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ソウルの観光名所「南大門」で火災、出火前後に不審な男

2008年2月10日、火災事故が発生し、石材部分を除く木造部分の大部分が焼失、倒壊した[1]




火災により瓦屋根の一部が崩落する南大門=AP

                    

 






ソウル市内で11日未明、激しい炎をあげながら崩壊する南大門=AP

南大門、全焼崩壊 韓国社会に強い衝撃
2008年02月11日08時41分
(2008年2月11日03時50分 読売新聞)














動画

これ凄いです。こんな火事 私は見たことがありません


“国宝1号”崇礼門5時間で全焼・崩壊


http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=95853&servcode=400&sectcode=430


燃える崇礼門






消火活動




崇礼門楼閣で発生した火災を消し止められず、消防署員がはしご車に乗り、崇礼門と書かれた札を引き離している(左)。
しかし消防署員はこれをつかめず、下に落としている(右)。(写真=キム・テソン記者)

  「消防車数十台集まっても消せないのか」−−。
  目の前で国宝1号の崇礼門(スンレムン、南大門)が火災で崩れ落ちる姿を見る市民らは悲しみを隠すことができなかった。
  現場で火災を見ていた市民ペク・テギョンさん(53、ソウル中区)は「大韓民国の国宝1号がこのように崩れるとは私まで崩れてしまいそうだ」と話した。
「幼いころから崇礼門を見ながら暮らしてきたのに、もう見られないと思うと涙が出る。いったい管理をどのようにしてきたのか」と嘆いた。
  崇礼門が燃え落ちる様子をテレビで見てかけつけたというユン・ジョンさん(28、ソウル竜山区)は「わずか数時間前にバスで通り過ぎたときには何でもなかった崇礼門が、
崩壊してしまうとはとても信じられない」とし「夢ならいいのに」と話した。
  京畿道平沢(キョンギド・ピョンテク)から家族と南大門市場へショッピングに来て火災現場を目撃したキム・スンスさん(34)は「普段はわからなかったが、
こうして崩れ落ちてしまうとあらためて文化財の大切さを知る思いだ」とし「国を代表する文化財の崇礼門を必ず復元し、本来の姿を取り戻してほしい」と強調した。
  インターネットでも崇礼門崩壊を惜しむネットユーザーの書き込みが続いた。
特に崇礼門の屋根に火が上がり始めた深夜12時ごろから、ジョインスなどインターネット関連ニュースサイトには深夜にもかかわらずまたたく間に多くの書き込みが掲載された。
  「数十台の消防車が出動し、簡単に消せたはずの火災が、時間が経つほど大きくなっていくのが理解できない」という反応を見せた。
  ジョインスドットコム(www.joins.com)にアクセスしたあるネットユーザーは「消防車が動員され、鎮火に向かっていたところを安易に対処したために
崇礼門が崩壊に至ったというのがまったく理解できない」と書いた。
  消防署員らが初動対処を疎かにしたことに対する怒りと無念さを表した人も多かった。
ある女性は「米国で9・11同時多発テロで崩れるのを知りながらも火に飛び込んだ消防署員らを忘れたか」とし、消防署員らの積極的鎮火姿勢に不満を示した。
また「屋根の内側から火が出ているのに、外からばかり水をかけて消せるとでも思うのか」と批判もあった。





























完全に焼け落ちた崇礼門






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<南大門火災>火災で崩れた崇礼門…国民も泣き崩れた関連タグ 崇礼門南大門火災文化財


「消防車数十台集まっても消せないのか」−−。

目の前で国宝1号の崇礼門(スンレムン、南大門)が火災で崩れ落ちる姿を見る市民らは悲しみを隠すことができなかった。

現場で火災を見ていた市民ペク・テギョンさん(53、ソウル中区)は「大韓民国の国宝1号がこのように崩れるとは私まで崩れてしまいそうだ」と話した。
「幼いころから崇礼門を見ながら暮らしてきたのに、もう見られないと思うと涙が出る。いったい管理をどのようにしてきたのか」と嘆いた。

崇礼門が燃え落ちる様子をテレビで見てかけつけたというユン・ジョンさん(28、ソウル竜山区)は「わずか数時間前にバスで通り過ぎたときには
何でもなかった崇礼門が、崩壊してしまうとはとても信じられない」とし「夢ならいいのに」と話した。

京畿道平沢(キョンギド・ピョンテク)から家族と南大門市場へショッピングに来て火災現場を目撃したキム・スンスさん(34)は「普段はわからなかったが、
こうして崩れ落ちてしまうとあらためて文化財の大切さを知る思いだ」とし「国を代表する文化財の崇礼門を必ず復元し、本来の姿を取り戻してほしい」と強調した。

インターネットでも崇礼門崩壊を惜しむネットユーザーの書き込みが続いた。
特に崇礼門の屋根に火が上がり始めた深夜12時ごろから、ジョインスなど
インターネット関連ニュースサイトには深夜にもかかわらずまたたく間に多くの書き込みが掲載された。

「数十台の消防車が出動し、簡単に消せたはずの火災が、時間が経つほど大きくなっていくのが理解できない」という反応を見せた。

ジョインスドットコム(www.joins.com)にアクセスしたあるネットユーザーは「消防車が動員され、
鎮火に向かっていたところを安易に対処したために崇礼門が崩壊に至ったというのがまったく理解できない」と書いた。

消防署員らが初動対処を疎かにしたことに対する怒りと無念さを表した人も多かった。
ある女性は「米国で9・11同時多発テロで崩れるのを知りながらも火に飛び込んだ消防署員らを忘れたか」とし、
消防署員らの積極的鎮火姿勢に不満を示した。
また「屋根の内側から火が出ているのに、外からばかり水をかけて消せるとでも思うのか」と批判もあった。
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10日夜の火災で焼失、一夜明けた韓国の国宝「南大門」=
11日、ソウル市内(AP=共同)




 【ソウル11日共同】ソウル中心部に位置する韓国国宝の南大門(正式名・崇礼門)の火災は11日未明、出火から約5時間半で鎮火した。
石造りの土台の上に立つ木造の楼閣の2階部分は完全に崩壊し、1階部分も激しく損壊、韓国メディアは「全焼」と伝えた。

 初期消火に当たった消防隊員が楼閣2階の出火現場とみられる場所で使い捨てライター2個を目撃していることや、
出火直前に不審な男を見たとの情報が3件寄せられていることなどから、警察は放火の可能性があるとみて捜査している。

 警察と消防は合同で本格的な現場検証を実施、現場周辺に設置された監視カメラの映像の分析作業も進んでいる。

 政府は11日午前、韓悳洙首相の主宰で対策会議を開き、再発防止策などを論議。李明博次期大統領も現場を視察した。

 YTNテレビなどは、初期消火の失敗で被害が拡大したと指摘。文化財庁から慎重な消火作業を要請された消防当局が当初、
徹底した放水や延焼防止措置を取らず、対応が後手に回ったと報じた。




南大門の過去と現在

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放火犯人か?

午後9時前、まだ周辺には車両の往来、人々のにぎわいがある時間……、
その近くにいたタクシーの運転手から、登山でもするようないでたちの男が、
紙袋を手に持って、楼閣へと上っていくのを見た、という証言がある。

その直後、楼閣の間から赤い花火が上がり、火災が起きた。

人々の悲鳴、鳴り響くサイレン、殺到するマスコミ、放水……。
懸命の消火活動にもかかわらず、未明、木造の楼閣は、
バリバリバリッ…と、何度か不気味な音を繰り返し、崩れ落ちた。

悲鳴が、一段、大きくなり、人々は顔に手をあてたり、
隣の人の肩に顔を押し付けたりした、ただただ呆然と見つめる人もいた……。

消防士たちは、南大門を包む炎の前に、
ほんとうに小さな背丈にしか見えなかった。


南大門は韓国の国宝第1号、正式には崇礼門(スンレムン)と言い、
朝鮮時代である1398年に創建された、ソウル市内、最古の木造建築物。
何度かの大規模な修復はあったが、第2次世界大戦や朝鮮戦争の
時代もくぐり抜け、その壮麗な姿をいまに伝えてきたはずだった。

崇礼門(スンネムン)火災事件を捜査中のソウル南大門(ナムデムン)警察署は11日江華島
河岾面(カンファド ハジョムミョン)で放火容疑者の中の一人であるチェ某(70)容疑者を捕まえて
調査中だ。

 警察はチェ容疑者が情報提供者たちが火災直前に崇礼門で目撃した60代男性と印象着衣が
似ていて、事件当時着用していたような種類の服とカバンを持っているという点などからチェ容疑者を
有力な放火容疑者に見ている。

 警察関係者は「チェ容疑者は多くの容疑者の中の一人で、他の容疑者と同じく通常的な調査を
するというだけ」としてまだ具体的な容疑事実が確認されていないと明らかにしたが、他の容疑者
とは違って相当な嫌疑点を置いていると分かった。

 チェ容疑者は2006年4月昌慶宮(チャンギョングン)の文政殿(ムンジョンジョン)に火を付けて
400万ウォン(約46万円)相当の財産被害を出した放火前科者と同一人物であることが知らされた。

犯行の動機は「本人所有の土地が開発されたが補償金問題が解決されないため土地を
売り渡しておらず、これについて社会の注目を集めるために火をつけた」とのことです。

 10日午後8時50分頃ソウル中区南大門4街(チュング ナムデムンサガ)の崇礼門2階楼閣で
発生した火事で崇礼門の楼閣が全焼して、200億ウォン(約23億円)台の莫大な復元費用が
かかると予想される。





【ソウル12日聯合】ソウル・崇礼門(南大門)で10日夜に発生した火災を捜査中の合同捜査本部は12日、有力な容疑者として取り調べていた70歳の男が犯行を認めたと明らかにした。
警察は、男が文化財に放火した前科があることに加え、目撃者らが見た60代の男と人相や服装が似ていることから、事件の有力な容疑者とみて前日に江華島で身柄を押さえ調査していた。
男は10日午後8時50分ごろ、ソウル市中区南大門路4街に位置する崇礼門の楼閣2階部分に上り、引火性物質を振りかけ火を放ち1〜2階を全焼させた容疑をもたれている。
 男は、2006年4月にもソウルの昌慶宮文政殿に放火し、執行猶予を宣告された前科がある。この火事の被害額は400万ウォン(約45万円)相当だった。
当時、男は所有地の補償問題がうまくいかず不満を抱え犯行に及んだと供述しており、今回もこうした動機で崇礼門に放火したものとみられる。
警察が前日に男から押収した手紙にも、京畿道・一山に所有する土地が開発されたものの、補償金問題が解決せず土地を売却できずにおり、
これに対する社会的な関心を引くために放火したとの内容が記されているという。






600年の歴史を誇る崇礼門(南大門)が廃虚と化した今回の放火事件。逮捕されたチェ・ジョンギ容疑者(69)が、犯行に及ぶのにわずか5分しかかからなかったことが、供述から明らかになった。チェ容疑者は10日午後8時45分に崇礼門に侵入し、悠然と楼閣2階に登り、シンナーをまいて火を放った。そして、5分もたたないうちに現場を離れた。誰の制止も受けず、走って逃げる必要もなかったという。現場に出動した消防隊員や警察、警備会社職員は容疑者の後ろ姿すら見ることができなかった。

◆犯行前に綿密な下見

 合同捜査本部は12日、チェ容疑者が犯行に至るまでの足取りを明らかにした。それによると、チェ容疑者は当初、ソウル市鍾路区の宗廟(朝鮮王朝歴代君主の位牌〈いはい〉を祭る史跡)に放火することを計画したが、警備が厳しいためにあきらめ、代わりに警備が手薄な崇礼門を犯行現場に選んだ。容疑者は昨年7月と12月に崇礼門の下見を行い、夜間と休日には警備が手薄になることや、午後8時以降には管理担当者が誰もいなくなることを把握していた。捜査当局はチェ容疑者が崇礼門の状況を完全に把握した上で犯行時間を決めたとみている。

 チェ容疑者は2006年4月に鍾路区にある朝鮮時代の王宮、昌慶宮の文政殿に新聞紙とブタンガスボンベ4本で放火した前科があったが、今回は放火にシンナーを使った。捜査関係者は「文政殿の放火ではガスボンベが爆発する音で現行犯逮捕されたため、容疑者は音が出ない上、引火性が高いシンナーを選んだ」と説明した。容疑者が準備したのは、アルミ製のはしご、シンナーが入った容量1.5リットルのペットボトル3本、ライター1個だけだった。

◆制止されずに侵入

 チェ容疑者は、犯行当日の10日午後5時ごろ、離婚した妻が住む仁川市江華郡河帖面からバスに乗り、京畿道高陽市の一山地区に移動。ここでバスを乗り換え、午後8時半ごろにソウル市中区太平路のサムスン本館前に到着した。そこから徒歩で崇礼門付近に到着したのは10分後の午後8時40分。平日には3人、休日には一人の管理担当者がいたが、午後8時にはすべて帰宅するため、この時間帯の崇礼門は無人で無防備の状態だった。このため、チェ容疑者を制止する人は誰もいなかった。監視カメラと赤外線センサーが設置されていたが、容疑者は構わずに悠然と崇礼門内部に侵入した。午後8時45分にはしごで西側城壁を越えた容疑者は、すぐに楼閣2階に登った。ソウル駅周辺のホームレスが夜間に侵入するのと同じ方法だった。午後8時47分には赤外線センサーが作動したが、センサーが容疑者を制止することはできなかった。

◆手を震わせタクシーで逃走

 楼閣2階に到達したチェ容疑者は、持参したペットボトル3本のうち1本のふたを開け、シンナーを床にまき、残る2本はそばに置いた。その上で使い捨てライターで火を付けた。火は瞬く間に柱伝いに天井に広がった。柱に火が付いたのを確認した容疑者は侵入ルートを逆にたどり脱出。南側の横断歩道で信号待ちをしていたタクシーに乗り逃走した。容疑者を乗せたタクシー運転手(59)は、崇礼門から煙が上がるのを見て、「消毒作業をしているようだ」と話し掛けたが、容疑者は手をぶるぶる震わせたまま答えなかったという。タクシー、地下鉄、バスを乗り継いで高陽市一山の息子宅に到着した容疑者は犯行事実を告白した。そして、11日未明に江華島の前妻宅に立ち寄った後、服を着替えることなく、集落の公民館に出掛けた。公民館では地元の高齢者と終日、花札に興じていたという。花札の相手をしていたユ・ヨンスさん(76)は、チェ容疑者の様子について、「普段より穏やかな表情で、特に疑いは持たなかった」と話した。容疑者は同日午後7時40分ごろに逮捕された。


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崇礼門(スンネムン、すうれいもん)








夜間にライトアップされる崇礼門
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歴史の目撃者”崇礼門1398−2008



李朝時代




1904
1938年に建設された崇礼門(スンレムン、南大門)は朝鮮(チョソン)王朝の顔だった。
地方各地からの文物が首都の漢陽(ハニャン、ソウルの旧称)に入るためには
ここを通らなければならなかった。
20世紀の初め、崇礼門の外には商店と民家が密集していた。今は消えてしまった城郭がはっきりと見える。



 1940
日帝は1907年に崇礼門周辺の城郭を壊し、道路を建設した。それ以後、朝鮮王朝の顔だった崇礼門は道路に囲まれ島のように孤立してしまった。
列をなして走る自動車、崇礼門に隣接した洋式の高層建築物が時代の変化を実感させる。



 1951
全国土を戦渦に巻き込んだ韓国戦争(1950−1953)中にも崇礼門は無事だった。
600年近く耐えてきた崇礼門は戦争の悲劇を目の当たりにしながらも自身の堂々とした姿だけは失わなかった。
韓国戦争当時、砲撃により石垣と屋根などが壊されたときでもそれは変わらなかった。





  1963
韓国戦争(1950−1953)による被害を復旧するために1961年から1963年まで大規模な解体および復元工事が行われた。
2008年私たちの心とともにに崩れ落ちるまでの崇礼門の姿だ。“祝・修造竣工”という祝いの言葉がむしろやるせない気持ちにさせる。

  国宝
政府が1962年12月20日、崇礼門(南大門)を国宝第1号に指定した。
漢陽の都城の八門の中で最も重要な正門であり、ソウルに残っている木造建造物中で最も古い門だった。
朝鮮王朝が漢陽に遷都した後、1395年(太祖4年)に建築が始まり、1398年に完成した。
2006年3月から中央通路が一般に開放された。




日本統治時代





現在




崇礼門(スンレムン)は朝鮮時代、漢城(ハンソン。
ソウルの旧称)の正門で、四大門の内、南に位置しているので南大門とも呼ばれる。
太祖7(1398)年に始めて建てられ、世宗(セジョン)30年に大きく増築した。
その後、文禄慶長の役と丙子胡乱の時にも南大門は被害を免れ、1962年の文化財保護法によって、従来宝物だったのが国宝第1号に指定された。
建物の平面は、上下階合わせて正面5間、側面2間で構成されており、内部の一階の床は、虹霓の上面である中央間だけがウムルマル(井戸床。
短い板を横に、長い板を縦にして組み合わせた井戸のような形の床)で、他は土の床であり、上階は板の床になっている。
扁額の作者については諸説あるが、「芝峰類説」には譲寧(ヤンニョン)大君が書いたと記されている。
他の門の扁額は横書きなのに対し、崇礼門の扁額を縦書きにしてあるのは、
崇礼の二字が炎を意味し、景福宮(キョンボックン)に面している冠岳山の火の気運を抑えるためだという。
現存する城門建築としては、韓国で最大規模の南大門は典型的な多包(タポ。
柱と屋根を繋ぐ包<ポ>が、柱と柱の間に多数あるもの)形式の建築物で、堅実な木造建築方法によって造られた、
韓国建築史上、重要な建築の一つである。



南大門は正式には崇礼門(スンネムン)というようです。



南大門(崇礼門)

指定番號: 国宝第1号
時代: 1398年, 朝鮮太祖7年
住所: ソウル市中区南大門路(ナムデムンロ)4街, 29










 南大門は李氏朝鮮建国(1392年)後まもなく建てられた城門です。李氏朝鮮時代の漢陽(現在のソウル)は城壁に囲まれた城郭都市でした。
従って、南大門の両側にも城壁が連なっていましたが、1907年、実質的な韓国支配者となっていた日本によって取り払われました。

 「1907年、当時皇太子だった大正天皇の漢陽入城を控え、日本は「植民地朝鮮の門の下を皇太子が通ることはできない」
という理由で城壁処理委員会という組織までつくって城壁を撤去した。」
(参考文献) 『韓国の「昭和」を歩く』 p.272 鄭銀淑 祥伝社新書 2005年7月5日刊



崇礼門(スンレムン)は朝鮮時代、漢城(ハンソン。
ソウルの旧称)の正門で、四大門の内、南に位置しているので南大門とも呼ばれる。
太祖7(1398)年に始めて建てられ、世宗(セジョン)30年に大きく増築した。
その後、文禄慶長の役と丙子胡乱の時にも南大門は被害を免れ、1962年の文化財保護法によって、従来宝物だったのが国宝第1号に指定された。
建物の平面は、上下階合わせて正面5間、側面2間で構成されており、内部の一階の床は、虹霓の上面である中央間だけがウムルマル(井戸床。
短い板を横に、長い板を縦にして組み合わせた井戸のような形の床)で、他は土の床であり、上階は板の床になっている。
扁額の作者については諸説あるが、「芝峰類説」には譲寧(ヤンニョン)大君が書いたと記されている。
他の門の扁額は横書きなのに対し、崇礼門の扁額を縦書きにしてあるのは、崇礼の二字が炎を意味し、
景福宮(キョンボックン)に面している冠岳山の火の気運を抑えるためだという。
現存する城門建築としては、韓国で最大規模の南大門は典型的な多包(タポ。柱と屋根を繋ぐ包<ポ>が、
柱と柱の間に多数あるもの)形式の建築物で、堅実な木造建築方法によって造られた、韓国建築史上、重要な建築の一つである。



私が数少ない朝鮮で評価していた建物です。
残念ながら2月10日 放火と見られる火災で全焼しました。
何故 このようなことになるのでしょうか?

今後 いくら莫大な費用を掛けて再建しても もうあくまで再建です。
同じものは2度と作れません。歴史がひとつ 失われました。




南大門その後の記事

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