(1988〜1996)
(2000〜20    

俺の青春を捧げたバンド『THE KIDS』
生涯最も愛したバンド 『THE KIDS』
21世紀に残したいバンド『THE KIDS』

SUNSET CALLING 89’

KNIFE 90’

JAP 91’

REAL LOVE 93’

俺はこのバンドにアマチュア時代から数えると8年間ほど在籍していた
THE KIDSというバンドは1980年にVo.Gの桐明孝治をリーダーに
結成されたJapanese Rock Band!である
エーッ!《{◎k◎}》!! もう20年以上もやってるのー?!
そうです、継続は力なり!なのです
俺は1996年にさまざまな理由で一度脱退したが2000年1月29日
博多Be-1、結成20周年LIVEで一時復帰した
脱退・復帰という言葉を使ったが実際のところは
ずっとTHE KIDSのメンバーだったのです(リカイにクルしむところでしょうが)
俺のドラムのケースにはずっとTHE KIDSのロゴが刻印してあるのが
なによりの証拠である・・・(ますますわかんない?)
ま、桐明が言うところの「みんなKIDS!!」
つまり、KIDSという名の母胎から産まれた子供達・・・
たとえばスタッフの人でもKIDSに心底魂を捧げた人にも
KIDSの一員であると思っていて欲しい・・・という桐明の親心である
というわけで現在では全国でKIDSのメンバーは何十人にも及ぶ
と言われています・・・というのは冗談ですが
要するに俺もその一員であるって事なのですよ
世界には様々なバンドが存在するけど、こんな形態のバンドがあってもいいじゃん

そもそも俺が21歳の時からプロドラマーとしての仕事をしていて
なんかいくらやっても結局他人事のような気がして行き詰まっていた頃
ちょうどタイミング良く桐明孝治(以下、桐やん)に出会ったのです
桐やんも博多から独り上京し巧いメンバーを捜し求めていたらしい
そしてある日俺と桐やんの共通の友人の引き合わせで俺達は出逢ったのである
KIDS自体元々存在していたバンドで俺が一から始めたバンドではないだけに
半ば俺も最初はサポート的なニュアンスがあったことは否めない
でも何度も桐やんと音を出し話をしていくうちにだんだんバンド魂が
俺の中に宿ってきた・・・あんなに真剣にバンドに取り組むのは初めてだった
ライブを数本こなしてお客さんも徐々に増えてきたころ
あの「イカ天」の放送がはじまったのである・・・
俺はアマチュアがテレビに出る機会なんてそうあるもんじゃないから
絶対出演すべきだ、とメンバーに熱弁した・・・ところが桐やんは
メディアを利用しなくてもお客さんを増やす自信があったのかテレビ出演を拒んだ
ま、結果的に俺の押し勝ちであの「イカ天」に出演する事になったのである
出るとなったら桐やんも本気です!スタジオで死ぬ程練習して
本番に臨みました・・・結果はグランプリさえ取れなかったが
結局番組史上「在宅審査員賞」のバラの数が一番多かったと聞いています
負け惜しみじゃなくあの場でグランプリを取らなくて良かったと思う
それはやっぱり悔しかったけど充分本番でかっこいい演奏が出来たので
自分たちは満足だった・・・あそこでグランプリを取っていたら
次週も番組に出ないといけないしヘタしたらそのまた次も・・・
そうなると「イカ天バンド」という強いイメージがついてしまう
その後のバンド活動の幅が狭まる・・・といった危険性があるので
結果的にサラっと出演して正解だったのである
TVのオンエアーがあった次のライブ「新宿ロフト」には約600人が集まり
100人以上の人がロフトの中にに入れなかったのである
あらためてマスメディアの偉大さを実感した
当然事務所やレコードメーカーのoffer(オファー)も実際もの凄かった
そのofferの中から自分たちで協議の結果MotherとMeldacに決めた
事務所&メーカーにもお世話になったけど結局良い結果が出せずじまいでした
そして手元に残ったのは俺にしてみれば4枚のアルバムだけであった
でも今となってはこれが俺の財産かなーってたった4枚のCDだけどそう思うことがある
ベルリンの壁が崩壊する1週間前に「SUNSET CALLING]のP.V撮りをした事...
「KNIFE」のMasteringでLondonのAbbey Road studioでRecしたこと...
こんな夢に限りなく近いことなんか滅多にあるこっちゃない
本当にいい経験をさせてもらいました・・・売れりゃーなお良かったけどね

最後に俺がTHE KIDSに対して言いたいのは
ずっと歩き続けていてください!!(走り続けると疲れちゃうからね...)

end