本名トゥパック・アマル・シャクール(TUPAC
AMARU SHAKUR)。1971年6月16日ニューヨーク、ブルックリンに生まれる。母親はブラック・パンサーの党員として活動していたり、幼少の頃からハーレムで過ごしていた影響か、彼を取り巻く周辺の者がクラックに手を染めている光景を彼は日常の出来事として受け止めていた。そんな彼は自分の周りで起こる出来事を早くからリリックとして綴っていた。そしてその才能、表現力に気付いた母親は彼をハーレムの劇団“127
STREET ENSENBLE”に入れ、それをきっかけに彼は12歳でアポロ・シアターの舞台に立つ事になる。
その後彼は高校へ進学するが、学友が拳銃の爆破事故に遭遇したことを期に、自分の回りで起こる現実を伝える“ラッパー”になることを決意、高校を中退し単身でベイエリアへと渡る。貧しい生活を続ける中、ドラック・ディーラーなどで日銭を稼ぎながらもラッパーとしての活動を進めていた。その後その活動が地元で知られるようになり、既に人気を確立していたデジタル・アンダーグラウンド(以下DU)へ参加することになる。さらには1991年1月、ラッパー兼ダンサーとしDUのEP「SAME
SONG」でレコード・デビューを果たす。そして同年の11月念願のソロ・デビュー作「2PACALYPSE
NOW」をリリース、その後大ヒット映画『ジュース』(1991年度作)をきっかけに俳優業を務める傍ら“ラッパー”2パックとしてショービズ界での活躍の場を広げて行く。が、一方で数々の暴力事件や婦女暴行容疑等、トラブルを起こし続け、ギャングスタ・ライフを演じていたつもりが、マスコミによって悪名高き男のレッテルをはられてゆくようになった。そして2パックは1996年9月7日、友人でもあるボクサー=マイク・タイソンのファイトを観戦するために、ラスヴェガスを訪れる。この地が彼の最期の地となってしまう。2パックはタイソンの祝勝会に駆け付けるため、デス・ロウの社長シュグナイトの運転する車の助手席に乗り込み会場へと向かう道中、横付けされたキャデラックから銃弾を浴び病院へ運ばれる。そして9月13日午後4時3分、彼は呼吸器官と心肺機能の停止により25才という余りにも短く、激し過ぎた生涯に幕を下ろした。