ドトールの老婆

ある日曜日、バンドの練習で東京に出かけ、午後一時頃、上野駅構内のコーヒー屋に入った。
テキパキと仕事をこなす従業員、一人なにかの書類に目を通す若い女性、たわいない話に夢中な女子高生、タバコを吹かしながら考え事をする30代の男性、デートらしきカップル・・・。
席はほぼ満杯。ボクは窓際に中を向いて座り、コーヒーをすすりながらそんな他人をボーッと観察していた。

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しばらくして、背中にリュックを背負い、杖をついた一人の老婆が入ってきた。この店の雰囲気からすれば、めずらしい客だが、けして貧相ではない。周囲は相変わらずうるさいが、彼女はそんなことなど全く気にかけることもなく、カウンターに行き、コーヒーを注文した。
セルフサービスのため渡されたそのカップを不安定に右手に持ち、空いた席を見つける。しかし椅子が高く、なかなか座れない。杖を置く場所もないようで、もたもたしている。それならばと、左手に持った杖をテーブルの上に!立てかけた。右手のコーヒーも、テーブルに。リュックはいったんテーブルに置き、やっとの思いで高い椅子に座り、リュックを膝に戻す。

(さぁ、コーヒーを飲むことが出来そうだナ…)
いや、今度はシュガーの封の切れ目がわからず必死に探している。

約一分後、カウンターを振り返り、「すいません−」と従業員の女の子に声をかける。その声はか細く、周囲の喧噪のなかではいっこうに気づいてもらえない。4回目でやっと気づいてもらえた。砂糖が取り出せない旨を告げた。
しかし、アルバイトの女の子は、そうした用事を受けたことが無いようで、戸惑いながらも駆けつける。どうやら新しいシュガーに取り替えてもらい、封も切ってもらったみたいだ。(さぁ、やっとコーヒーが飲めるんだな…) と思いきや、両手でカップを抱えて休まず一気に飲み干す。

やっとの思いで椅子に座り、やっとの思いでコーヒーを口にしたのに、ゆっくりくつろぐわけでもなく、すぐ帰り支度を始めた。
だからといって店に不満があるようでもない。むしろ穏やかな表情をしている。そして、カウンター右にカップを返却し、何ごともなかったように帰っていった。

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彼女の行動は明快だ。そして感心したことが、たくさんある。
おそらく、連れ合いに先立たれ?一人で生きているから、他人の目を気にしない。70代後半のようだが、日本茶よりもコーヒーが大好きなようだ。少なくともボクの周りでは、そんな老人はめずらしい。

当たり前のように、ファーストフードのコーヒー屋に入り、目的を達成することに全神経を集中させる。事が済んだら帰るだけだ。

おそらく、日頃茶飲み話も嫌いだろうし、お愛想笑いもしないだろう。
しかし、その物腰には品が保たれている。そして礼儀もちゃんと心得ている。ゆったりした柔らかい口調で「どうもありがと」と女の子に礼を告げていた。

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たまに東京に行くと、こんなささいなことに遭遇し、なにか儲けた気分になる。
現れ、そして去るまで、この一連の老婆の振るまいを見ていたのは、ボク一人であったようだ。もちろん、従業員の女の子はなにごとも無かったように、その後も相変わらずテキパキと注文をこなしていたのは言うまでもない。

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