− 政治不信再考 −



 このところ「政治不信」が叫ばれている。もちろん日本の話であるが、 では、いったいそれらは何に対する不信だろうか。

 最近のワイドショーを最も騒がせているのは特定一議員をめぐる疑念であるのは間違いない。 しかしながら、先の「不信」はこの議員に対する「疑念」に必ずしも一致するわけではない。

 そもそもこの特定一議員の名前はなぜ挙がったか。
 ことの発端はアフガン復興支援会議へのNGO参加をめぐる問題であった。 各国NGOが集まるこの会議において、外務省が日本の特定NGOの参加を差し止めた。 そして、そこには特定一議員からの外務省への圧力があったのだという。 本来、政策介入の対象とならないはずのNGO(非政府組織)に役所が干渉し、 それだけでも十分問題ではあるが、その上、それが特定一議員からの圧力に拠る ということで、非難の矛先はそちらに向かったのである。
 これを皮切りに、外相・外務省・一議員といった三角関係のもつれが公となり、 予算委員会での野党側による糾弾、役所の発言のズレ、対立などを経て、 「今年度中に予算審議を終わらせる」という政府与党方針への弊害を危惧した首相は 「喧嘩両成敗」「三方一両損」を座右に据えて更迭・辞任で一時の決着をみようとした。
 それに満足しなかった野党は、集中審議での質疑において前外相・議員を参考人として招致、 それでも事実関係の確認は平行線をたどり、議員に対する新たな疑惑は増える一方、 ついには証人喚問に至ったのである。

 これだけ多くのことを短期間に次々と目の当たりにすると、ことの本質を見失いそうなので、 一つずつ見ていこうと思うが、その前にこの間、内閣支持率が約80%から50%未満へと急落したことを 事実として伝えておこう。そしてこの推移こそが政治不信の表れであると考える。

 まず第一にアフガン復興支援会議への特定NGO参加差し止め問題。
外務省によると、某紙朝刊においてこのNGOの会長(理事)が外務省を批判したことを 直接の理由としている。のちにこの見解は特定一議員からの圧力に拠るという疑惑 がでているが、いずれにしても外務省批判が理由であったのは間違いなさそうだ。
 そもそもNGO(非政府組織)とは、いずれの政府組織にも属さず、基本的に経営基盤を持たないため 圧力団体とも性格を異にしている。またその中でも営利目的をもたないものはNPO(非営利団体) と呼ばれ、申請により法人税や常設職員の諸税が免除されるNPO法人として法人格が与えられる。
 話が逸れたが、要するにNGOは政府組織(ここでは外務省)の下に付くものでも上に立つものでもない。 よってその関係は、たとえアフガン復興支援の必要経費として外務省から助成金が出ていたとしても、 一方的なコントロールのおよぶ範チュウにはないのである。それ以前に、外務省からの助成歳出は 国民からの税金であり、それを外部組織に委託するということは、協力を呼びかける、むしろ 外務省側からお願いするという下手の姿勢こそが本来の姿である。外務省に限らずこうしたトップ ダウン式の役所体質そのものの改善は、縦割り構造の解消、国民サービスの向上などを誘い、 結果的に構造改革や経済活性化に繋がるのである。
 またもう一つの問題としては、特定議員の役所への圧力が常時から影響力を持っていたかどうかである。 NGO参加差し止め決定が外相ではなく特定議員によって、しかも外相の知らないところで指示され、 そのことが明るみに出ない段階で国際会議は始まっていた。国会議員による各省庁への助言は常時から あってもおかしくないし、さして問題でもない。しかしながらその影響力が大臣のそれを越すという状況は あってはならない。なぜならそこには個人や特定私人への利得が発生する恐れがあるからだ。いわゆる 裏取引というものが公然と認められる状況であれば、例え政治全体が官僚主導型から議員主導型へと 転換したところで結果は何も変わらない。現内閣が真に構造改革を謳うのであれば本来真っ先に着手 すべき点であるのではないか。そして多くの国民が首相・外相はじめ今期内閣に期待していたのは、そう いった不透明性の排除ではなかったか。

 次に、首相の三者に対する実質上の更迭についてであるが、一方的に加熱するマスコミ報道と 予算委における糾弾での予算審議の不成立を食い止めようとする判断であったが、やはりこの判断は 納得のいくものではない。国際会議への参加・不参加決定は一省庁の決定には留まらず国家意思決定 という性格を持つ。その決定の経緯認識が省と大臣の間で溝があるばかりでなく、外部からの圧力が 絡んでいたというのだから、国としてはその経緯を調査・確認する責任があるのは当然である。 しかしながら外務省の内部監査機構は一向に機能せず、また内閣としても調査室を諮問機関として 設置しようとはしなかった。そしてこの更迭である。もちろんこれらの三者は騒動の当事者として 何らかの責任をとる必要はあった。しかし順序としては状況解明が先である。何が原因で何が 問題であったか、そこを明らかにしない限り幾人の首を切ったところで再び同じことが起こりうる。 よってこれらの更迭という判断は、一見して判断力と決断力を見せているようではあるが、実際には 首相の裁量放棄以外の何ものでもない。「責任」が行き場を失って彷徨っている。

 ところでこの特定一議員、彼をめぐる疑念とは何か。タイムリーな話題であるのでこの拙文 を書いている時点ですでに状況は変わっているであろうが、大きく分けると「外務省との特別な関係」 「地元での利得政治」の二点である。前者は先にある程度の触れてきたので割愛し、ここでは後者について考える。
 国会議員とは「全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない(Con.15,43)」という大原則があるが、 現実には地元選挙区にある程度の便宜・便益を図るのは暗黙の了解であり、代議制を採る日本ではある程度は 仕方のないことである。今回の例では、多大な国家予算が注ぎ込まれた離島の施設が、地元民からこの 議員の愛称で呼ばれているのをして、国家功績の私有化などと叩かれた経緯があるが、その施設の設置 にこぎつけたのは実際その議員の働きのおかげでもあり、地元住民もそれに満足しているのであるから、 あながち間違ったことをしたというわけでもない。しかしながら、この施設を建設するにあたって 地元の、しかも政治献金の繋がりがある自身の後援会の役員が経営する特定業者に落札させるよう 圧力をかけたというのが事実であれば、たとえ地元経済の活性化を望んでのことだとしても 不正な行為である。「公共の福祉」と「経済活動の自由」は重なる対立概念に位置し、 前者による制限が後者のどの範囲にまでおよぶかは判断が難しいところであるが、 この度の前者は「地元地域」に限定されたものであり、法的にはギリギリのところであると思う。 しかしこれらの間に金が絡むと、それは単なる政治献金ではなく贈収賄である。 事実が事実ならばこれは完全な違法行為であるが、たとえ事実ではなかったとしても 疑いの余地があったという時点で健全な政治行為とは言い難いのである。
 政治献金に絡む利権問題は今回に限らずしばしば問題となってきた。 クリーンな政治を目指すために政治献金を完全に廃した政党もいくつかあるが、 すべての被選挙人がそううまくいくわけではない。事実、被選挙には多額の 選挙資金がかかる。現在の日本には政党ごとに国家予算から政治資金を助成する 制度は存在するが、いわゆる無所属の人間に対するそれはなく、結果、後援会 や献金に頼らざるを得ないのが実情である。よって代替策のない現状では政治献金 制度そのものを否定してしまうのは難しい。これはこの度注目を浴びた一議員 の問題に収まらず、資金がものを言う現行選挙制度そのものの根本的な欠陥である。 ヒト、モノ、金のすべてが不十分なく揃った現政府・与党が、この構造を抜本的に 改革できるのか。疑問として提示しておきたい。

 最後に支持率の推移について触れておきたい。
 現内閣が誕生して以来、類まれなき高支持率が続いてきたが、それは何故か。 政治家の政治資質というのはその人物の頭脳だけで決まるものではない。 その容貌、雰囲気、人となり、話術、そのすべてが資質に含まれる。 よって、内閣誕生当時によくテレビに映っていた「カッコがいいから」支持する といった意見を軽視するつもりはない。そもそもリーダーシップという素質も 実際の行動の他にもっとあいまいな要素があることは否定できない。 そういったスター的・カリスマ的な要素による支持は当初から「期待度」と呼ばれ 評価されてきた。「期待」の対象はもっぱら構造改革である。そして現在、 支持率もとい「期待度」は50%未満まで急落した。ある番組の世論調査によると 支持しなくなった原因は「構造改革に期待が持てなくなった」というのが「外相更迭」 の約4倍とでていた。しかしながらこの並列は少しおかしい。なぜ外相更迭等が 行われた直後に「構造改革に期待が持てなくなる」のか、その答えがここにはない。 先にも挙げたが、多くの国民は外相更迭等をめぐる一連の問題こそが構造改革の 焦点であると認識し、それらの透明性の確保こそが現内閣に期待していたことなのである。 しかし首相は構造改革の方針である「今期内の予算成立」を「改革断行」の名の下に優先した。 これでは民意を読み誤ったと考えざるをえない。裏づけとして実際に外相・一議員の参考人招致の 中継は、現内閣のいかなる国会中継よりも視聴率が高かった。

 どこの世の中にもそのような人間はいるが、政治に携わる人の中にもやはり専門性のある 言葉を並べ、高級理論を説くことが良い政治であると考える人間はいるようである。 そしてそれをしない、わかりやすい言葉で当たり前の理屈を当たり前に言う人間もいて、 前者はそれを軽視する場合もある。
 前外相は後者であったように思う。任期中に外交実績がなかったとよく叩かれるが、 今期内閣の目標が構造改革であったことを今一度考えたい。この間にどれだけの外務省の 構造が明るみに出たか。そしてそれらの構造は国民にとっては常に不祥事と呼べるような 状況であった。多くの専門家は前外相を良く評価しない傾向にあるが、国民からの支持は厚い。 それは単にはっきりと物を言うからだろうか。カッコいい女性像であるからだろうか。 彼女の姿勢こそが国民の「期待」する構造改革の姿ではなかったか。
 前者と後者、われわれ国民は政治にどちらを望んでいるのか。それがわかる時 はじめて「政治不信」の実態が見えてくると考える。

2002,03,03

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