旧制中学卒業の頃、兵隊として中国に渡り、大戦末期には最激戦のビルマに渡った。
日本が弱体化したその頃は、なにしろ国内にも物資が無かったから、ビルマの戦地にモノが届くはずがない。バタバタと戦友が死んでゆくのを目の当たりにしながら、まさに生き地獄を体現した。
彼に仕えたのは一頭の馬で、時に○郎はその衰弱した馬に配慮し、背に乗らず、自身も自力で歩けなくなると、その馬の尻尾に捕まって、どうにか立っていた。
その馬にしても、後ろ足で○郎をけ飛ばす気力がすでになく、自分も生まれたところに帰りたい−と、まるで訴えているようで、その瞳は濡れていたという。
父は、○郎が終戦後に実家にたどり着いた時、体を洗ってやるよう母親(祖母)から言われ、その裸体を見たら、骨と皮だけで絶句したそうだ。
--------------------------------------
戦後、○郎は、運良く一部上場の商社に入社し、敵は多いが親分肌で人望はすこぶる厚く、日本の高度経済成長の高揚を肌で感じながら、株で大儲けし富を得た。いわゆる、“たたき上げのやり手”だったわけだ。
そんな人間だから、俺には一人前の男としてしっかりした地位を築け−と、亡くなる一週間前もベッドの上で言っていた。
俺はただ、うなずきもせずに黙っていた。社会的地位を築く−という価値観に興味も無く、重病の彼と今更口論する気にもなれなかった。
一対一で面会したのだが、最後、握手をしての別れ際に、「医者は良い人かい?」と聞いたら、「そりゃぁ、うまくやっているよ。カネはうんと握らせているよ。世の中はいつになってもドロボーはいなくならないだろ。世間というモノは表があれば必ず裏もあるんだよ」と、初めてその場で表情が緩んだ。
カネを受け取る医者も医者だが、○郎は最期の贅沢として“安心”を手に入れたかったのだろうから、その思いを理解してあげよう−と思った。
そして彼の病を悲しむより、カネで買って一抹の安堵を得たその姿が、俺には切なかった。
地獄のような戦争体験と、その後の高度経済成長に乗じた商才の開花、そして、肺と肝臓の癌による急死。まるで国の運命をなぞっているような人生だったと思う。
2001.4