天草 四郎
本名は益田四郎時貞
悲運の少年大名
島原の乱(天草の乱:1637−38年)の首謀者と目された少年。しかし、その「素顔」を晒すことはついになかったとも云われる。
したがって、長崎に送られて晒されたという彼の「首」も、果たして「天草四郎」本人であったかどうか・・・謎に満ちた少年である。
彼は、時に、益田時貞/江辺四郎/大矢野四郎/天草四郎太夫時貞/天の四郎秀綱などの名で呼ばれ、
また洗礼名はジェロニモであったとも伝えられている。
恐らく、こうした複数の名前から、「天草四郎」という少年について、人々は憶測的なイメージしか持っていなかったのではないかと推測されて来る。
とりわけ、注意すべきは、「時貞」と「秀綱」の違いだろうか。
これは、二人の異なった人物ではないのだろうか?/いったい「天草四郎」とは、どちらのことを指していたのだろう?・・・
あるいは、ジェロニモという洗礼名を持つ少年は、さらに第三の少年だったかも知れない。
「天草四郎」が、一人であったにせよ、複数の少年たちの面影であったにせよ、それはそれでかまわないと思う。
天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。
天草四郎像(原城)
天草 四郎(あまくさ しろう、元和7年(1621年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、
江戸時代初期の吉利支丹、農民反乱である島原の乱の指導者とされている人物。
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ/苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞)。
洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。
一般に天草四郎時貞という名で知られる。
本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。
通姓の「天草」は戦国時代天草の有力豪族だった天草氏からと言われている。
天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。
銅像 肖象画 たくさんあるが どれも共通性がない。
小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある、現在の熊本県上天草市大矢野島で生まれた、とされる。
しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後浪人百姓として一家で宇土に居住したという。
頭がとても良く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。
小西氏の旧家臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、
さまざまな奇跡を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤・豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わる。
幕府軍の原城総攻撃により討死。
首は長崎へ送られ、原城大手門前にて晒された
悲運の少年大名?
と歴史では呼ばれているが?が付きます。
何故か? 検証しました。
現地では地元 天草の悲劇の英雄として観光の目玉であるがどうもウサン臭いのである。
彼とその側近集団は日本人を奴隷として海外に売り飛ばした奴隷商人首魁ではなかったか?です。
秀吉軍と原城をめぐる攻防とかは他でお調べください。いくらでもあります。
ここではあくまで暗部 奴隷商人として検証いたしました。
キリシタン大名
高山右近(ジュスト)代表的なキリシタン大名。追放先のマニラで客死
高山友照(ダリオ) 飛騨守。高山右近の父。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。
16世紀末〜17世紀初めにキリスト教を信仰した大名。
洗礼を受け領内に教会を建て布教に努力。
九州の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、近畿の高山右近、小西行長らが有名。
17世紀半ばに禁教令により消滅。
主なキリシタン大名
フランシスコ・ザビエル肖像。
鹿児島市のザビエル公園にある銅像。左はヤジロウ、右はベルナルド
またキリシタンは一夫一婦制を厳格に守り、女性の人権をも守った。
彼らは領主とは思えぬ 謙遜な態度で領民に接した。
女性の人権を守った? 違うでしょ。売り飛ばしたです。
キリシタン大名、高山右近が高槻城主であった頃、
現在の大阪府高槻、茨木地区には多数のキリスト教信者がいたが、
キリスト教に対する弾圧により、それが消滅したかに見えた。
しかし、一部のキリスト教信者は信仰を捨てきれず、
山奥深く潜み、隠れキリシタンとして隠遁生活をおくっていたという。
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キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却
さて これが本題です。
豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、
中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の
大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、
一般の日本人より高い倫理性を持っていたようなイメージを持っているが、
日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
倫理観というのは時代とともに変遷する。
現代の倫理観を基準に当時の人々を批判するのは、慎重にすべきかも知れないが、当時でさえ、
秀吉や少年遣欧使節の少年らが、このキリシタン大名らの奴隷貿易を批判の目で見ていたとすれば、
当時との日本人としても、唾棄(だき)すべき事だったのではないだろうか。
ただ、近世に至るまで西欧ばかりでなく、アジアでも奴隷貿易が行われていた。
特に西欧列強によるアフリカからカリブ諸島、北米大陸への奴隷貿易は大規模で、
列強が繁栄を築く一つのいしずえにもなっている。
しかし、それは、他国の人間を商品として売買するのであって、自国民を売り飛ばす訳ではなかった。
キリシタン大名が「自国民」を奴隷に売り飛ばすというのは、どういうことだったのだろうか。
それほど、日本人の民度は低かったのだろうか、それとも、キリスト教に改宗し、
神の国への復活を願うキリシタン大名らにとって、改宗しない日本人は、もはや自国民では、なかったのだろうか。
現代の北朝鮮の日本人拉致にも、つながる要素が含まれているのだろうか。
皆様のご意見をぜひ、お聞きしたいと思います。
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<以下は引用コピー>
◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249〜 P282より
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に
運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、
わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
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<引用開始>
コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
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天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人 奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」
(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、
子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−
奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、
このエピソードからも十分に推察ができるだろう。
私や他の方の意見
中世 アフリカ沿岸 中南米 カリブ海沿岸でもポルトガル スペイン人が奴隷売買をしていた、とあります。
ポルトガル スペインは国技で奴隷売買を世界中でやっていた?、、
彼らの他国への侵略 植民地政策は奴隷狩が目的だった。キリスト教布教は隠れ蓑だった。
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十字軍の少年兵が奴隷として売られた話がありましたが、
日本人が奴隷として売られたとは、驚きです。
歴史の教科書に記載がなかった気がします。
少年十字軍もそういえば、奴隷に売り飛ばされてしまったのですね。
キリシタン大名によって、日本人が奴隷に売られた話は、
教科書にも小説にもまったくと言ってよいほど、出ていませんね。
あまりに非人間的過ぎて、題材として扱いにくいのでしょうか。
本当に恐ろしい話ですね。人間は神の心と悪魔の心を合わせ持った存在だといいますが、
それにしても秀吉の時代のキリシタン大名の仕業は悪魔以上ですね。
日本人はキリスト教に良いイメージを持ちすぎているかも知れません。
エルサレムを占領した十字軍は、イスラム教徒に対して本当に悪魔としか言いようがない残虐行為を行っています。
十字軍は「異教徒を大勢殺すほど、神の御心にかなう」と信じていたそうです。
現代の取り澄ましたキリスト教のイメージとは、大違いです。
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情勢
ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、
拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。
西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、
宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。
肥前の大村純忠はキリシタンに理解を示すことで、当時、平戸でトラブルを起こしていたポルトガル船を
自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、1563年(永禄6)に受洗して
初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進した。
このあと、九州では78年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、
80年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗した。
一方、キリシタンは畿内にも浸透していくが、当初は大名の保護を得られず、
民衆への布教から開始された。
しかし64年(永禄7)頃、三好長慶、松永久秀の家臣たちが日本人宣教師ロウレンソの説教を聞いて入信したのを契機に、
高山友照(ダリオ)・右近(ジュスト)父子も受洗し、
その後小西行長(アウグスチノ)、蒲生氏郷(レオン)、織田有楽斎(ジョアン)、黒田如水(シメオン)・長政(ダミアン)らも入信した。
彼らの保護でキリシタンは大いに普及したが、
87年(天正15)豊臣秀吉のバテレン追放令以前に大村、大友の両大名は死亡し、小西行長は関ヶ原の戦のあと刑死、
高山右近はマニラに追放となって、ついにキリシタン大名は絶えてしまった。
キリシタン大名は家臣や領民の統制をはかるために神を絶対視し、
神社仏閣を焼き払ったために領民や諸大名たちから反発を受けたが、
こうしたことが原因となって禁教令が促進されたともいえよう。
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私の意見
何故 大名たちがキリスト教に入信したのか?
それに見返る莫大な密貿易による利益があったのではないか?
輸入するものは 鉄砲 火薬である。
しかし当時日本から輸出する主な産業品はなかった。
それでは何故 交換貿易が成立したか?
日本から輸出したのは若い娘である。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃からポルトガル スペインの奴隷貿易航路になっていたのです。
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情勢
戦国時代の末、キリシタンが伝えられた頃の島原半島は、高来地方と呼ばれ、有馬氏が支配していた。
1563年にキリシタンの布教が始まり、有馬の大名ドン・アンドレア有馬直義、
その嫡子ドン・プロダジオ有馬晴信が洗礼を受けてキリシタン大名となったので、
家臣や領民の多くがキリシタンになり、島原半島一円にキリシタンが広がった。
中央では5年後の1568年に織田信長が足利義昭を奉じて入京し、
信長の天下統一が始まると言う時代であった。
1580年には北有馬の日野江城下に、セミナリオと呼んだ、
現代の中学と高校を合わせたようなキリシタン学校も設立されて、
島原は長崎と並ぶキリシタン文化が栄えた所となるのである。
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キリシタン大名・有馬晴信
晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊 し、
仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、
晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を 没収した。
領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超 える人々が改宗したという。
晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、
インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。
つまり奴隷狩です。
同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを 舞台にして周辺諸国を巻きこんで
プロテスタントとカソリック が戦った「30年戦争」が起こった。
いわゆる宗教戦争の最大 のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略
奪、住居の破壊などで
人口の30パーセントから90パーセン トが失われたという。
こうした悲惨な経験から、ヨーロッパで は、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく
秀吉は、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ シコやフィリピンのように、
我が国を侵略する野望を持ってい るのではないかと疑い始めた
宗教の名で他民族を侵略する。8回に及ぶ十字軍の遠征と同じです。
十字軍の遠征については 今 まとめていますから後ほど 掲載します。
戦って死ぬことで天国へ行ける
四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうす れば天国へいけるであろう、
しかしそれを怠れば地獄へ堕ちる であろう」と籠城の一揆勢に督戦した。
戦って死ぬことで天国 へ行ける、という教えである。
この思想は支配者 指揮官側に都合がよい。
今でもイスラム過激派の指導者はそう煽動して無知な市民に自爆テロをやらせていますが。
これらを念頭において次をお読みください。
キリシタン弾圧の嵐、吹き荒れる
キリシタン文化を謳歌していた天草に、大きな転機が訪れる。キリシタン大名の小西行長が
関ヶ原の戦いに敗れると、天草領は肥前唐津領主・寺沢広高に与えられた。 寺沢は天草の検
地を行って4万2000石としたが、これは実際の2倍の石高にあたる。以後、天草の人々は重い
年貢に苦しめられることになった。さらに、全国的なキリシタン弾圧の暗雲が、キリシタンの島・
天草にも重くたれこめてくる。 「伴天連門徒ご禁制なり。もし違背の族あらば、たちまちのその科
(とが)をのがるべからざる事」慶長17年(1621)の禁教令である。 すみやかに天草から伴天連
を追放し、切支丹を絶滅せよ! 将軍の命を受け、寺沢広高は本格的なキリシタン弾圧を始め
る。 「25年後、16歳の天童が現れてパライゾ(天国)が実現するであろう」 そんな予言を残し
て、上津浦(有明町)にいたママコス神父はマカオに追放された、と伝えられている。