『ブルースの真髄』

― 音上の蜃気楼 ―

 一概にブルースと言ってもその言葉自体は非常に抽象的で、その本質を具体的に表現するのはとても困難である。ただひとつ確かなのは、それが人の魂から発せられるあるニュアンス(精神)を含むものであるということだ。しかしながら音楽を演奏するという観念から見るとそれは非常に具体性をおびてくる。しかしながら、それはあくまで抽象的な域を出ず輪郭を薄っすら感じる程度にすぎない。ところが、聞き手の立場から見るとその本質が聴覚を通じて入ってくる。その度合いは各自千差万別だが明らかにとらえることが出来るのだ。

 ブルースという言葉自体はアメリカの黒人音楽にそのルーツを見ることが出来るが、ブルーノートやブルース・スケールといった具体的なものをターゲットにした場合、明らかにその起源はアフリカ(主に西アフリカ)である。それを知ってか知らずか西洋音楽と黒人音楽(アフリカ音楽)の融合だと述べる人も多く、実際そう思っている人がほとんどであるのも事実である。しかしながら、現在の西洋化されたものではなく伝統的な音楽を聞き比べてみると種族(国)による大きな違いはあっても、そのどれもが西洋音楽とは明らかに隔絶されたものである実際僕は50から60の種族の音楽を聞き比べてみたが、近いものどうしは何らかの共通点は見ることは出来るものの、そのほとんどは似て非なるものであった。リズムにおいてはもともと他の種族との違いを見極めるために自然発生的或いは意図的に造られたものだが、音階に至っては独自のものも見られた。

 世の中にはブルーノートやブルース・スケール(ブルーノート・スケール)に関して述べられた書物は多々ある。しかしながら断定的なブルーノート・スケールなど存在するはずがないのは前述した事柄から推察出来るだろう。アフリカ音楽の多くは西洋音楽で言うところのいわゆるブルーノートを含むペンタトニック(5音階)スケールからなるが、そのピッチのバランスはまちまちで、到底特定出来るものではなく、中にはオクターブを均等に7等分するものもあり、西洋音楽に耳慣れた人々の耳には調子外れに聞こえるかもしれない。ルートを基準に3度と5度、7度が1/4音低くなったものがとブルーノートでそれと西洋音階を合わせたものがブルーノート・スケールだという親切(良心的)な書物もあるがそれも「仮のブルーノート・スケール」でしかない。

 ここまで来ると心の繊細な人はブルーノートに手を出せなくなるだろう 。10数年前ニューヨークのハーレムにある「Sutton」というジャズクラブでベースのレジー・ワークマン氏主催のオープンジャムセッションがあって、ブルースが始まると黒人の若手プレーヤー達がかなり緊張していた記憶がある。特にスローテンポになるともうほとんどの若手は逃げていた。その中には後に活躍した人も何人かいたぐらいなのに、どうしてなのかその時の僕には解せなかった。場所が場所、相手が相手だけに知り過ぎることの怖さ、知らな過ぎることの恐ろしさを後になってつくづく感じた。というのは、実際それまでも僕の生活圏のかなりの割合で黒人とコミュニケーションを持つことが多かったのだが、やはりそれだけでは怖さを感じることは出来なかった。彼らと寝食を共にし、演奏活動を黒人居住区でのみ何年も繰り広げることによって、その意味合いを深く感じることができたような気がした。そして僕自身がそれまで積み上げてきたすべてのアドリブ・フレーズを捨て去ることになったのである。そうしなければ彼らの前で一音も奏でることが出来なかったのだ。

 数百年あるいは数千年かけて熟成された数限りない部族の叫びが歴史的背景も絡み、非常にストイックな西洋音楽と関わったことで半ば強制的に発生したのが現在のブルーノートでありブルース・スケール(ブルーノート・スケール)であることは前述のとおりである。そしてそれらをどう解釈しどう演奏するかは個人の勝手であるのだ。

 最後に僕自身の見解を述べさせて頂くとする。そうでもしなければこの項は永遠に続きそうだからだ。

 僕自身、人間(人類)の存在性というものをあまり高く評価していない。地球を価値観の基準とするならば人間は最もうぬぼれの強い思い上がった生物だと言えるだろう。まあそういった価値観や表現自体が人間にしか当てはまらないのかもしれない。要するに身の程を知らないということだ。ただブルースの存在性というものは人類の宝だと思えて仕方がない。それは僕自身の中にある宇宙観(世界観)でのブルースの存在が大きいだけのことかも知れない。

Blues はあらゆる形容詞が付けられる魔法の言葉です。
Blue Note はあらゆる感情を込められる魔法の音です。

 P.S:この項に関して譜例を掲載することは主旨に反すると思えたので、あえて文字だけにしました。