高校の頃は、ラジオのディレクターをやりたいと密かに思い描いていたのだが、精神的に子供だったし、親の意向に背くだけの裏付けも無かったわけで、ずるずると薬剤師をめざす方向に傾いた。
しかし、入学してからどうにもあの授業と実習になじめず、白衣姿にアレルギーを起こした。生理的違和感の固まりだった。そして―――― プッツン。
親に内緒で勝手に休学届けを出し、いかがわしいぬいぐるみ(キャラコピ粗悪品)路上販売のバイトをしながら生活をし、あふれんばかりの、しかも貧しい自由を手にした。
これは逃避なのか、それとも自我なのか、自問自答し続けながら。そして翌年、結局答えが出ないまま、中途半端なままで情けなくも大学に戻った。
親には心配をかけたが、自分の中ではどうしても《無駄な時間》が必要だったのだった。
大学一年生のときは寮。二年生から東京・世田谷のアパートに住んだ。
78年、夏休みになって、突拍子もないことを行動に移した。それは、チャリンコ(ミニサイクルの自転車)で茨城の実家まで帰ってみよう−ということ。早速、道路地図を買ってきて道順を調べ、翌日早朝に決行した。
都心をチャリンコで突き抜け、国道6号を北上した。
新宿の繁華街や永田町をチャリンコで走る−いざ、やってみると風景の一部としてかなり浮いていた。なにせ、まるで近所に住んでいるようなチャリンコなのだ。たいがいの人は歩いていたわけで。(当たり前だ)
東京を走っている間は景色がどんどん変化していき飽きないが、千葉に入り一本道の国道を走り始めると、いくら走っても同じ景色が続き、滅入った。“またずれ”もしてきた。
しかし、開き直ってペダルを踏み続けるとやがて無心になり、数時間後には茨城県に入れた。早朝から8時間くらいかかったろうか、夕方に実家に着いた。なにか不思議な気分だった。もちろん家族は唖然としていた。
翌々日、コースを変えて埼玉県を通過する方法でまた都心を走り、アパートに戻った。こちらのコースのほうが幾分か快適だった。
ただ、独りぼっちで−
横を通る車も気にせず、歩く人も気にせず、いつたどり着くかも気にせず、雨が降り出すことも考えず、チャリンコが故障することも考えず、ひたすらペダルをこいだあの二日間は、とても充実した時間だった。
それから数日後、軽音楽部の合宿に参加。
あの頃は今考えると、なーんにもわかっちゃいなかった。今となっては、懐かしいというよりも、ただ恥ずかしい思いの方が大きい。
日記を毎日書いていたのも、あの頃。あとから何回か読み返しているが、今は押し入れのダンボール箱の中で眠っている。
「これでいいのだろうか?わからない…」という漠然とした焦燥感がいつも頭をよぎっていた。
1977〜78年といえば、パンクロック/ニューウエーヴが台頭した。レゲエに出会ったのもこの頃。スプリングスティーンが「闇に吠える街」を発表した年でもある。ロックのレコードをよく聴いていたが、必ずしも日常とは直結しなかった。
1978年、軽音楽部の合宿にて