(あまてらす・おおみかみ)
は日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で、太陽の神であり、高天原(たかまがはら)の主宰神です。
天照大神(あまてらす・おおみかみ)は日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で、太陽の神であり、高天原(たかまがはら)の主宰神です。
古来より男性神説と女性神説とがありましたが近年は女性神説が有力です。その根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神を「姉」と呼んでいるところによります。
(古事記には性別を匂わす記述はありません) また弟の乱暴に起こって天岩戸(あまのいわと)に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的です。
男性神説を取る人たちは、これを推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造したものである、
と主張しているようです(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらなかったため、
飯豊皇女が事実上の天皇として執務なさったことがあります。またそれ以前に神功皇后の例もあります)。まぁ男性中心主義者の「最高神が女だとはけしからん」調の議論は論外ですが。
しかし、もともと日本は農耕民族で女系社会ですので、私は最高神が女性神であるのはむしろ自然なことではないかと考えます。
天照大神はイザナギの神から生まれました。この話はイザナギの神の所にも出ましたが、イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも、
結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に
月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。この三柱の神を三貴子といいます。
そしてイザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになります。
しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいといいます。
イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げてから根の国に行くと行って高天原におもむきます。
ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただします。
これに対して須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いといいます。
そして子供をもうけてその証を立てましょうということになり、細かい話は省略しますが、須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から
宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・
天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許されます。
ところが須左之男命は元々荒っぽい神である為、高天原滞在中にたんぼの畦道は壊すわ、神殿に糞はするわ、乱暴な行ないを続けます。
最初は天照大神も弟のことだからいろいろとかばっていましたが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴のために事故死するに至って、とうとう機嫌を損ねて、天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまいます。
太陽神に隠れられてはたまりません。世の中真っ暗闇になってしまいました。そこで困った神々は一計を案じ、岩戸の前に八尺勾玉をさげ、八咫鏡(やたのかがみ)をぶらさげて、
天宇受売神(あめのうずめのかみ)がその前で踊りを踊りました。その踊りが余りおかしかった為、居ならぶ神様はどっと吹き出します。
その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました。
すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といいます。
そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せますと、そこに映った自分の姿が輝いて見えます。どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けますと、
そこで控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、
布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにしました。かくして高天原に光が戻ったのです。
天照大神は現在伊勢神宮に祭られています。その時の八咫鏡も天皇家の三種の神器の一つとして、そこに祭ってあります。八尺勾玉は皇居に祭られています。
天照大神の信仰が日本書紀に最初に登場するのは崇神天皇の巻で、天皇の娘である豊鍬入姫が天照大神を大和の笠縫邑に祀ったという記事があります。
そして次の垂仁天皇の代になって、今度は垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探して各地を尋ね歩く話が出てきます。
倭姫は宇陀の篠幡、近江の国、美濃、とめぐった後で伊勢に入りますが、その時「ここは辺鄙な土地だけど波が打ち寄せる美しい国である。
私はここに留まりたい」という神託があります。そこで倭姫はそこに宮を建てて天照大神をお祭りしました。
この天照大神を祀る仕事は次の景行天皇の代になると、またまた景行天皇の娘である五百野皇女に引きつがれています。
この天皇家の娘が伊勢で天照大神を祀るという制度は「斎宮(さいぐう)」または「斎王(いつきのみこ)」と呼ばれ、
この時代に始まって後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで続きました。その後は祭主が代って神宮を主宰しています。
(時々斎宮は五百野皇女のあとはずっと中断していて、実質的には天武・持統朝あたりから始まったのでは、という人もありますが、
聖徳太子頃の時代にも酢香手姫皇女が選任されていますし、やはりずっと続いていたと考えた方が妥当だと思います。)
斎王の条件は未婚の皇女または王女で、人選は占いによります。任が解かれるのは天皇の譲位又は崩御の時、両親の喪や病気の時、などですが、
過失により退官することもありました。むろん在任している限り結婚はできません。
同様の制度に賀茂斎院というのもありました。選任規準も同様で、嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王が最初、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後です。
斎宮は天照大神に仕える訳ですが、祭主であると同時に天照大神の「よりしろ」でもあったと考えられます。
少なくとも最初の頃はかなり霊的な力のある皇女が選ばれていたのではないでしょうか。
いわば、物質の世界で天皇(昔は大王と言ったが)が人民を治めるとともに、精神の世界ではその近親者である斎宮が神の世界との交信をするという、
二重構造の中で天皇家は日本の中核になって来たのでしょう。
なお、天照大神を祀る神社(正確には天照大神の場合は全て遙拝所である)は神明社、皇太神宮などで全国で18,000社ほどあると言われています。
天照大神(あまてらすおおみかみ・てんしょうだいじん)は、日本神話に登場する神(人格神)である。
『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。
通称「伊勢神宮」といっていますが、正式には単に「神宮」です。
「伊勢神宮」というのは「伊勢にまします神宮」と説明しているだけのことであって、「伊勢」は神宮を修飾する言葉ではありません。たくさん神宮がある中で伊勢にある神宮という意味ではなく、
神宮といえば、ここしか無いのです。それほどこの神社の地位は絶対的なものです。
ですから、神様に関わる人は基本的にここを「神宮」としか呼びません。
神宮は1996年に遷座2000年を迎えました。むろんこの「2000年」というのは日本の当時当時の暦で計算したもので、
西暦で考えると何年たっているのかはその内どこかで論じたいと思います。
にしてもどっちみち非常に古い歴史を持つ神社です。
神宮は主として、天照大御神(天照坐皇大御神)をお祭りする皇大神宮(内宮)と豊受大御神をお祭りする豊受大神宮(外宮)に分かれます。
また、別宮と呼ばれる特に重要な宮が、内宮に10社、外宮に4社あります。
また摂社が内宮に27社、外宮に16社、末社が内宮に16社、外宮に8社、そして所管社が内宮に14社、外宮に4社あります。これら合計101社の総体が神宮です。
神宮の内宮にお祭りされる天照大神(あまてらすおおみかみ)に関する祭祀の記録が初めて正史に出てくるのは「初国知天皇」崇神天皇の時代です。
この時、宮中に天照大神・大物主神の二神を祭ろうとしたのですがどちらも強力な神様ですので、
一緒に祭るのはよくないということで娘の豊鍬入姫に委託して大和の笠縫邑に祭ったとなっています。
これが次の垂仁天皇の御代になりますと祭祀は垂仁天皇と「銀金」でおなじみ日葉酢媛(ひばすひめ)の間の娘、倭姫に引き継がれます。
これから倭姫と天照大神との流浪の旅が始まります。
まず最初倭姫は大神を祭るのにふさわしい場所を探して宇陀の篠幡に行きました。しかしそこでは落ち着かず近江の国に行き、
そこにしばらく居てから今度は美濃の国まで行き、さらにそこからも去って伊勢の国に入りました。
この時天照大神のお告げがあって「伊勢の国はしきりに波が打ち寄せる国で辺境ではあるが美しい国である。
私はこの国にいたい」とのことでした。そこで倭姫はこの地に祠を建て、五十鈴川のそばに斎宮を立てました。
さて、この倭姫の巡行ですが日本書紀ではほんの数ヶ月のこのように書いてあるのですが、神宮の古文献では巡行は豊鍬入姫の時代から始まっており
その歩き回って祭祀に適した場所を探す作業そのものを倭姫にバトンタッチしたとされているとのことです。
またこの倭姫が回った場所には現在「元伊勢」と呼ばれる神社が建っているケースもあります。丹波の籠神社・皇大神社、尾張の酒見神社・浜神明社・斎神社などです。
伊勢の地は古代畿内政権の中核地から見て東側の太陽が昇る方角にあり、また伊勢そのものが東側が海で日の出を奇麗に見ることができる場所であり、
太陽神を祭るのには非常にいい場所です。この地における太陽神信仰はもしかしたら畿内政権よりも古いのではないかという考察をする人もいます。
またある人は実際に神宮が国家レベルで祭祀されるようになったのは天武天皇以降ではないかという説をとなえる人もいます。
これは式年遷宮が天武天皇の時に始まっていること、倭姫の巡行の地域と天武天皇が壬申の乱でたどった彼の基礎勢力と思われる地域とが重なっていることから出てきた説のようです。
さて一方の外宮(豊受大神宮)についてですが、この外宮は雄略天皇の時代に創始されたもので、天皇の夢枕に天照大神が現れて、
大御饌(つまり食事)を安らかに食べられないので食物の神である豊受大神を伊勢に迎えて欲しいとのお言葉があり、丹波の国から勧請してきたものです。この外宮からは後に伊勢神道が生まれます。
さきほど少しふれた式年遷宮は20年ごとに宮を移して建て替えるものです。
一番最近は1993年でした。これはこれだけの宮を建てるだけの技術を後世に伝える為と一般には言われていますが、御堂龍児「地理風水」には風水の立場から、
「20年」ごとに建て替えることに重大な意味があることが述べられています。
要するにこれが気の巡り方の変化の周期と一致しているのですが、詳しくはそちらを参照してください。
20年というのは占星術のMutation Cycle の周期でもあります。これを自分でも式占をするなど占いに詳しかった天武天皇が始めたというのは面白いところです。
なお、神宮は天皇が直接お祭りする宮であることから一般の人は直接社殿を拝むことはできないことになってます。
ただし遷宮の時にまだ神様が移ってくる前の社殿は拝見することができます(お白石持ち行事)。
また一般の人からの捧げ物も以前は拒否していたのですが、鎌倉時代からは熱心な民衆の声に応えて、認めるようになりました。
また神宮には昔は天皇の皇女が斎王として仕えていましたが、後醍醐天皇の時代で途切れています。
この件については既に天照大神の項でも触れましたので省略します。
錦旗(錦の御旗)に描かれた日像と神号。
天照大神
アマテラスオオミカミ
その名の通り、あらゆる生命にとって必要な太陽を象徴する神である。このような太陽信仰は世界中にある。日本では古くから太陽を「日の神」として信仰し、天照大神ももともとはそうした太陽信仰から発展した神霊である。ただ、ほかの信仰と違い、古代日本人は太陽神そのものを信仰するほかに「日の神」に民族の祖神というイメージを重ねて祀った。そうした二重の性格を備えた神が天照大神である。
天照大神についての神話としては、「天岩戸隠れ」が有名である。天照大神が岩戸に隠れたために、世の中は光を失い、悪霊が満ち、災いが起こる。このことは日照時間が減ることによる不作、あらゆる生命の衰弱、そのことによる飢饉、餓死、疫病などを指しているのだろう。さらに「太陽が隠れる」ことには、古代の人々は冬至の頃とイメージを重ねていたようだ。その時期には、人々は太陽の再生を願って神祭りを行った。これは太陽の”死と再生”の儀式でもあった。「天岩戸隠れ」には、こうした農耕儀礼が反映されている。このことから、天照大神は大地の豊穣性を体現する母なる女神ともいえる。
一方、この神には男性的な側面もある。これを象徴するのが、神話の中で天照大神が勇ましく武装する場面だ。地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼女は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。弓矢というのは、古来軍事力を象徴する道具であった。そういった武具をフル装備する天照大神は、軍事を象徴する神でもあったといえるだろう。軍事とは国土を守るための力である。天照大神が皇祖神として崇敬されるようになった背景には、そうしたパワーへの強い信仰があったとされている。
以上のように、天照大神は、太陽の女神としての大地母神的な性格と、武力・軍事力に象徴される男性的なパワーを兼ね備えている。それがあまたの男性神を押しのけて、実力ナンバーワンの日本の最高神として君臨している理由なのである。
「天照大神」と書いて、「あまてらすおおみかみ」と読む、文字通りには「あまてらすおおかみ」と読むが、皇室の祖神ということで、尊敬の意を込めて「あまてらすおおみかみ」と読む習わしになっている。ところが、この天照大神は、本来は、「皇室の祖神ではないのではないか」、あるいは、「天照大神は男ではなかったか」と言った疑問が、戦前から出ていた。
私が、書いたい本編第2弾でも、天照大神が男であるということを、「天の岩戸」を引き合いに出し説明した。すなわち、「古事記や日本書紀では天の岩戸という話で出てくるが、これとて、天照大神が男であるなら、話になるのである。
なぜなら、ストリップショーを見て喜ぶのは男であり、女ではない。ストリップショーを見るために岩戸を開けることが、期待されるのは男の場合である」と書いている。今回は、天照大神について、松前健氏「日本の神々」(中公新書1997年4月18版)をもとに、天照大神の真相を見る。
まづ、天照大神の性格を見てみる。天照大神は、「古事記」、「日本書紀」ともほぼ同じ記述をしている。すなわち、天照大神は、イザナギ命の目から生まれた太陽神であること、高天原の統治者であること、皇室の祖神であること、女性であること、弟にスサノウがいたこと、高天原でスサノウのいたずらに腹を立て天の岩戸に隠れたこと、日本を統治するために、使者を出したことなどが書かれている。
日本の特徴として、神話・説話が、世界と比べるとよく残っている。世界では、民族の断絶(エジプトもピラミットを作った民族と現在のエジプト人は民族が違う)、一神教の普及(ヨーロッパ)、社会主義の宗教否定(ロシアや中国)、親子の断絶(アメリカ)などにより神話や説話は、ほとんど残っていない。
私たちが知っている世界的な神話としては、ギリシャ神話、インドのヴェーダ、東南アジアのラーマヤーナ、旧約聖書、中国の三皇三帝神話などがある。(これら以外、当然、地方の説話や民話は数多く残っている)
これに対して、日本では、先の古事記、日本書紀、以外に、風土記、旧事紀、アイヌのカムイ伝など、神話・説話を記述した歴史書や研究資料が多く残っているし、多神教ということで、東北地方、日本海側、沖縄などには、いまでも民話が多く残されている。
このことが、幸いして、8世紀に成立した古事記や日本書紀の歴史書の成立過程が、歴史学・民俗学の面から(考古学だけではない)分析可能となっている。以下に、今の歴史学会が、天照大神をどのように見ているかを述べる。
まづ、天照大神は、本来皇室の祖神ではないという意見である。現在、残されている各氏族の祖神は、タカムスビカミ、オオクニヌシ、天の日矛(あめのひほこ)などがある。天照大神もこれらと同じレベルの今の伊勢地方の祖神であったとう説である。
そして、天皇一族の祖神は、当初は、タカムスビカミでなかったかと言われている。すなわち、6,7世紀に天皇一族が、伊勢地方の祖神天照大神を自分たちの祖神としたのである。古来、天皇家の最大の儀式は、新嘗祭や大嘗祭(天皇が即位した直後に行われる新嘗祭)である。このときの祭主が、タカムスビカミである。そして、天照大神自身は、定常的な天皇家の祭儀には、全く登場しない。
また、天皇継承や国難に際しても天皇家が伊勢神宮にお参りする事はなく、全く頼りにされていないのである。このようなことから、天皇家の祖神は、もともとは、タカムスビカミであったと考えられている。
では、天照大神は、本来どのような神であったか。天照大神は、もともと伊勢地方の地方神と考えられている。伊勢地方の小さな海洋性豪族が、自分たちの祖神として、太陽神である天照大神を持っていた。
5,6世紀は、大和政権の東方遠征(埼玉県ぐらい)の盛んな時期であり、伊勢が東方遠征の出発点になり、伊勢地方の神である天照大神に、武運長久の願いをした。このことがいつの間にか大和政権の守り神となった。
また、大和政権の確立とともに、政権の神格化として、生産の神のタカムスビ神より、太陽神である天照大神の方が、都合がよかったことなどが考えられている。(丸山二郎氏の説)このような例は儒教にもある。多くの神々が存在する儒教の神は、時代と地方により、神の地位が違うのである。古代日本の祖神も一つの氏族は、恒久的に一つの神を祖神と考えるのではなく、時代とともに変化したと考えられる。
古事記・日本書紀での天照大神の役割はなにか。古事記・日本書紀では、宇宙創造主(アメノミナカヌシ・タカムスビ・カミムスビ)、宇宙創造神の誕生(イザナギ・イザナミ)、太陽神と月神の誕生(天照大神・月読命)、出雲の国の開発(天照大神の弟であるスサノウの大蛇退治)、天孫降臨(出雲の国譲りの話)、神武東遷、そして皇室の成立と話が続いてゆく。
このようなストリーの中で、天照大神は、高天原の統治者として位置づけられている。そして、天孫降臨の発案者であり(実際に高千穂峰に降ったのはニニギの命)、日本の国造りを考え出した神様とされている。まさに、天照大神は、神の世界と現実の世界とを橋渡しする役割を与えられている。そして、天照大神は、神武天皇以降の天皇家の祖神とされている。
古事記・日本書紀の神話は、実は日本固有のものではない。それは、中国や朝鮮の神話とも違っている。ハワイ、ポリネシア、ニュージランドでは、「パパ」と呼ばれる女神が、太平洋の島々を作ったという神話があり、イザナギ・イザナミの国生みと同じ話になっている。実は、これ以外にも、鳥が島を運んできたという話もあるが、これは、出雲の島を新羅から持ってきたという出雲の神話などと共通している。このように日本の神話は、太平洋諸国の神話と共通性が多い。
天照大神は、男神だったか。実は、日本の神々の多くは男なのである。そして、これら神様の奥さんは「人間」というパターンが多い。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。(秀吉の母が、太陽の夢をみで秀吉を懐妊したとう話もこれと同じである)
伊勢神宮には皇大神宮があるが、この祭神が「オホヒルメ」である。このオホヒルメに関して、従来は「大日女」と考えられてきたが、「大日妻」ではないだろうかという説が出てきた。これは、天照大神が男であれば、その妻という意味で解釈ができるが、天照大神が女神となると理解できない。
しかも、後世天皇から派遣される斎王(皇室の女性が伊勢神宮に未婚のまま仕えること)とオホヒルメが同一視されるのである。(折口信夫氏の説)すなわち、天照大神が男であるから、天皇家は、代々その奥さんになる人を(斎王)送り続けたのである。(著者の意見)
実は、伊勢神宮の社殿にも天照大神が男神であるという証拠がある。伊勢神宮の内外宮の正殿に高さ1メートルほどの柱が、床下中央に立っていて、5色の絹が巻かれている。これを、心御柱、天の御柱、天の御量柱と言う。実は、社殿を造るときに、最初にこの天の御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火を焚いて神儀を行うのである。
これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、男神・天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられるのである。しかも、この儀式は、伊勢神宮の高官である斎王や禰宜(神主)がおこなうのでなく土地の娘が行っている。このことは、皇室の祖神となる前の天照大神の神儀が残されていると考えられるのである。(松前健氏の説)
古事記・日本書紀以来、天照大神は女神にされた。したがって、大ぴらに天照大神の男根を人前にさらすことは出来なくなった。そこで、社殿中央の床下に隠れるようにして男根を設置し、社殿建立の時だけ「妻」がその周囲を踊り回る事態になったものと考えられる。(著者の意見)
それではなぜ、天照大神は女神にされたのか。真説・日本の歴史第2弾で述べた通り、古事記や日本書紀は、持統天皇と藤原不比等によって作られた。藤原不比等は、全体を天武王朝の正当性を主張するために、これら歴史書を作成した。
特に、当時、持統天皇は孫である軽皇子(後の文武天皇)の天皇就任に執念を燃やしていた。不比等は、これに答えるべく女帝から子・孫への天皇継承をことさら正当化すべく天照大神を持統天皇に比定して女神としたのである。古事記や日本書紀を作成するに当たり、日本にある神々が議論され、天武王朝に都合のいいように配列され、神話が構成されていったものと思われる。
したがって、イザナギ・イザナミの話は、もともと紀伊半島の話であるが、イザナミの死後の「黄泉の国」は出雲に設定された。また、スサノウの大蛇退治も、もともと博多地方の話が、出雲の話とされたのである。その結果、古事記・日本書紀と出雲風土記の間で整合性のないものとなった。言ってみれば、古事記や日本書紀は持統天皇と藤不比等によって、当時の神話や説話を再配置した結果なのである。したがって、古代においては、神々の地位も出身も現在のものとは、違うものと考えた方がよい。(著者の意見)
古事記や日本書紀が成立した時代(700年から720年頃)、天皇を「神」と見たのは、藤原不比等だけではない。万葉集に、「大君は、神にしませば、天雲の、五百重が下に、隠りたまひぬ」(置染東人)、「大君は、神にしませば、天雲の、いかづちの上に、いほりするかも」(柿本人麻呂)などの歌があるように、置染東人や柿本人麻呂は、当時の天皇や皇子を神と見ていたのである。
このように少なくとも不比等がいた時代には、多くの人が壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇とその家族を「神」と見ていた。このことは、不比等が、天照大神を設定し、天皇をその子孫とした物語に対して、コンセンサスが得られる情勢にあったことを示している。(著者の意見)
戦後、皇国史観が全面的に否定された。当然、すべての神話や説話も否定されたのである。天照大神のどのような存在であるかなどは、ほとんど議論されることもなくなった。事実、天照大神が男であろうと女であろうと、弥生式時代、古墳時代、大和政権時代の最近の解釈になんの変化も起きない。
ただ、歴史家の一部(安本美典氏など)には、天照大神と邪馬台国の卑弥呼を同一人物と見る人もいるが、天照大神が男神となるとその前提が崩れることになる。(著者の意見)
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)のひとつとされる。『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
『日本書紀』においては天照大神と表記される。
別名・大日?貴神 (おおひるめのむちのかみ)。
『日本書紀』においては複数の神名が記載されているのに対し、『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されている。女神であるが、
実は男神だったという異説も存在する。
天照大神という神名が、『皇太神宮儀式帳』など政治的な部分で用いられていることから、三品彰英や西條勉が論じているように、
本来は高御産巣日神(高皇産霊尊)が皇祖神であり、ヒルメが皇祖神化して天照大神になったとする説もある。
伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、
祭事の際神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)などとも言う。
学術的な文書では現在では「アマテラス」と片仮名書きが慣行となっている。古くは天照太神と書かれたという説も存在する。
古事記
天照大~と須佐之男命
1 須佐之男命の昇天
故、ここに速須佐之男命言ひしく、「然らば天照大御~に請して罷らむ。」といひて、
すなはち天に參上る時、山川悉に動み、國土皆震りき。
ここに天照大御~聞き驚きて詔りたまひしく、「我が汝弟の命の上り來る由は、必ず善き心ならじ。
我が國を奪はむと欲ふにこそあれ。」とのりたまひて、すなはち御髪を解きて、御角髪に纏きて、
すなはち左右の御角髪にも、また御鬘にも、また左右の御手にも、
各八尺の勾玉の五百箇の御統の珠を纏き持ちて、
背には千入の靫を負ひ、ひらには五百入の靫を附け、また稜威の高鞆を取り佩ばして、
弓腹振り立てて、堅庭は向股に蹈みなづみ、淡雪如す蹶散かして、
稜威の男建蹈み建びて待ち問ひたまひしく、「何故上り來つる。」と、とひたまひき。
ここに速須佐之男命、答へ白ししく、「僕は邪き心無し。ただ大御~の命もちて、
僕が哭きいさちる事を問ひたまへり。
故、白しつらく『僕は妣の國に往かむと欲ひて哭くなり。』
とまをしつ。ここに大御~詔りたまひしく、
『汝はこの國に在るべからず。』とのりたまひて、~逐らひ逐らひたまへり。
故、罷り往かむ状を請さむと以爲ひてこそ參上りつれ。
異心無し。」とまをしき。
ここに天照大御~詔りたまひしく、「然らば汝の心のCく明きは何して知らむ。」とのりたまひき。
ここに速須佐之男命答へ白ししく、「各誓ひて子生まむ。」とまをしき。
2 天の安の河の誓約
故ここに各天の安の河を中に置きて誓ふ時に、
天照大御~、まづ建速須佐之男命の佩ける十拳劒を乞ひ度して、三段に打ち折りて、瓊音ももゆらに、
天の眞名井に振り滌ぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる氣吹のさ霧に成れる~の御名は、多紀理毘賣命。
亦の御名は奧津島比賣命と謂ふ。
次に市寸島比賣命。亦の御名は狹依毘賣命と謂ふ。
次に多岐キ比賣命。速須佐之男命、
天照大御~の左の御角髪に纏かせる八尺の勾玉の五百箇の御統の珠を乞ひ度して、瓊音ももゆらに、
天の眞名井に振り滌ぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる氣吹のさ霧になれる~の御名は、
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。
また右の御角髪に纏かせる珠を乞ひ度して、さ噛みに噛みて、吹き棄つる氣吹のさ霧に成れる~の御名は、
天之菩卑能命。
また御鬘に纏かせる珠を乞ひ度して、さ噛みに噛みて、吹き棄つる氣吹のさ霧に成れる~の御名は、
天津日子根命。また左の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ噛みに噛みて、
吹き棄つる氣吹のさ霧に成れる~の御名は、活津日子根命。
また右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ噛みに噛みて、吹き棄つる氣吹のさ霧に成れる~の御名は、
熊野久須毘命。并せて五柱なり。
ここに天照大御~、速須佐之男命に告りたまひしく、「この後に生れし五柱の男子は、
物實我が物によりて成れり。
故、自ら吾が子ぞ。先に生れし三柱の女子は、物實汝が物によりて成れり。
故、すなはち汝が子ぞ。」かく詔り別けたまひき。
故、その先に生れし~、多紀理毘賣命は、胸形の奧津宮に坐す。次に市寸島比賣命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣命は、胸形の邊津宮に坐す。この三柱の~は、胸形君等のもち拜く三前の大~なり。故、この後に生れし五柱の子の中に、天菩比命の子、建比良鳥命、次に天津日子根命は、
3 須佐之男命の勝さび
ここに速須佐之男命、天照大御~に白ししく、「我が心Cく明し。故、我が生める子は手弱女を得つ。これによりて言さば、自ら我勝ちぬ。」と云して、勝さびに、天照大御~の營田の畔を離ち、その溝を埋め、またその大嘗を聞こしめす殿に屎まり散らしき。汝、然爲れども天照大御~は咎めずて告りたまひしく、「屎如すは、醉ひて吐き散らすとこそ、我が汝弟の命、かく爲しつらめ。また田の畔を離ち、溝を埋むるは、地を惜しとこそ、我が汝弟の命、かく爲つらめ。」と詔り直したまへども、なほその惡しき態止まずて轉ありき。天照大御~、忌服屋に坐して、~御衣織らしめたまひし時、その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて墮し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。
4 天の石屋戸
故ここに天照大御~見畏みて、天の石屋戸を開きてさし籠りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原の中國悉に闇し。これによりて常夜往きき。ここに萬の~の聲は、さ蠅なす滿ち、萬の妖悉に發りき。ここをもちて八百萬の~、天の安の河原に~集ひ集ひて、高御産巣日~の子、思金~に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度賣命に科せて鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾玉の五百箇の御統の珠を作らしめて、天兒屋命、布刀玉命を召して、天の香山の眞男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の朱櫻を取りて、占合ひまかなはしめて、天の香山の五百箇眞賢木を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百箇の御統の玉を取り著け、中枝に八尺の鏡を取り繋け、下枝に白和幣、和幣を取り垂でて、この種種の物は、布刀玉命、太御幣と取り持ちて、天兒屋命、太詔戸言祷き白して、天手力男命、戸の掖に隱り立ちて、天宇受賣命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の眞拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸に槽伏せて蹈み轟こし、~懸りして、胸乳をかき出で裳獅陰に押し垂れき。ここに高天の原動みて、八百萬の~共に咲ひき。
ここに天照大御~、怪しと以爲ほして、天の石屋戸を細めに開きて、内より告りたまひしく、「吾が隱りますによりて、天の原自ら闇く、また葦原中國も皆闇けむと以爲ふを、何由にか、天宇受賣は樂をし、また八百萬の~もゥ咲へる。」とのりたまひき。ここに天宇受賣白ししく、「汝命にuして貴き~坐す。故、歡喜び咲ひ樂ぶぞ。」とまをしき。かく言す間に、天兒屋命、布刀玉命、その鏡を指し出して、天照大御~に示せ奉る時、天照大御~、いよよ奇しと思ほして、稍戸より出でて臨みます時に、その隱り立てりし天手力男~、その御手を取りて引き出す即ち、布刀玉命、尻くめ繩をその御後方に控き度して白ししく、「これより内にな還り入りそ。」とまをしき。故、天照大御~出でましし時、高天の原も葦原中國も、自ら照り明りき。
ここに八百萬の~共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、また鬚を切り、手足の爪も抜かしめて、~逐らひ逐らひき。
5 五穀の起原
また食物を大氣津比賣~に乞ひき。ここに大氣キ比賣、鼻口また尻より、種種の味物を取り出して、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、その態を立ち伺ひて、穢汚して奉進るとおもひて、すなはちその大宜津比賣~を殺しき。故、殺さえし~の身に生れる物は、頭に蠶生り、二つの目に稻種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麥生り、尻に大豆生りき。故ここに~産巣日の御祖命、これを取らしめて、種と成しき。
6 須佐之男命の大蛇退治
故、避追はえて、出雲國の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りたまひき。この時箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以爲ほして、尋ね覓めて上り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。ここに「汝等は誰ぞ。」と問ひたまひき。故、その老夫答へ言ししく、「僕は國つ~、大山津見~の子ぞ。僕が名は足名椎と謂ひ、妻の名は手名椎と謂ひ、女の名は櫛名田比賣と謂ふ。」とまをしき。また「汝が哭く由は何ぞ。」と問ひたまへば、答へ白ししく、「我が女は、本より八稚女ありしを、この高志の八俣の大蛇、年毎に來て喫へり。今そが來べき時なり。故、泣く。」とまをしき。ここに「その形は如何。」と問ひたまへば、答へ白ししく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿と檜榲と生ひ、その長は谿八谷峽八尾に度りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ。」とまをしき。
ここに速須佐之男命、その老夫に詔りたまひしく、「この汝が女をば吾に奉らむや。」とのりたまひしに、「恐けれども御名を覺らず。」と答へ白しき。ここに答へ詔りたまひしく、「吾は天照大御~の同母弟なり。故今、天より降りましつ。」とのりたまひき。ここに足名椎手名椎~、「然まさば恐し。立奉らむ。」と白しき。ここに速須佐之男命、すなはち湯津爪櫛にその童女を取り成して、御角髪に刺して、その足名椎手名椎~に告りたまひしく、「汝等は、八鹽折の酒を釀み、また垣を作り廻し、その垣に八門を作り、門毎に八棧敷を結ひ、その棧敷毎に酒船を置きて、船毎にその八鹽折の酒を盛りて待ちてよ。」とのりたまひき。故、告りたまひし隨に、かく設け備へて待ちし時、その八俣大蛇、信に言ひしが如來つ。すなはち船毎に己が頭を垂入れて、その酒を飮みき。ここに飮み醉ひて留まり伏し寢き。ここに速須佐之男命、その御佩せる十拳劒を抜きて、その蛇を切り散りたまひしかば、肥河血に變りて流れき。故、その中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見たまへば、キ牟刈の大刀ありき。故、この大刀を取りて、異しき物と思ほして、天照大御~に白し上げたまひき。こは草薙の大刀なり。
故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲國に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地に來て、我が御心すがすがし。」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大~、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
ぞ。ここにその足名椎~を喚びて、「汝は我が宮の首任れ。」と告りたまひ、また名を負せて、
稻田宮主須賀之八耳~と號けたまひき。
故、その櫛名田比賣をもちて、隱所に起こして、生める~の名は、八島士奴美~と謂ふ。
また大山津見~の女、名は~大市比賣を娶して生める子は、大年~。
つぎに宇迦之御魂~。兄八島士奴美~、大山津見~の女、名は木花知流比賣を娶して生める子は、
布波能母遲久奴須奴~。この~、淤迦美~の女、名は日河比賣を娶して生める子は、
深淵之水夜禮花~。この~、天之キ度閇知泥~を娶して生める子は、
淤美豆奴~。この~、布怒豆怒~の女、名は布帝耳~を娶して生める子は、天之冬衣~。
この~、刺國大~の女、名は刺國若比賣を娶して生める子は、大國主~。亦の名は大穴牟遲~と謂ひ、
亦の名は葦原色許男~と謂ひ、亦の名は八千矛~と謂ひ、
亦の名は宇キ志國玉~と謂ひ、并せて五つの名あり。
靖国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊(死霊の美称)である。
神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。
当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。
この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、
とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する [4]。
本殿での祭神の神座(しんざ、祭神・神体を安置する場所)は、当初は一座であった。
戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王
とを遷座合祀して一座を新たに設けた。従って現在の神座は、皇族の一座とその他一般戦没者の一座の、あわせて二座である。
対象となる人物の国籍については、日本国民及び死亡時に日本国民であった
(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られている。
靖国神社(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社である。
旧称は東京招魂社。東京の九段に鎮座する事から、単に九段あるいは九段下などと通称される事も多い。
2008年現在の宮司は、南部利昭。戦前は内務省が人事を、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が祭事を統括した。 [1]。
祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に就き戦没した
軍人・軍属ら。慰霊・顕彰・崇敬などを目的として祀っている。
単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)である