞろいの当時のニューヨーク・ジャズ・シーンにおいてもなお、彼らの存在は特別なもののように僕には感じられる。内容に関しては前記のものと違って音源が存在するので、僕がしゃしゃり出るべきものではないのだけれど、絶句したのは僕だけであろうか。

 通常、誰でも勝負所では自分の得意技をひけらかしたくなるものだし、慣れた領域でのパーフォーマンスを望むものである。しかしながら、ドン・チェリーという人物に関してそれらの小細工は全く異次元の出来事であったに過ぎない。そういった感想は彼を含めてたくさんの芸術家のパーフォーマンスを目の当たりすればするほどに深まってくる。個人的なことを言わせてもらえば、その辺のところが僕の目標であり、理想でもある。当然、生涯かけても到達不可能なんだけれど。