このページでは、1952年1月18日に
韓国が「李承晩ライン」を公海上に線引きして
竹島を占領したり、漁民を拿捕された理由には、
日韓国交正常化の交渉を有利にする目的があったことを説明し、
その李承晩ラインによって、漁民たちが拉致された状況の記事を紹介します。



何故、1月18に李承晩ラインを強行したのか?


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1952年1月18日、突如、
韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島(独島)をその中に含めた。

何故、1月18日であったのか?

サンフランシスコ講和条約が発効するのは4月であり、
それ以前の日本は身動きが取れない状態であったから韓国の竹島占領に対して邪魔もできない。


2月28日、日韓の国交正常化交渉の本会議が始まる一ヶ月ほど前に、
韓国側として、国交正常化交渉を自国に有利に進めるという側面から、竹島問題を引き出してきたのである。

李承晩ラインとそれに引き続いて発生する竹島問題に対して、
日本側はどれだけの準備をし、あるいは、自覚していたのかというと、
ほとんど認識していなかったのではなかろうか。

問題が起こってから騒ぎ立てるというのは、日本の一つの外交パターンだが、
韓国側としては、実は周到な準備をして日韓の国交正常化に臨んでいたのである。

すなわち日本側の譲歩を引き出すため、
国交正常化交渉の外交カードとして使ったのが、
竹島問題であり、李承晩ラインであったからだ。


李承晩ラインが登場する背景には、サンフランシスコ講和条約があった。
このサンフランシスコ講和条約は、
1951年9月8日に調印され、52年の4月28日に発効している。


問題はその第二条の(a)項にあった。
草案の段階では「鬱陵島・竹島・済州島」が
日本の領土から離れて、朝鮮側に返還される領土・島嶼と規定されていた。

それには「連合国軍総司令部訓令第677号」というのがあって、
そのとき連合国軍総司令部が竹島を韓国側として規定していたからである。

ところが講和条約の
最終案では日本から除かれる地域が
「済州島・巨文島・鬱陵島」とされ、同条約によって竹島は朝鮮領から除外されていた。
草案から最終案が決定する際に、日本側とアメリカとの間で交渉が行なわれ、竹島は日本領土として確定したからである。


だが、これは韓国政府にとっては深刻な問題であった。

講和条約が発効すれば、竹島は日本領となってしまい、
竹島を韓国固有の領土と信ずる韓国側は、危機感をもったのである。
そこでサンフランシスコ講和条約が発効する以前に、自分達で自国領土として宣言し、
翌月からはじまる日韓国交正常化交渉の外交手段としたのである。

その姿勢は、韓国側が「李承晩ライン」を
「平和線」つまり平和の線とよぶことにも現れている。

「平和線」とは、日本の漁民が
韓国の領海を犯して自国の資源を乱獲しているので、
それをやめさせるための線だから平和線なのだという。

それに韓国側では、竹島は歴史的にも
自国のものとする認識を李承晩大統領自身がもっており、
当時の韓国の人たちにも、竹島を韓国固有の領土とする歴史認識が形成されていた。

その歴史認識に決定的な役割を果たしていたのが、崔南善である。

彼は日本の統治時代、朝鮮総督府の歴史編纂官で、
日本にもよく知られていた歴史学者だが、その崔南善のもとを、
韓国政府の兪鎮午という、後に日韓の国交正常化交渉の際に第五次の韓国側代表
となる人物が訪問し、竹島が歴史的に朝鮮領であるとして確信できる確かな論拠を教えてもらっていた。

兪鎮午はそれを李承晩大統領に報告し、
韓国政府は李承晩ラインを引いて、竹島を自国領として宣言したのである。

しかし、「李承晩ライン」は、一方的に公海上に引いた線である。

公海上では当然、
日本の漁民たちは漁業を行なっているわけだから、
結果として日本漁船が拿捕されることになった。

「平和線」という名称と目的とは裏腹に、
戦後の日韓関係を憎悪と不信に駆り立てる導火線となった。

1952年2月15日から始まった日韓の正常化交渉の最中にも、
韓国政府は「李承晩ライン」に依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕しつづけ、
交渉にも重大な影響を与えることになったのである。

この「李承晩ライン」については、宣言の直後から
アメリカ、イギリス、中華民国からも違法性が指摘された。
のちにアメリカのハーター国務長官は「韓国が日本漁船を公海で捕獲し、
船を押収、漁夫に体刑を課していることが日韓関係を著しく悪化させている」として、
韓国政府の措置に憂慮を示している。(1960年3月17日付『朝日新聞夕刊』)


韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したのか?

3,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、
その過程で四十四名の方が死傷してしまった。

1953年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。
しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、
1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺されるという事件も発生している。

1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。
その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または50万ウォン以下の罰金」が科せられ、
「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。
日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。
つまり、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、
国際法および国内法に照らしても、不当だったのである。


日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。
おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。

韓国側に拉致された日本の漁民は
岸首相のお膝元である山口県や中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、
岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。

一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、
朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。
その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。

韓国側としては、それを持ち出されたら困る。
何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。
そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。
「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。

公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、
その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。
現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。


もしこれらの人々を返してもらいたかったら、
日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい!
あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい!
という外交交渉のカードに利用した。


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日韓基本条約の交渉過程を見れば、
当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。
「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 - 衆 - 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和40年10月28日発言者232を参照



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知っていますか、日本の島 自由国民社 下条正男他著
下條正男氏講演 「領土問題の現状と課題」
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html
より、まとめました。



李承晩ラインによる韓国の非道

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李承晩ライン(李ライン)
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。

同宣言により
朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、
すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。

日本側はこのラインを認めず、
結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、
韓国軍による日本漁船の拿捕が続いた。


李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人

死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
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韓国が卑劣であったのは、
拿捕した漁民を人質として利用し、
日韓条約を韓国に圧倒的有利な内容で締結させたことである。

日韓には不幸な歴史があったことは事実である。
日韓条約の内容についても、どんな卑劣な手段で決定されたとしても認めよう。

卑劣な方法で日韓条約を結んでおきながら、
さらに謝罪を要求する韓国人は脅迫犯罪者と変わらない。
又、日韓条約に違反し、竹島問題を国際裁判所で解決しようとしない韓国は卑怯者である。

現代において日韓条約以上の謝罪、賠償を要求(国際法違反)する韓国人は、軽蔑する。
日韓条約を不平等条約という韓国人は、自ら無知を表明しているに過ぎない。


中日ニュース(ライブラリー映像) 
昭和33年の記事212号「韓国から抑留漁夫帰る」
http://home.att.ne.jp/theta/chunichieiga/212.jpg



日韓条約と李承晩ラインでの日本人拉致

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「East Asia News Watch」 さんより
http://k-mokuson.at.webry.info/200412/article_26.html

「その他の日韓歴史問題2 反日史観を糺す」さんより
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm


李承晩ライン 「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房

日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちが
その中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。
日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。

李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"
の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。
教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家の基本的政策、体質となった。

韓国は今日においてさえ、
日本の映画、演劇、レコード、音楽テープ
などの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。
このような韓国の情勢が日本人に快いはずはない。

もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、
より直接的、具体的なものとしては、日本側では"悪名高い李承晩ライン"がある。

日本が連合国占領下にあった期間は、
いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、
講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。


その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、
韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。

翌53年には漁業資源保護法を制定し、
李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。

1955年11月には、韓国連合参謀本部は
李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。
1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。

韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために
韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。

日本の植民地時代にも、
1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上に
トロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。

韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたい
と考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、
李承晩ラインは"傍若無人と横車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。

微力な日本政府は、韓国政府の、
国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、
漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。


日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、
本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。

折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、
韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。
これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。

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「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日

李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。
韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。

同じ二十七日の朝、
別の漁船も追われ十人の船員は
海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。
冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。

この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。
そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。

日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、
捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。

李ラインを越したという理由だけで、
これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。

優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、
日本漁船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。

そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に
韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだが
それは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。

日本政府はこのラインを認めていないが、
過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、
約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。


九月(1963年)にはいって、
韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。

韓国の漁業界、漁民の票を得るために、
朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。
選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。

韓国漁民の間に、
日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、
資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。
漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。

韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインである。
公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。