明治時代の初期から、欧米に習って日本国歌の制作は模索されていた。
しかし、日本においてはまさに初めての試みであり、当時、【国歌】という概念が成熟しているはずもなく、仮に理屈で理解しても、世に国家が存続する限り永遠に歌い継がれる、そんな実感は無理だったはずだ。
現在からしてみれば、極めて安易に作られたと推測される。
最初いくつかの試作があり、最終的に残ったものは、歌詞は古今和歌集を原典とする薩摩琵琶の曲【蓬莱山】の詞の中から一部分を抽出し、それに雅楽風の旋律をつけ(その時点では和音は存在しない)、あとから西洋由来の吹奏楽用に和音を加えて編曲したものだそうだ。明治13年・海軍省制作のそれが定着し、今日に至っているとのこと。
ある意味で和洋折衷のフュージョンの先駆。そしてそれが成功した、とは言い難い。
首を傾げるのは、歌詞が先にあるのに音数を増やして、キミガ(ア)ヨ(オ)ハ、チヨニ(イイ)、ム(ウ)ス(ウ)マ(アア)デと、なぜ母音をのばす旋律にしたのか?
また[さざれ石]という一つの名詞が分断され、かつ最後のイシのところで、なぜ音階が上昇してしまうのか?
文部省唱歌や山田耕筰の楽曲を思い浮かべていただきたい。元々ある言葉の抑揚を無視する手法は、当時は認知されていない。歌詞が先にあるのに、旋律優先で歌詞を無理矢理乗せたからか?なぜ?どうもおかしい。
よく見かける軍歌調の社歌や校歌にくらべればよい曲調とは思う。が、日本人の心・感性に訴えず、いまひとつ親しめない、なじめない・・・その大きな理由が以上のことと思えてならない。
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