動物の生態に擬態がある。まるで知恵を絞ってなし遂げたもののようで、しかも神秘的。人は関心するばかりだ。しかし、あれは現実の生活環境に偶然適応した結果の“積み重ね”。一般的には“進化”ともいうそうだが…。
そもそも、進化/退化という概念自体に疑問がある。
なぜなら、なにかを得れば必ずなにかを失っているわけで、“進化”はたまたま現時点の環境に則して、有利に存在している結果に過ぎない。
単純で原始的なものが複雑で多様なものになったからといって、それが絶対的に“優れた”もの−とは必ずしもいえない。
今、音楽を作ってネットで公表してる。以前はそんな便利で楽しいことが可能などとは夢にも思っていなかった。
しかし、それが実現したのは、やはり偶然の積み重ねであって、もし、ネット環境も制作環境もこの世に存在しなかったら、別のことをやっていたに過ぎない。
便利な道具を手に入れたことによって得たものは大きいが、すり切れるほど同じレコードを聴いたり繰り返し同じビデオを観たり、本をゆっくり読んだり、−などという行為はいつのまにか失った。
感受性はどうだろうか?自覚をもって音楽に触れ始めた頃のそれを維持しているか?むしろ“退化”していないだろうか?しかし、仮に“退化”しているとしても、それに気を揉む必要はないだろう。
「生きていくこと」ってどういうことだろう?と考えると、いかに上手にヒマをつぶすか−という行為の繰り返しではないかと思う。今できることを粛々とこなしていく−そういうこと。
名を売りたい、目立ちたい、人に認められたい、目標を掲げ自己実現に向かって前進する。生きている実感として、そう思い描くことは理解できるが…。
「別にどうでもいいんじゃないの?」などと言うと、不思議な顔をされる。「ではなぜ音楽を作ったりしているの?」と返される。「とぼけないで本音を言いなさいよ!」とも言われる。どうやら、威勢のよい野望でも語らないと納得してもらえないようだ。でも、、、そのようなものは本当にないのだから仕方がない。
“遊び”のような軽いフットワークで仕事をこなし、“仕事”のようにこだわりを持って真剣に遊ぶ。そうしたいし、それでよいと思っている。
誰が言ったか知らないが、高山の嶺に美木なしという文句が好きだ。
高山の嶺に生えてるような木々は、厳しい環境にさらされ、美しい姿を保つことはできない。同様に、地位の高い人もまわりの目にさらされることが多くなるので、絶えず人にねたまれ、評判や名声を持ち続けるのが困難。−というのが本来の意味だそうだ。しかし、なぜか別の解釈を勝手にしている。
《一番てっぺんを目指して懸命に頑張ろうが、やっとのことでたどりつくと、無常観だけがそこにある》 そう捉えていた。
人は、さらに上へ、さらに高いところへ、さらに、さらにと頑張る。やがてたどりつくのは“約束された安息地”であると。しかしたどりついてみれば、清々しくも荒涼とした風景が広がっているだけ。そんなことを他人に言えば、「寂しい話だね」と返されるかもしれないが。
清々しくも荒涼とした風景−それでよいと思う。
2003.2