この31番目のピアノソナタは,次の第32番(ベートーヴェンの番号つきピアノソナタとして最後の作)と合わせて,ベートーヴェンのピアノソナタの双璧をなすものといえる。
2曲の性格は驚くほど違うものであるが,誤解を恐れずに一言で表現してみれば,第31番は「秩序」,第32番は「解放」とも言うべきだろうか。31番が古典的なピアノソナタに下地を置いているのに対し,32番は歌曲からのアプローチが強いためかもしれない。
古典的なピアノソナタに下地を置いているとはいえ,この曲はあまりクラシック音楽に慣れていない人でも聞きやすいと思う。たとえば,この曲と第29番(「ハンマークラヴィーア」)を比べてみるとわかるだろう。第29番にあったような強いコントラストや複雑怪奇な展開が避けられている。つまり,聴き手にエネルギーを要求しない曲なのである。
だからと言って,この曲が薄っぺらなわけではない。むしろ逆で,豊かな楽想と見事な構成に支えられた曲である。
たとえばこのピアノソナタは,第3楽章がフーガで終わるという珍しいものである。ベートーヴェン自身は,この曲の前にも第29番(「ハンマークラヴィーア」)の終楽章をフーガで終わらせている。しかし,「ハンマークラヴィーア」のフーガが非常に長くて難解だったのに対し,この曲のフーガは長くもないし,展開もおとなしい。特に,この曲では間に歌曲風のゆったりした部分が含まれているため,ここが息抜きにもなる。
ベートーヴェンの中期の曲に見られるような,息の詰まるような展開を避けつつ豊かな楽想を織り込む,後期のベートーヴェンでないと書けない曲だったのかもしれない。