河野洋平



人物概要

自由民主党第16代総裁、大勇会(旧河野派)会長、日本陸上競技連盟会長、元新自由クラブ代表。内閣官房長官外務大臣を歴任し、2003年11月19日より衆議院議長北京オリンピックを支援する議員の会の会長を務める。日朝友好議員連盟所属。

1955年早稲田大学高等学院1959年早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。同年丸紅飯田に入社。1967年、亡き父の地盤を継承して自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす。若手時代は「プリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰、超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。1974年田中角栄内閣の内閣総辞職に伴う後継の総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は頓挫した。

1976年に政工研のメンバーだった田川誠一西岡武夫山口敏夫らと自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任。結党直後の総選挙では都市部を中心に一挙に17人の当選者を出す躍進を遂げた。しかし、1979年の西岡の離党・自民党復党の打撃を受け、同年の総選挙では惨敗した。以後も党勢は伸び悩み、1983年の総選挙で過半数割れした自民党と連合を組むに至った。河野自身も、1985年の第二次中曽根康弘内閣で科学技術庁長官となり、当選7回にして待望の初入閣を果たす。1986年、新自由クラブは解党し、河野も自民党に復党した。十年のブランクは大きかったが、1992年に宮沢内閣で内閣官房長官に就任した。

1993年小沢一郎ら大量の離党者と総選挙で過半数を割った宮沢喜一内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁に後藤田正晴が浮上。しかし後藤田が固辞したため、自由民主党総裁に就任した。党総裁としては1994年自社さ連立政権を成立させ、自民党の政権復帰を実現した。村山富市政権で副総理外務大臣に就任し、首相の座を目前にしていると見られていた。1995年の自民党総裁選挙では、河野は幹事長森喜朗から三塚博に交代するなどして、再選戦略を展開したものの、加藤紘一らの橋本龍太郎支持によって、出馬辞退に追い込まれる。2006年現在までのところ、歴代自民党総裁で唯一内閣総理大臣になっていない。また、自民党総裁経験者で、衆議院議長になったのも河野だけである。

1998年には宮沢派の後継争いで加藤紘一に敗れ、翌1999年1月派閥として「大勇会」を結成して独立した。1998年の自民党総裁選挙では大蔵大臣の座を狙った加藤の小渕恵三支持に反し、梶山静六を支持した。

1999年には小渕政権で外相に就任。続く森政権でも続投した。

2006年、大勇会会長の座を麻生太郎に譲ることを決め、12月15日、同会を解散した。

マスコミへの対応は紳士的で、演説も巧みであるが、父・河野一郎ほどの政治力はないとの評価が一般的である。その昔、保利茂から「バックネット裏でなく、グラウンドにおりてやるように」と評論家的発言をたしなめられたという。若手政治家が離れていくのは面倒見が悪いからだともいわれている。

河野一郎河野謙三と3代にわたり日本陸上競技連盟会長を務めている。年初に開催される箱根駅伝では、往路のゴールにて自身の出身校である早稲田大学の選手の到着を待っている姿がしばしば目撃される。 また、1976年の新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めた[1]経験がある。

2002年、持病のC型肝炎が悪化し肝硬変が進んだため、4月16日から翌未明にかけて信州大学付属病院で生体肝移植が実施された。この時のドナーは息子の河野太郎である(太郎との共著『決断』を参照)。

2007年にマイク・ホンダ米下院議員、河野談話を根拠に謝罪要求決議案を米下院に提出したことにより慰安婦問題が再燃。河野はその当事者でありながらコメントを出来る限り控えていることに対して保守派からは説明責任があるといった批判をうける。また、「一度謝ったら負けだという教訓から、また(日本国民に)謝ったらするとまた負けることになるということでは」と皮肉られる。

政治姿勢

河野の政治姿勢は一貫して平和主義保守派である。主にインターネット上などでは、過度に中華人民共和国よりの姿勢で「媚中」であると誹謗されることがある。

以下に、河野の政治姿勢を顕著に示す主な出来事を挙げる。

河野談話談話

1993年宮澤喜一改造内閣の官房長官として、「従軍慰安婦問題」に関する日本政府の調査結果を報告した、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)を発表した。

当時の日本政府の調査では、軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったが、政府の姿勢に反して「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言を官房長官として行なった[1]

2007年、政府および国民の間でこの談話を見直す動きが活発化したが、河野は当事者でありながら一切のコメントを控えている。

遺棄化学兵器に関する取り決め

外務大臣在任中、旧日本軍の毒ガス弾の処理において、旧日本軍が武装解除後に中国側に引き渡したものや、ソ連軍のものなど元々旧日本軍と関係のないものまで含めて、日本の責任で処理する取り決めを交わした。その結果、日本政府は、数兆円といわれる莫大な処理費用を負担することになった。(詳細は遺棄化学兵器を参照)

中国の核ミサイル完成に対する祝辞

1999年、中国のミサイル「東風31号」の完成に際し,外務大臣として「中国の技術と未来を感じとることができ、嬉しく思う」とのコメントを発した。東風31号は日本全土を射程に収めており、このような軍事的脅威に対して一国の外相が祝辞を述べることは前代未聞である(参考:中国の核はきれいな核)。

北朝鮮へのコメ支援

2000年、外務大臣として北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。「自分が全責任を取る」と見得を切ったが、この支援量は国連世界食糧計画が要請した19万5000トンの要請を遙かに上回る援助であり(金額にして1200億円)、およそ戦略性のないものとして「なんのためにしたのかわからないコメ支援」(田中明彦)などと批判された。また、供与したコメの一部が軍の備蓄に回されたことへの批判も強い。

李登輝訪日への反対

2001年の台湾の李登輝訪日問題での対応。自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。ただし辞任には至らず。

戦没者追悼式における発言

2006年8月15日全国戦没者追悼式衆議院議長追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と異例の戦争責任論に言及した。また、2007年8月15日全国戦没者追悼式衆議院議長追悼の辞においても、「日本軍の一部による非人道的行為」と戦争責任論に言及した。

遺族会や一部メディアからは、これらは式の趣旨に反した政治的発言であり、戦没者および遺族の感情を逆撫でするものであるとの批判が起きた。阿比留瑠比からは「肉親を失った遺族への深い思いや共感のたぐいでは決してなく、単なる河野氏自身の安っぽい自己満足のせりふの羅列」と痛烈に批判された。

河野洋平 に対するコメントです。

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河野洋平と慰安婦捏造

平成15年11月22日土曜日晴れ ×(平成17年6月10日一部追加訂正)
 現在は衆議院議長の役職にある河野洋平は、平成5年8月に官房長官を務めていた時に、所謂従軍慰安婦の強制性を認めた上、謝罪を含む「いわゆる河野談話」を発表しました。

河野洋平談話(抜粋

平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。



 この事により、支那、南北朝鮮、腐れ偏向マスコミは客観的証拠のない従軍慰安婦強制連行という事について既成事実化をはかっています。

 しかし、平成9年3月12日の参議院予算委員会で、平林内閣外政審議室長は「政府の発見した資料の中には、強制連行を直接示す記述は見当らなかつた」と答弁しています。

また当時副官房長官であった、石原信雄氏は産経新聞のインタビューにてこの河野の談話について下記のように答えています。(97年3月9日産経新聞)
河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているがーー
「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」

一部には、政府がまだ資料を隠しているのではという疑問もあるーーー
「私は当時、各省庁に資料提供を求め、(警察関係、米国立公文書館など)どこにでもいって(証拠を)探してこいと指示していた。薬害エイズ問題で厚生省が資料を隠していたから慰安婦問題でも、というのはとんでもない話。あるものすべてを出し、確認した。政府の名誉のために言っておきたい」

ではなぜ強制性を認めたのかーーーー
「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意志に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当官から報告を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例もあった。談話の文言は、河野官房長官、谷野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官(いずれも当時)らと相談して決めた」

聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信憑性はーーー
「当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣きさけぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側と話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性に当たるものがあると認識している。調査内容は公表しないことを前提にヒアリングしており公表はできない」

韓国側の要請は強かったのかーーーー
「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したと言うこと。元慰安婦へのヒアリングを行うかどうか、意見調整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた」

それが河野談話の裏付けとなったのかーーーー
「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話には『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意志に反して行われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況から判断して、強制に当たるものはあると謝罪した。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞き、宮沢喜一首相の了解も得てのことだ」

談話の中身を事前に韓国に通告したのかーーー
「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う。」

韓国側が国家補償は要求しない代わり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もあるーーー
「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償は済んでいるとなる」

元慰安婦の証言だけでは不十分なのではーーー
「証言だけで(強制性を認めるという)結論に持っていったことへの議論があることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから、弁解はしない」

 つまり、当時の官房副長官だつた石原信雄氏は、"慰安婦"を認めた背景に、元慰安婦とその支援者(NGOなど)や韓国側から強い圧力があつたと述べ、強制性の認定について「日韓両国間での妥協の産物」と明言し、暗にその圧力に屈したことを認めているのです。

それに対して、河野洋平は、平成11年10月5日の外相就任会見において「物理的証拠や、本人の他の人にはわかり得ない話などを踏まえて発表した。確信を持っている」(10月6日付 産経新聞朝刊)

 ところがこのバカはそれでいて、その前の朝日新聞の取材に対して
「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に助成を駆り出した』と書かれた文書があったかといえば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだ」
(1997年3月31日朝日新聞)
これは、証拠は無いが、自分の思い込みだけで談話を出したという事をいっているのです。売国奴の真骨頂でしょう。


 以上より物理的証拠という物も何も示さず、本人のいった事をそのまま認めているだけという、客観的に物事を判断したのではないという事を自分で認めているのです。河野はあきれたバカとしか言い様がありません。自虐趣味の連中に多いタイプですけど、一国の外相(こいつは害相)としては最低です。
また、このひとは平成13年10月4日に、「自分が全責任を取る」と述べて、北朝鮮に50万トンの米支援を決定しました。
 この50万トンという量は、国連の世界食糧計画が要請した19万5000トンの要請を遙かに上回る援助で、金額にして1200億円もの金を犯罪国家にただでくれてやったのです。
 この大盤振る舞いは日本人拉致など問題解決には何の役にも立ちませんでした。結果はタダ取りされただけで、何もなりませんでした。

 1995年にバンコクで行われた東南アジア諸国連合外相会議に出席の途上、台風の影響で乗っていた飛行機が台湾に緊急着陸した際には、その搭乗機から一歩も降りず、緊急着陸で世話になった台湾当局には給油の謝辞さへも伝えずにそのまま離陸し、そして、バンコクでは銭其環中国外相に対して「台北空港で私は一歩も外に出ませんでした」(または「私は台湾の土を踏みませんでした」)と書いてあるのもありますが、どちらにしても中国様に対してはシッポふり振りの忠犬ぶりです。

こういった売国奴といわれる政治家(まあ、このhttp://youmenipip.exblog.jp/場合は単なるアホウかもしれません)がごろごろしているようです。

河野洋平の特集があります。
http://youmenipip.exblog.jp/

河野洋平

河野談話(売国奴河野洋平による慰安婦捏造発言)

河野洋平と反日の連鎖

朝日新聞の従軍慰安婦問題と遺棄化学兵器問題にみる共通性(4月5日)

河野洋平の売国奴つながり(4月20日)