『追悼ビリー・テイラー』


Billy Taylor

1921-2010

 

 先日写真を整理しようと思って、亡き父がスクラップに使っていた僕のアメリカ滞在時代のアルバムを開けたところ1通の手紙が床に落ちた。偉大なピアニスト「ビリー・テイラー」から僕へのお礼の手紙だった。これは珍しいと思いいつも一緒に演っているピアノの藤井くんに写メで送ったところ彼からの返信メールでビリー・テイラーが亡くなっていたことをそのとき初めて知った。

 あまりというか、かなりすごいミュージシャンなのに何故だか日本のメディアに取り上げられることがほとんどない賢人であるが、ジャズの文化としての位置づけに少なからず貢献した偉大な人物であることは間違いない。
 賢人の経歴などはウィキペディアで見ていただければわかると思ったが、確認してみると日本語版はなく英語版ででしかないのであしからず。1944年にテナーのベン・ウエブスターのバンドでプロデビューして以来演奏を続け1949年にバードランドのハウスピアノのとなってそのキャリアの地盤を築いていった。バードランドでの最初の共演者はあのチャーリー・パーカーであったことからも彼のキャリアがいかに長きにあったかわかるだろう。その間サヴォイやプレスティッジなどのレーベルでのレコーディングを皮切りに多くのアルバムを残している。そしてテレビやラジオのメディアにも精力的に進出していっておりその人柄と美声が大きく影響しているのは事実であろう。作曲でもプチヒットをとばしたりしている。
 賢人がプレイヤーとしていかに素晴らしかったかはその足跡を確認していただければ理解できるし、晩年に重きを置いていたプロデューサーあるいは教育者としての実績も同様である。

 僕自身が賢人をより身近に意識したのはニューヨーク名物ジャズ・モービル(無料屋外移動式ライブハウス)やさまざまの無料のジャズに関するイベントである。お金のない学生やミュージシャン、それに加え普段超一流プレーヤーの生演奏に接することに少ない老若男女にとってそれはそれは素晴らしい贈り物なのである。1960年代に彼が中心となって立ち上げたものらしい。あと詳しいことはよくわからないがジャズ・モービル主催の格安ジャズ学校をハーレム(昼間は公立小学校)で立ち上げたのもそのプロジェクトの一環だ。
 僕も友人でピアノの佐伯氏に誘われて何期か授業を受けた。現在もやっているかどうかわからないが、僕が通ったのは1980年代前半で、ジャズ・モービルが開催されない冬の間の期間で、授業料は週一(何ヶ月かは覚えてない)で一括数十ドルぐらいで格安だった記憶がある。
 もともと貧困層の子供たちへのジャズの普及のために立ち上げられたんだと思う。当時校長はトランペットのジミー・オーエンスで講師陣はジャズ・モービルに出演していたミュージシャンを中心としたそうそうたるメンバーだった。新学期最初の挨拶というか訓示でオーエンス校長が何人かのジャズがかったコマーシャルミュージックをやっている有名白人トランペッター達のことをケチョン・ケチョンにけなしていた記憶が鮮明に残っている。白人の生徒も結構いたにも関わらずよくもそこまで言えるのかと思うほどだった。後になってわかったことだけど、それは決してビリーテーラーの思想を反映するものではなかった。(もう時効なのでジミーのことは許してあげてください)

 前記の手紙のきっかけもジャズ・モービル主催のコンサートで、ビリー(その時は歴史上の人物と同姓同名のおじさんだと思っていた)に電話で呼び出されて目の前でオーディションさされてすぐリハーサルに入った記憶がある(何分昔のことなので)。それから本番で演る「チュニジアの夜」をジミー・オーエンス、大野俊三、タイガー大越各氏との4本トランペット(このことは大野俊三氏の項でも記述)でその場でハーモニーなどをヘッドアレンジして音あわせを終了した。僕は男性出演者のなかで最年少かつ全く社交的な人間ではなかったけれど、ビリーは常にそのことを気にかけてくれていた。
  コンサート当日も僕があがらないように色々気を使ってくれていたにもかかわらず(僕はあがり症ではない)、出番直前まで控え室でくつろいでいたのだけれど、いまは亡きグレートなトロンボーンプレイヤーのベニー・パウエル氏が「タカヤ出番だからビリーがステージのソデまで来いって」と言ったので慌てて出ていった。その時ステージでは秋吉敏子さんのトリオの演奏の真っ最中だった。そしてビリーが満面の笑顔で僕に色々話しかけてくれて、秋吉さんのソロが終わったと同時に背中を優しく押してくれた・・・・・真っ白い歯をこれでもかと輝かせて。
 ステージ中央のスポットライトの浴びたマイクに向かってゆっくり歩く僕は、2千人の聴衆に僕を紹介するビリーの野太く良く響く声と暖かい人柄に包まれて秋吉さんのトリオをバックに普段どおりのソロをする準備が十分なぐらい出来ていた。
 その後届いたのが上記の賢人からの手書きの礼状である。多分こういったイベントのゲストプレーヤー全員に届けていたのだろうけど、ミュージシャン・教育者他諸々等、色々背負うものがあって多忙極まりないであろうことから察すると当時も今でも「Dr.Billy Taylor」に対する尊敬の念は変わらない。ー合掌ー

追伸:Billy Taylorは1944年のマンハッタン52丁目時代からから亡くなるまでかなり音源や教育関連の資料も残しており興味のある方はどうぞ。YOUTUBEでもいくつかの映像を視聴することが出来ます。びっくりするほどのピアニストです。


Billy Taylor Trio At Town Hall」(Prestig) ,At The London House ( Paramount)