正直に言うと,私はこの曲を最初に聞いた時,好きにはなれなかった。その後,いつのまにかこの曲も,数ある交響曲の中でも最も好きな部類になるほど好きになったが,それが心境の変化のせいか,それとも最初に聞いた演奏が肌に合わなかったせいかは分からない。または,この曲がハイドンのほかの曲に比べて,目立ってロマン的であるという点があるのかもしれない。
ハイドンの後期の傑作集,ザロモン・セットの12曲はいずれも名作ぞろいだが,その中でも着実な進歩が見られるのが面白い。当時すでに老齢だったハイドンが,ロンドンの聴衆の期待にこたえるためだったのだろうか,とにかく最初に作曲された第96番ニ長調「奇蹟」と最後の第104番ニ長調「ロンドン」を比べると,とても老齢の人のものとは思えないほどの著しい進歩が見られるのである。
中でもこの第103番変ホ長調「太鼓連打」と次の第104番ニ長調「ロンドン」は,双璧ともいえるほどの完成度を持っている。この2曲は,構成の見事さも然る事ながら,音楽が言葉を語りだしたかのような強い観念,つまりロマン性を私は感じる。特に両曲の第1楽章を見ると顕著だろう。それまでのハイドンの曲は,構成や旋律が見事ながらも,心の中に訴えかけてくるものが少なかったように思えるが,この曲にはそれがあると感じられるのである。
第104番ニ長調「ロンドン」は優等生であり,すべてが堂々として,完璧な形を保っている。抜きん出た完成度を持っており,充実感も感じる。それに対して第103番変ホ長調「太鼓連打」は,第104番よりも自由である――悪く言えば,完成度は一歩譲る――が,ロマン的な精力は,ずっと多く感じられる。……と思うのは私だけだろうか。
この曲には太鼓連打という愛称がついている。これは,第1楽章がティンパニ連打のソロで始まるという,過去にはあまりないような始まり方をするからである。
しかし,太鼓の連打があるのは第1楽章の冒頭とコーダの始めの所の2ヶ所のみで,実際に聞いてみるとさほど目立つものでもない。当時の聴衆にとっては目新しいものだったかもしれないが,その後ではそのような開始方法は別に珍しくもなくなり,この様な名前が脈々と受け継がれている理由にはならないだろう。
どうも私は,この太鼓連打という愛称は,この名曲を後世でも忘れないようにするためにつけられた名前であるように思えるのである。交響曲第103番と呼んでもぱっとしないし,変ホ長調交響曲と呼んでも,変ホ長調の交響曲は後に幾つも作られているのであるが,太鼓連打と呼べば,まず間違いなく,ハイドンのこの曲を思い浮かべるだろう。