中国編
南京大虐殺はウソだ!
http://www.history.gr.jp/~nanking/index.html
南京大虐殺派のウソ写真と証言
http://www.history.gr.jp/~nanking/lie.html
南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/~nanking/fukei.html
南京大虐殺とは?
南京入城、昭和12(1937)年12月17日 | 松井石根大将 |
1937(昭和12)年12月13日の南京陥落の翌日から6週間の間に、
女・子供を含む南京市民や無抵抗な中国軍兵士の捕虜
(国民党、現台湾政府軍)を含む約30万人が殺害されたとされる事件。
その事件後には国際連盟・諸外国から非難を受けたと教科書などに掲載されている。
東京裁判において日本軍司令官、松井石根(まついいわね)大将が虐殺命令を行ったとされ、絞首刑となっている。
参考リンク
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アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のウソ
大虐殺派のウソ写真と証言
昭和13(1937)年12月13日、
南京陥落時の人口は?
一般市民・・・約20万人、中国軍兵士・・・約3.5〜5万
南京防衛軍司令官 唐生智(上写真) |
1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人いたのか?
虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
馬超俊・南京市長は12月1日、全市民に対して「南京安全区国際委員会」が管理する安全区(難民区)内に非難せよと命令した。
一方、国際安全委員会に対しては、米、麦、金子と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民はほとんど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。
中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北のゆう江門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って"安全区"を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
この"安全区"(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の「南京安全区襠案」とマンチェスター・ガーディアンの特派員ティンパーリーの「戦争とは何か」(What war means : the Japanese terror in China : a documentary
record /compiled and edited by H.J.Timperley)の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13(1938)年・2)に「南京脱出記」を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
また、米ライフ紙には「日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概(おおむ)ね20万」と言う。
松井大将は「陣中日誌」の12月20日に、「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12〜13万から最高20万の間とみて間違いない。
唐生智麾下(きか)の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16〜17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(洞富雄(ほらとみお)著「南京事件」(新人物往来社)179ページ)。
「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店)178ページ)
いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於(おい)テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居(お)リマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
マギー牧師撮影の南京市民脱出の様子 | 左に同じ |
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"南京大虐殺(南京事件)"の地域と期間
"南京大虐殺(南京事件)"が発生したとされる地域と期間、中国側の主張は以下の通り。
これは極東国際軍事裁判(東京裁判)判定主張そのである。
(※しかし、なぜか上海から虐殺が始まるとする珍説が日本の一部の虐殺肯定派にはある。)
[ 地 域 ]
※(上図)『第二次大戦における中国戦線 写真・記録集 中国版対日戦争史録』(編纂:中国・国際戦略研究基金会)から引用した松尾一郎著、光人社刊『プロパガンダ戦「南京事件」』から
[ 期 間 ]
南京にある虐殺祈念碑に大書きされた期間、「1937.12.13−1938.1」。
※1937(昭和12)年12月13日の南京陥落日から翌年の1938(昭和13)年1月まで
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"虐殺(ぎゃくさつ)"とは何か?
「中国の旅」表紙(上) | 「南京への道」表紙(上) |
「虐殺」とは何か?
"虐殺"(ぎゃくさつ)という単語を辞書で調べると ・・・ むごたらしい方法で殺す事、とある。
"大虐殺"というと、大量にむごたらしい方法で殺す事になるのだろうか?
日本の歴史の中に"虐殺"という単語が使われた様子も無いし、聞いた事も無い。
しかも"虐殺"という言葉には、あやふやな点が多く、数などの基準は無い。
むごたらしいという表現は、人それぞれの主観的な判断の影響があるだろうし、過去に論じられた記事はあるものの結局は、定義などは無いという結論に至っている。
しかしながら現在では、"南京大虐殺"という言葉が蔓延しているのである。少々不思議に思わざるを得ない。
実はこの"大虐殺"という単語が始めて使われ始めたのは、ごく最近の話で昭和46(1971)年8月末に「朝日新聞」紙上でレポート記事として本多勝一記者によって取材、掲載された「中国の旅」(上写真参照)によってである。
この記事によって始めて"大虐殺"という単語が登場する。
この時に中国側が用意した証言者達が一様に"大屠殺"(だいとさつ)と述べる。
だがこの"大屠殺"とは日本人には全くなじみが無い、それを本多勝一記者が"大虐殺"と訳し記事として掲載したようである。
と、共に"南京事件"と呼ぶより"南京大虐殺"と呼ばせた方がよりインパクトがあると考えた上での計算づくの訳であったのだろうと思われる。皆まんまと引っかかった訳である。
この事により、鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」(文藝春秋)、洞富雄「南京大虐殺」(現代史出版会)というタイトルに使われ始め、さらに昭和57(1982)年の教科書誤報事件によって一躍脚光を浴びる事となった。
現在は皆"南京大虐殺"と呼んでいるが実際には、今から約30年前、戦後25年近く経ってから使われ始めたのである。
東京裁判から朝日新聞レポート記事「中国の旅」
現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は、昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
GHQは世界へ大々的宣伝し日本軍によるナチス=ドイツのアウシビッツと共に人道上の罪として知られる事となった。
この時、東京裁判では、南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)と呼んでいた。
東京裁判では、連合国側(アメリカ、中国)から昭和12(1937)年12月13日の南京陥落から、このような事件が日本軍によって行われたと告発されたのである。
昭和23年11月12日東京裁判が終了し、12月23日に、南京での事件の罪(訴因55=第3類「通例の戦争犯罪及び人道に関する罪」<戦争法規及び慣例法規違反>同法規尊守義務の無視)によって松井石根大将が巣鴨拘置所で処刑されて以降も、"南京での暴行事件"であるとか"南京での暴虐事件"などと言った呼ばれ方をした。
ところが当時は戦後まもなくの事でもあり、従軍経験者も多く、さらに南京に駐在した軍関係者、民間人も多数おり新聞記者も数多く滞在していた。
それら人々は南京事件に関しては全面的に否定的であった。
東京裁判が閉廷後も、ほとんど事実として認められる事も無く、論じる事も無く、日本人の中にも南京での事件について語るものも全くおらず戦後、日中戦争に関する書籍や文献にも全く引用される事が無く、忘れさられようとしていた。
ところが戦争が終わり、実際に南京を見てきた人達が昭和40年代中ごろから新聞社からいなくなると共に、突然あったあったと大騒ぎをし始める。
それが昭和46(1971)年8月末から12月までの間に、「朝日新聞」紙上にて衝撃的なレポートである「中国への旅」という本多勝一記者による記事である。(上写真参照)
このレポートは、当時の中国は文化大革命という狂気の時代であり多くの諸外国のマスコミは中国の行う狂気じみた粛清(しゅくせい)の嵐に批判し反論を行った。
その為、中国共産党が少しでも気に食わないとマスコミ各社は国外追放を受ける事となった。
昭和42(1967)年のサンケイ、毎日の国外追放理由は、毛沢東の似顔絵を新聞に掲載したというものだった。
また、読売新聞の追放理由は東京で読売新聞が主催するチベット秘宝展を開催したという事だった。
このような些細(ささい)な理由で朝日以外の各社は次々と中国から国外追放とされた。
だが朝日新聞1社だけは、国外追放を免れる為に、中国共産党へ奴隷(どれい)とも言えるような追従記事を平然と掲載し、さらには狂気の文化大革命を賞賛し、誤報や中国共産党の広報紙としての役割を担う事となる。
さらにこの頃、アメリカはベトナム戦争中で、戦争終結の為に北ベトナムとカンボジアのクメール・ルージュ(カンボジアで数百万人を殺害したポル・ポト政権)を支援していた中国と急速に接近した。
この際にも、朝日新聞は数百万人をも虐殺した、ポルポト政権に対して”ポル・ポトはアジア的優しさにあふれている”等と言った、虐殺肯定を行う記事を平然とそして次々と掲載していった。
いかに朝日が狂った行為に及んでいたか想像できよう、無論このような事ばかりしていたので、その後発行部数第1位から2位へと転落するのだが。
米中接近によって日本も、田中角栄首相の時代に中国共産党政権との国交樹立を果たす事となった。
日本は敗戦直後、蒋介石政権である中華民国を正式な中国代表と認めており、1949(昭和24)年の蒋介石率いる国民党政権(現台湾政府)と毛沢東率いる中国共産党(現中国政府)の内戦以降もその状態は続いていた。
この日中国交樹立を推進しようとする、当時の朝日新聞の故・広岡知男社長がいかに中国の為に事実無根であろうが記事にし、ウソの記事を平然と掲載していったか別項を参照して頂きたい。(「平和甦る南京」写真特集)
その中国賞賛記事の一貫として、朝日新聞の本多勝一記者による「中国への旅」や「朝日ジャーナル」「週刊朝日」での連載記事である。
"大虐殺"は政治的意図を持つ単語である
前述したが、この本多勝一朝日新聞記者によるレポート記事「中国の旅」記事によって初めて「大虐殺」という単語が使われる事となった。
この「中国の旅」が掲載されるようになった理由の1つとして、昭和40年代中ごろには各新聞社において南京戦に取材し南京に駐在していた関係者が徐々に退社し始めていたのである。
このような新聞社における背景もあったのである。
さらに本多勝一朝日新聞記者は言論の自由どころが中国共産党を少しでも批判しようものなら中国の一般市民ですら即、処刑される文化大革命時代に中国共産党が用意した(自称)被害者から聞き取り調査を行う。
その際に証言者達は一様に"大屠殺(だいとさつ)"という単語を使っているのである。
この"大屠殺"という意味は中国人の歴史感や文化を元に使われる単語であり、日本には全く縁の無い単語である。
過去に中国の歴史では、数万、数十万時には百万とも言える殺戮の歴史があった。
"揚州十日記"と"嘉定屠城記"いう余りにも有名な物語が中国には存在する。
日本人に言わせれば年末と言えば"忠臣蔵"と同じ感覚である。
その"揚州十日記"と"嘉定屠城記"の物語は清朝が明朝を滅ぼした折りに降伏勧告を無視し、城(中国の街)に立て籠った老若男女をみな殺しにして、体をばらばらに切断して、その肉を煮て食うことを意味する。
例え犬、猫であろうが命あるものは総て1人、1匹残らず殺戮しまくる事を意味するのである。
この屠殺の凄惨が上記の日記では記述されており、さらに中国の歴史では幾度も行われている慣例でもある。
従って、支那人の歴史感覚をもってすると降伏勧告を拒絶して戦い敗北した南京は、夷敵日軍により「屠城」されたと盲信することはさけられない。
中国人が必ず想像出来る人間を生き埋めにし、首を次々と、はねる事は日常茶飯事、さらには人間の手足を切り家畜として育てる人豚などと言った残忍で残虐な日本人の想像も及ばない猟奇的行為が平然と中国の歴史には存在するし、中国は噂の文化であり、マスコミよりも噂や人づての話を信じる土壌があるのである。
この点を充分に理解する必要がある。
昭和12(1937)年7月29日に起きた日中戦争の原因の1つにもなった通州事件では日本人260余名中223名が無残に殺害された事件の模様などは、中国人の潜在的な猟奇性を物語る例えである。
日本人の想像の及ぶものでは無い。
この"大屠殺"という単語を朝日新聞記者であった本多勝一記者が「中国の旅」によって、中国においては否定出来ない中国人の猟奇性である残虐行為のをそっくりそのまま日本人に当てはめようとして成功したのが"大虐殺"という単語なのであるこの事は重要な事でもある。
先に東京裁判においては、"南京暴行・強姦事件"という呼び名であった事を述べた。
ところが、昭和40年代中ごろ当時は左翼運動真っ盛り、今では笑い話となるが日本を共産主義国家に変える事を真剣に考え国内でテロを起こしていた時代であった。
このような時代に、中国から"大虐殺"という中国の政治用語である単語を、本多勝一記者は輸入し蔓延させてしまったのである。
朝日新聞という当時、発行部数大一位を誇る大新聞を使ってである。
そのため、その「中国の旅」掲載以降「南京大虐殺」という単語が平然と使われるようになってしまった。
さらに決定的だったのは昭和57(1982)年に、教科書誤報事件が起こる。
NHKですら意図的に教科書誤報事件を大々的に報道し、そしてセンセーショナルにマスコミがキャンペーンを行ったために「南京大虐殺」の認知度は急速に高まったのである。(ただし産経新聞1社だけはあやまちを認めた)
「大虐殺」と「事件」では、読む人に与えるインパクトが全く違う事となる。
朝日新聞記者、本多勝一してやったりであった。
本当の呼び名は「南京で起きたとされる事件」または「南京での暴行強姦が起きたとされる事件」が正しい
昭和57(1982)年11月、日本中のマスコミが「侵略」から「進出」へと書き換えたという教科書誤報事件の数ヶ月後に出版された、当時の20万人以上が殺害されたという主張であった虐殺派の元早稲田大学教授、故・洞富雄氏の著作「南京大虐殺」(現代史出版会)の巻末にはこう書かれている。
本書が「決定版・南京大虐殺」と題しているのは、かならずしも、筆者の意によるものでないことを、お断りしておく。なお、今は定着している「南京大虐殺」という呼称も、私は常には「南京大残虐事件(アトロシティーズ)」と呼ぶことにしている。
この意味は一体何なのだろうか?
洞富雄氏はこの著書から10年前の昭和47(1972)年4月には「南京事件」という著書を出版している。
この年には「中国の旅」が朝日新聞に連載されている。
ところが今回の「決定版・南京大虐殺」はちょうど教科書誤報事件から数ヶ月後に出版されている。
これは、"大虐殺"という単語がインパクトを持っている事に出版社が着目したためではないかと思う。
"大屠殺"のもつ中国の歴史をも含む単語を日本へ輸入し、その漢字の持つインパクトを出版社が利用しようとしたのではなかろうか?
だからこそ作者である故・洞富雄元早稲田大学教授は、巻末において"大虐殺"というタイトルに作者自身の意によるもので無いことを断っているのではなかろうか。
中国の"大屠殺"とは1937(昭和12)年の事だけでは無く、過去に起きた中国での降伏勧告拒否によって皆殺し殺戮にった上に猟奇的文化も含んでいるのである。
まさに夷敵(中華思想における野蛮な民族)である日本軍が降伏勧告を行い拒否した中国軍や人民が皆殺しにされるのは当然の事であると、想像するのは無理も無い事である。
中国人は日本人とは歴史背景や生活環境、民族性も何もかもが全く違うのである、その点を充分に考慮すべきである。
戦争や大陸の中国人を知らない無知な戦後世代にとって、中国人の心理を理解できないのは致し方ないが、朝日新聞がそれに付け込んだのは絶対に許せない行為である。
一般に"大虐殺"と呼ばれ、ましてや中国人が神経質に訴える事件がまさか事実無根であるとは日本人の感覚としては受け入れ難いのは当然である。
だが、真実は1つなのである。
"南京大虐殺"は朝日新聞によって作られた単語なのである。正確に言えば、元朝日新聞記者である本多勝一記者によってである。
"南京大虐殺"という単語を使うのは中国の主張そのものを政治的・文化的意味をも無批判に受け入れる事を意味している。
その目的は明白である。
"南京大虐殺"という単語を日本人が使う事で南京での暴行・強姦事件を無批判に認めさせ、中国が対日外交カードの1つとして使え、外交において有利に進める事が出来るという事である。
その1例として以下を掲示しておく。
昭和63(1988)年に起きた中国の列車事故
昭和63(1988)年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故があった。
この時、補償交渉のために来日した中国側は、席上、南京大虐殺を口に出している。
中国は戦後賠償責任を一切放棄しているのだから日本側も放棄せよという言い分だ。
もちろん日本側の弁護士が、問題が全く違うと反論はしている。
ここで私は一言言いたいのは、日本が中国で殺戮行為を行ったというのはかなりあやふやで、しかもこれのほとんどは戦後共産党が突如言い出した事であり、さらに日本が戦後放棄した満州や中国資産は賠償どころかそれ以上の額に上る。この点を忘れて欲しくない。
さらに近年、日本軍が放棄した毒ガス弾が多数あるというが、日本軍から接収したのは中国軍ではなかったか、さらにそれらの中には旧ソ連軍のものや、中国軍のものが大部分あるという。
"南京大虐殺"というカードを使う事で、中国は何でも出来ると考えているのなら、それは間違いであろう。
さらに朝日新聞が行った行為は明らかに諸外国では国家侮辱罪や反逆罪に当たるはずである。
朝日新聞がなぜこの日本に存在出来るのか、私には分からない。
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3つに分かれる主張
「まぼろし派」「中間派」「大虐殺派」
とは一体何か?
「南京大虐殺」において虐殺された人数について、大まかに言えば3つの論派が存在する。
それが「まぼろし派」「中間派」「大虐殺派」である。
その内訳は以下の通り
まぼろし派 | ・・・ | 虐殺数は、ほぼゼロと考えている。虐殺説自体を否定。 |
中間派 | ・・・ | 数千人から数万人前後が殺害されたと主張。 |
大虐殺派 | ・・・ | 10万人以上の南京市民、捕虜が殺害されたと主張 |
なお、ここで注目しておきたい事は、中国側は殺害された人数を30万人以上と主張しているが、日本国内の「大虐殺派」と呼ばれる人達ですら現在では30万人説を述べている人物は唯の1人もいない事である。
ところが現在の中国共産党は30万人以上を主張している。30万人ですら少ないと主張している。
当時、日本軍の敵ではなかった中国共産党は奥地である延安におり、その記録は現在では随分とずさんなものであり、日本国内の大虐殺派の一ツ橋大学、吉田裕教授ですら「中国側のやっている事の中に、強い政治性を感じます。」と述べ、愛知大学、江口圭一教授「中国政府のいう「30万人虐殺」は明らかに誇大。20万に届くかどうかも疑問だ。」、20万人虐殺支持の一ツ橋大学、藤原彰名誉教授も「中国でも、ちゃんとした研究者は分かっているのではないか」と述べている。(文藝春秋社「諸君!」2001年1月号より)
なお「まぼろし派」の「まぼろし」とは、昭和48(1973)年3月に文藝春秋社刊「「南京大虐殺」のまぼろし」鈴木明著からとった呼び方で、当時南京大虐殺が有ったと大々的に宣伝を行っていたリーダー的存在であった朝日新聞などのマスコミに対する疑問を投げかけた書籍の名前をとって、虐殺に対して否定的な立場の人々に命名されたそうである。
ただし、その著者、鈴木明氏は虐殺数については不明であるとする主張をとられている。
目 次 | |
1. | 当時の南京の人口 |
2. | 南京の地理 |
3. | 南京安全区国際委員会 |
4. | 無政府状態に陥った南京 |
5. | 降伏勧告 |
6. | 中国軍による焼き払いの狂宴 |
7. | 中国兵による掠奪 |
8. | 便衣兵は戦時国際法の違反 |
9. | 便衣兵数千が難民区に遁入 |
10. | 後送された傷病兵と埋葬者 |
11. | 日本軍および中国軍の南京戦における編成 |
注 意 |
(1) | 引用頻度の高い次の文献は略号で表し、その下に数字でページ数を示した。 |
[AT・・・・]『日中戦争史資料』第8巻・南京事件T 洞富雄編(河出書房新社) | |
[AU・・・・]同上第9巻・南京事件U | |
[K・・・・]『決定版・南京大虐殺』洞富雄著(現代史出版会) | |
[N・・・・]洞富雄著『南京事件』(新人物往来社) | |
[S・・・・]『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店) | |
[速記録・・号] 極東国際軍事裁判速記録・・・第◯号、なおこの裁判を「東京裁判」と略記した。 | |
[『南京戦史』・・・( )] 畝本正巳著「証言による『南京戦史』」雑誌「偕行」連載=昭和59年4月より60年2月迄、( )内数字はその回数 | |
(2) | 日付は特に断らないかぎり、年末は昭和12(1937)年、年初は昭和13(1938)年。 |
(3) | 旧日本軍人および役人の階級・役職は当時のもの。 |
(4) | 松井大将の陣中日記その他軍人の手記等「カタカナ」を「ひらかな」に改めた。 |
(5) | 金陵大学は極東軍事裁判当時「南京大学」と改称された。 |
唐生智 |
1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人か?
虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
馬超俊南京市長は12月1日、全市民に対して、「南京安全区国際委員会」が管理する安全区(難民区)内に非難せよと命令した。
一方国際安全委員会に対しては、米、麦、金子と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民は殆ど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。
しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北の悒江門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って“安全区”を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
この“安全区”(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の『南京安全区襠案』とマンチェスターガーディアンの特派員ティンパーリーの『戦争とは何か』の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13年・2)に『南京脱出記』を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
また、米ライフ紙には「日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている 。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概ね20万」と言う。
松井大将は『陣中日誌』の12月20日に「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12〜13万から最高20万の間とみて間違いない。
唐生智麾下の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく(別項目参照)、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16〜17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(N-179)。
「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。
洞氏がただ想像し、憶測しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。
虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。
2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。
減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(S-178ページ)
いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居リマスガ、私ノ承知シテ居ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
左図が、南京と日本の位置。 揚子江(長江)の流れに沿って位置しており、その下流には上海がある。上海からすぐの距離。 |
|
これが、当時の南京市及び南京城、城外の地図。 南京城は約20メートルもの高さの城壁に囲まれており城外からの侵入者を防ぐためにこの様な城壁を作られていた。 揚子江のすぐ横に位置し、しかもその周りには湖もあった。 難民区は、国際安全委員会の15人の第三国人達によって管理、統治された非武装地帯の避難民地区で、当時の南京戦に関係のない、一般人は12月1日にここへ集まるように馬南京市長によって布告された。 この中には大使館、大学、女子学院、などの重要な建築物があり。97年秋に講談社から発売された「南京の真実」の著者ジヨン・ラーベは国際委員会委員長で有った。 |
南京市長の馬超俊は、昭和12(1937)年12月1日、市民に布告して、市民は食糧および身の回り品を持参して「安全区」(難民区のこと)に移住するよう命じ、当時設立した「南京安全区国際委員会」(以下「国際委員会」と略称)に、米3万担(3000トン)、麦1万担(1000トン)、金10万両を委託し、警察官450名を残して、市民の保護を依頼した。
国際委員会は、かつて上海戦のとき、仏人宣教師ジャキーノ神父が、日本軍の承認する「難民地区」を上海南市に設立して良民の保護に当たった先例にならい、南京市の西北方にあたる地区――南は漢中路、東北は中山北路を境とし、北は山西路、西は西康路に区切られた約3.8平方キロ(南京総面積の約8分の1)の地区を区切って「南京安全区」を設定(上の南京略図参照)し、ここに市民全員を収容してその保護にあたった。
「南京安全区国際委員会」とは何か、南京事件を解く重要なカギを握っているこの委員会について説明したい。
戦前から南京に在住していた第三国人は相当多数いたが、最後まで踏みとどまったのは40名前後(国際委員会の委員15名、新聞記者5名若干の公館員など20数名を残すほかは、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している)で、そのうちの15名が委員会を編成し、前述の地域を区切って、ここを「安全区」と称し、馬南京市長の申し入れを受けて、南京市民の安全を守り、生活を保障するシステムをつくったのがこの委員会である。委員会の事務局は寧海路5号にあり、事務所開設は12月1日と記録されている。
委員長はドイツのシーメンス会社支店長ジョン・H・D・ラーベで、書記長は米人の金陵大学社会学教授ルイズ・S・C・スミス博士。
メンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名の計15名である。(※筆者〈注〉金陵大学は民国44年南京大学と改称した)
南京安全区国際委員会のメンバー |
左からアーネスト・フォスター(Ernest H.Forster)、ウイルソン・プラマー・ミルズ(W.P.Mills)、ジョン・ラーベ(John.H.D.Rabe)、スマイス博士(Lewis Strong Casey Smythe)、エドワード・スパーリング(Edouard Sperling)、ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch)※なおフィッチはYMCA職員で委員会のマネージャー役を担当 |
氏名 | 国籍 | 職業 | ||
ジョン・H・D・ラーベ(委員長) | John H D Rabe | ドイツ | シーメンス会社 | |
ルイス・ストロング・カセイ・スミス博士(書記長) | Lewis Strong Casey Smythe | アメリカ | 南京(金陵)大教授 | |
P・H・マンロフォーレ | P.H.Munro-Faure | イギリス | アジア石油会社 | |
ジョン・ガレスピー・マギー牧師 | John Gillespie Magee | アメリカ | 米教会伝道団 | |
* | P・R・シールズ | P.R.Shields | イギリス | 国際輸出会社 |
* | J・M・ハンセン | J.M.Hansen | デンマーク | テキサス・オイル会社 |
* | G・シュルフェ・パンティン | G.Schultze-Pantin | ドイツ | 新明貿易会社 |
* | アイヴァー・マッケイ | Ivor Mackay | イギリス | バタフィールド・アンド・スウィア会社 |
* | J・V・ピッカリング | J.V.Pickering | アメリカ | スタンダード・バキュウム・オイル会社 |
エグァード・スパーリング | Eduard Sperling | ドイツ | 上海保険会社 | |
マイナー・サール・ベイツ博士 | Miner Searle Bates | アメリカ | 南京大教授 | |
ウイルソン・プラマー・ミルズ牧師 | Wilson Plumer Mills | アメリカ | 北部長老伝道団 | |
* | D・J・リーン | D.J.Lean | イギリス | アジア石油会社 |
C・S・トリマー博士 | C.S.Trimmer | アメリカ | 大学病院医師 | |
チャールス・H・リグス | Charles.H.Riggs | アメリカ | 南京大教授 |
※上表に「*」印が付いている者は、包囲される前に南京を去っている。
ここで注意したいのは、この15名の第三国人はいずれも当時の日本の言葉で言う“敵性国人”である。
つまり、日本軍を侵略軍と規定してこれを憎み、蒋介石政府=国民党政府に味方し、これを支援している国の人々であるということである。
ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、昭和13(1938)年3月リッペントロップが外相に就任して以降のことでそれまでは米英と同様、日本を敵視し、蒋介石軍に武器援助と、軍事顧問団を送っていた。(その証拠に占領後の捕獲武器にシーメンスが売った、チェコ製のマシンガン、その他武器等々が映像、その他資料等に記録されている)
さらに委員会は、YMCA会員や紅卍字会員を多数動員して、占領下の日本軍の非行調査にあたっている(別貢、「国際委員会の日軍犯罪統計」参照)。
国際委員会は安全区を非武装地帯にするよう日本側に申し入れた。最初日本側はこの安全区の設置に同意したが、防衛司令官唐生智が降伏を拒否したため、軍は上海市におけるジャキーノ・ゾーン(南市非武装地帯)のように、公式にはこれを非武装地帯とも中立地帯とも認めなかった。その回答は12月5日、米大使館を通じて行われた。
その理由は以下の通り。
1、 | 南京自体が一つの要塞と化しており、しかもこの地域はその中心地に当たるが、そこには何ら自然の障害物もなく、境界も判然としていない。 |
2、 | 政府要人や高級軍人の官邸も多く、いかなる兵器や通信機器が隠匿されているやもはかり難い。(事実中国軍高級将校の中には、陥落直前まで安全区内に居住した者もいた(ラーベのドイツ総領事あて書簡)。 |
3、 | 委員会自体が何ら実力を有せず、武装兵や便衣兵を拒絶するだけの厳正な中立態度を望むことは困難である(以上は日高参事官の東京裁判における口供書の要約)。 |
というものである。
事実、予想通り、国際委員会は、便衣隊や敗残兵を全然チェックすることなく潜入せしめている(これがあとから問題になる)。
しかし、だからといって、日本軍はこの難民区を保護しなかったわけではない。
占領と同時に歩哨を立て、各部隊には進入禁止区域と明示し、無用の者の出入りを禁止し、また松井軍司令官の命令により、砲・爆撃を厳にいましめ、戦禍の波及を防止した。
そのうえ、救恤品を支給するなど手厚く保護している。従ってこの地区には、爆撃も砲撃もなく、火災も一回も起きておらず、国際委員会は日本軍のこのような保護に謝意を表しているほどである。(詳細は「虐殺否定の17の論拠」の“第5の論拠「難民区は安泰、感謝の書簡」”を参照して欲しい)
蒋介石総統、宋美齢夫人、何応欽軍政部長、白崇禧参謀総長ら政府および軍首脳は、早くも12月7日に市民と防衛軍をおきざりにして南京を脱出し、漢口に遁走している。
すなわち、12月7日の時点で蒋政権は南京を放棄したのである。
中国側の記録によると、「南京の守備は、この地を固守して援軍を待つものではなく、敵の消耗を増大することにあった。
この点からみれば、堅固な要塞ではなく、また背後に河川(揚子江)を控えて部署上適切でなかった」(『抗日戦史』)とある。
これからみると、南京を死守するための徹底抗戦ではなく、日本軍にできるだけ消耗を与えて、自軍本隊の退却を有利に導くための作戦であったようである。
それには、敵の進軍を阻止し、守備軍が撤退容易な地形でなければならぬ。
撤退時期の選定や、敵との離脱要領がなかなかむづかしく、一歩あやまれば離脱が困難になり、過早に撤退すれば敵に与える消耗がす少なくなる。
戦史は、このような作戦は、地の利を得、精鋭軍を率いるよほどの名将でなければ成功しないことを教えている。
南京は背後に揚子江を控えて、撤退は容易ではない、雨花台、紫金山の守備は軍官学校の教導総隊の精鋭があたったが、守備軍の大部分は地の利にうとい広東、広西、湖南出身の軍隊であった。参謀総長の白崇禧やドイツの軍事顧問団は、南京防衛戦に反対したといわれる。
防衛司令長官唐生智は、日本軍による完全な包囲下にあって、なおかつ松井軍司令官の降伏勧告を拒否した。
12月7日、蒋介石総統ら政府、軍の高官が南京を脱出した時点から、南京はパニック状態に陥った。
富裕階級や高級官僚は持てるだけの荷物と現金をもって、南京を脱出し、続いて、司法院も行政府も立法府の官吏も、およそ役人という役人は政府要人のあとを追って南京を脱出した。地方公務員も同様である。教師、警察官、郵便局員、電話、電信、水道局の工員に至るまで、われ先にと南京脱出をはかり、南京は文字通り、無政府状態におかれた。
前記したように警察官450名が国際委員会の管轄下に残ったのみで、官公吏全員南京から姿を消してしまったのである。
10日〜12日には電話は不通になり、水道はとまり、電気もつかなくなった、しかも警察も裁判所もなくなったのであるから、完全な無政府状態である。掠奪、強盗勝手しだいと言った、暗黒の都市になった。
日本軍が入城したとき、治安その他について交渉しようにもその相手もなく、責任者もおらず、書類さえなく、あるのはただ放火、掠奪のあとの文字通りの廃墟の都市であった。こうした時の徹底した掠奪ぶりは、戦国時代この方、歴世中国兵の常習である。
松井軍司令官は、12月9日、空から唐生智軍に対して降伏勧告文を散布した。
歴史にはIFは許されないといわれるが、もし唐生智将軍がシンガポールのパーシバル中将のように、あるいは江戸開け渡しの勝海舟のように、南京をオープンシティにしたならば、このような混乱と悲惨は起こらなかったはずである。
降伏勧告文は以下の通り(日本文訳)。
日軍百万既に江南を席巻せり。 南京城は将に包囲の中にあり。 戦局大勢見れば今後の交戦は只百害あって一利なし。 惟ふに江寧の地は中国の旧都にして民国の首都なり。明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集(いしふ)し、宛然(さながら)東亜文化の精髄の感あり。 日本軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無この民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり。 しかし貴軍にして交戦を継続するならば、南京は勢ひ必ずや戦禍を免れ難し。 しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん。 依って本司令官は日本軍を代表して貴軍に勧告す。即ち南京城を平和裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。 大日本陸軍総司令官 松井石根 本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨線において受領すべし。 もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣するときは、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐるの準備あり。 若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば、日本軍はやむを得ず南京城攻略を開始せん。 |
武藤参謀副長(東京裁判で絞首刑)公平高級参謀、中山情報参謀、岡田通訳官の四人は、蘇州の軍司令部を午前3時に出発し、深夜の句容街道を中山門外に向い、午前11時40分ころ目的地に到着、かたずをのんで敵軍使の来るのを待った。
12時が5分過ぎても、10分過ぎても、ついに中国側軍使は姿を見せなかった。
結果的には、徹底抗戦を叫びながら、唐生智は整然たる撤退作戦の指導もできず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて、自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走したのである。
その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、19日銃殺刑に処せられたと伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。
これに対して、降伏勧告文を漢訳し、当日中山門外で待機した岡田通訳官は、この時の中国側の態度について次のように慨嘆する。
「ただね、何故、降伏勧告した時、中国軍はそれを受け入れなかったのですか。もう負けははっきりしています。あとは降伏するだけです。国家全体の降伏ではありませんし、南京だけ降伏していい訳です。日露戦争の時旅順攻略でステッセルが乃木大将に降伏してますね、あれと同じです。旅順陥落で日露戦争は終わった訳ではなく、その後も続きます。南京の場合も、南京の一局面だけ降伏してもいいわけですよ。
私は正直いって、中国びいきです。満州国をつくったのも賛成じゃない。日支事変も日本がやり過ぎたところがあると思っています。しかし、南京の降伏拒否は中国が悪い。しかも、結局、最高司令官の唐生智は逃げますからね。あれは中国の悪いところで、義和団の時も同じで、清の責任者は最後になると逃げています。会社がつぶれる時と同じで、責任者がいなければ会社は混乱して、社員は物を持って逃げますよ。
降伏拒否がなければ捕虜の問題もなかったと思います。国際法上、とよくいいますが、国際法上からいえば中国のやり方はまずいと思います」(「正論」61・6月号・阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』より)。
まさしく岡田氏のいうとおりである。
20万ちかい市民をおきざりにして、平和的交渉に応ずることなく、蒋介石総統ら政府も軍首脳部も全員逃亡し、馬市長も逃げだし、最後に残った唐将軍も降伏を拒否して遁走してしまったのである。市街は掠奪勝手次第の大混乱におちいったのは当然である。
統率者を失い、地の利にうとい敗残の将兵たちがパニックに陥り、崩壊していった。
NYタイムズのダーディン記者の言う通り、南京事件の責任の大半は、このような無責任極まる蒋・唐・馬ら中国側指導者にあるといっても過言ではない。かれはそのレポートの中でこう慨嘆している。
「確かに、蒋将軍はあのような大混乱の起こるのを許すべきではなかった。
確かに唐将軍も自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道にふみ出したことは強く非難さるべきである。
唐は、その日いくつかの小部隊の援護で、日本軍が市内深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救う何らかの努力をしてもよかったのだ。そんなことが行われた様子もなく、いずれにせよ状況は改善されなかった。唐は自分の幕僚の多くのメンバーにさえも知らせず、指揮官なしに軍を置き去りにしたことは、全面的破壊の合図となった」(AU295ページ)。
中共政府は、のちにこのような国府要人らの南京《逃亡》を「冷静さを失い、理性を失い、人心を動揺させ、外国人の嘲笑をあびる失態を演じた」と酷評している。当然の評価というべきであろう。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、断末魔の南京とその周辺における“焼き払いの狂宴”を次のようにレポートしている。
「日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう。
中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
「中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった・・・・」(AII287ページ)。
金陵大学のベイツ教授はこう述べている。
「南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない」(AII212ページ)。
南京陥落を前にして、中国軍が戦術として用いた「空室清野作戦」、すなわち公共建築物や公邸、私邸などの焼き払いの狂宴がいかにものすごいものであったか、この一文でも理解できよう。
「南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、《南京における日本軍の暴虐事件》として告発されているのである。
今の中国共産党軍とはちがって、昔のシナ(中国)には「良鉄は釘にならず、良民は兵にならず」ということわざがある。
つまり間違っても兵士にはなるな、兵士になるようなものはろくでなしだ、真面目な人間は決して兵士にはならない、という意味である。
古来中国では兵士は良民の間に蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われたのである。
なぜかというと、戦争に勝てば勝ったで、負ければ負けたで、「略奪」するからである。
古来中国においては、戦争と略奪はつきものであり、略奪が麾下将兵の報酬であり、役得であった。
また、それによって徴兵したことが史実に出ている。
司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」にこんな話がある。
劉邦軍は、士卒の士気の点で項羽軍に劣っていた。
(中略)それは劉邦から軍政面を一任されている粛何がきわめて厳格で、占領地で略奪することを禁じていたからである。
歴世、この大陸にあっては、兵士と盗賊との区別がつきがたく、戦って勝てば略奪し、略奪を期待することで士気も上がるという習性があったが、粛何はこれをきらった。(上掲書(上)273ページ)
つまり、兵士と掠奪の関係は「三国志」時代から、歴世、この国の習性なのである。
犬飼總一郎氏(第16師団通信班長・陸軍中尉)は、南京に向かう追撃戦で、自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫、29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も中国兵による略奪の跡歴然たるものをこの目で見た。
いかにそれがもの凄いものか、全く想像外であった、と語っている(筆者への書簡)。
また、第19旅団長草場辰巳少将は、北支作戦の時、隆平県城の城壁の上から、10月13日未明、はからずも敗残兵による略奪の場面を見たと言っている。
すなわち「隆平県城になだれこんだ敗残兵は、まず住民から衣類を奪って便衣となり、次に食糧を奪い、財宝を奪い、明け方を待って逃げ出す算段で、城壁がすでに日本軍によって占領されているのも知らず、城内は敗残兵による略奪、暴行殺傷等で阿鼻叫喚のちまたと化し、日本兵はただしばし呆気にとられて、この地獄図を城壁から眺めていた」というのである。
前述のダーディン記者も、南京における中国軍の掠奪について次のように述べている。
「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪が拡がっていた。
住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。
略奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。
南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」
「(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。
中国軍は完全に潰滅した。
中国軍部隊は指揮官もなく、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生きのびねばならぬということだった」(AII290ページ)
南京に残留していた某第三国人の日記を「東京日々新聞」(現毎日新聞)が掲載しているが、それにはこう書いてある。
「12月12日、敗残兵の放火、略奪なさざるはなく恐怖におちいる」(昭和12・12・20)。
岡田通訳官は、掠奪について次のように証言している。
「城内の店は空き家になっていまして、中国兵が逃げるとき略奪したのか、日本兵が入ってから略奪したのか、略奪の跡がありました。日本兵は食べ物は略奪したと思いますが、その他は中国兵がやったようです。
昭和13(1938)年3月に維新政府が出来ると、私も南京に行きましたが、泥棒市にはたくさんの豪華なジュウタンや骨董品があり、これらは、その時略奪したものだと思います。
この時私も居を構えるためジュウタンを買いました」(「正論」〈昭和61・6〉阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』)。
筆者も昭和13(1938)年8月南京に行き、この泥棒市の盛況?を見ている。
男女の衣類から靴、食器類、缶詰やワイン類はもとより豪華なシャンデリアやピアノまで、延々と、鼓楼から北西一帯に泥棒市がひろがり、ここのみ異様な雰囲気であったことを覚えている。
読者に銘記していただきたいことは“焼き払いの狂宴”にしても、このような中国人や中国軍による“略奪”にしても、戦後はすべて日本軍のしわざにおきかえられていることである。
勝者が敗者をさばいた東京裁判が、牽強付会に悪事を何もかも日本軍の仕業とし、えん罪を負わされたのはやむを得なかったかも知れない。だが残念なことは、心ない日本の学者やマスメディアが、いまだに東京裁判史観の呪縛にとらわれて、中国軍は善であり、日本軍のみが悪であった
支那事変で日本軍をもっとも悩ましたのは、前記の“清野作戦”と“便衣隊作戦”である。
便衣隊作戦というのは、正規の軍服を着用した兵隊が時と場合によって百姓服や常民服に着替えて、敵の油断をみはからい、隠し持った武器で敵を奇襲する戦術のことである。
なかには最初から常民服で、いわゆるゲリラ戦をやる者もいる。
当時中国の排日、抗日教育は徹底しており、婦人や子供までが、夜間信号筒をあげて日本軍の所在を知らせたり、老婆が買い物かごの中に手榴弾を秘匿して運搬したり、百姓姿の便衣兵に夜襲されたり・・・・、このため日本軍は多くの思わぬ犠牲を強いられた。
わが軍がいかに便衣兵に悩まされたかについて、松井軍司令官は「支那事変日誌抜粋」の中で次のように述べている。(本文カタカナ)。
「敗走せる支那兵がその武器を棄て所謂「便衣兵」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からざりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然一般良民に累を及ぼすもの尠からざりしを認む。」(田中正明著「松井石根大将の陣中日誌」71ページ)。
なお、松井大将は宣誓口述書の中でも次のように述べている。
「支那軍は退却に際しては所謂「清野戦術」を採り、所在の重要交通機関及び建築物の破壊焼却を行わしめたるのみならず、一部将校は所謂「便衣兵」となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからかず、付近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり。」(前掲書207ページ)。
いうまでなくこのような便衣兵は、陸戦法規の違反である。
日本軍はしばしばこの違反行為にたいし警告を発したが、馬耳東風で、中国軍は一向に改めようとしない。
このような便衣隊戦術は、常民と兵隊との区別がつかないため、自然罪もない常民に戦禍が及ぶことは目に見えており、そのため陸戦法規はこれを厳禁しているのである。
中学・高校の歴史教科書には「武器をすてた兵を殺害した」といって、いかにも人道にもおとる行為のごとく記述しているが、武器を捨て、常民姿になったからといって、それで無罪放免かというと、戦争とはそんな甘いものではない。今の今まで戦っていた便衣兵が、武器を捨てたからといって、捕虜のあつかいを受け、命は助かるかというと、そうはいかない。
戦時国際法によると、便衣兵は交戦資格を有しないものとされている。
交戦資格を有するものは、原則として、正規の軍人ならびに正規の軍人の指揮する軍艦又は軍用機となっている。
1907年の陸戦法規によると、(民兵または義勇兵でも)次の条件をそなえる場合のみ、交戦資格を有するものとしている。
(1)部下のために責任を負う統率者(指揮官)があること。
(2)遠方から認識することのできる固有の特殊標章を有すること。
(3)公然と兵器を携行していること。
(4)戦争の法規および慣例に従って行動していること。
―――こうした条件からいっても、便衣兵または便衣隊は「交戦資格」を有するものではない。
「交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人としての処罰を受けなければいけない」(以上は田畑茂二郎著「新訂国際法」(下)203ページより)。
さらに、我が国の国際法の権威である信夫淳平博士は次のごとく述べている。
「非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢てするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である」(信夫淳平著「上海戦と国際法」125ページ)。
「便衣隊」を論ずる場合、我々はまずこのような戦時国際法の概念を頭に入れておく必要がある。
われわれはフランスのレジスタンス運動者がドイツのゲシュタポに発見され次第、裁判もかけないでその場で処刑される場面をいくどもニュース映画で見ている。
南京虐殺のデマゴギーの一つに難民区からの便衣隊の摘出問題がある。
そもそもこのような問題が生起したのは、便衣戦術をとった当時の国民党軍と、難民区を管理した国際委員会の責任であって、上海の南市における難民区(ジャキーノ・ゾーン)のように、管理者が厳然と、兵器を取り上げ、常民と区別して名簿を作成するなり、あるいは一所に拘置しておけば問題はなかったのである。
南京陥落寸前、中国軍が便衣に着替えて、難民区に潜入するさまをダーディン記者は次のように報道している。
「日曜日(12月12日)の正午(中略)、侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城壁をよじのぼると(筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まった。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあった(筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国人が死傷している)。
将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた・・・・」(AII282ページ)
「日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、一般市民から便衣を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。
“一般人”が一人もいない時は、それでも兵士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。
軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。
下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった。
交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。」
「日曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と戦闘を続けた。しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。委員会はその時は日本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、降伏してくるものを受け入れるほかなかった。中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、子供のように庇護をもとめた。」(AII290〜1ページ)。
米南京副領事館エスピー氏は本国政府に次のように報告している。
「・・・・市民の大部分は南京国際委員会の計画設定するいわゆる『安全地帯』に避難しおり、相当数の支那兵を巧みに捕捉するはずなりしが比較的少数なりしなり、実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合良き処に隠れたるに相違なきなり」。
また氏の東京裁判への提出書類は次の通りである。
「・・・・ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑なく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。
また退却する軍人及び常民にても、計画的ならざる掠奪をなせしこと明らかなり。
すべての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼塞(ひっそく)と支那人と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市をいかなる不法行為をも行い得らるる場所となし終われるなり。
これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるるところなり。」(法廷証第328号=検察番号1906号中の一部を弁護人が朗読したもの=速記録210号)
私が前に述べたるごとく、また米副領事の報告ごとく、数千の敗残兵が安全区内に遁入し、身を隠したが、日本軍がこれを14日と16日の2回にわたって摘出し処断している。
本格的に便衣兵の摘出をはじめたのは、12月24日以降のことである。
この時は憲兵が、治安維持会の中国人立ち会いのもとに行われ、約2千人が摘出された。
が、この約2千人はすべて外交部に送られ捕虜としての待遇をうけている(佐々木到一少将回顧録)。
この便衣兵摘出事件が、安全区における最大のトラブルであったといってよかろう。
「東京日々新聞」は、12月20日の夕刊に、〔18日志村特派員発〕として、戦前から南京にとどまっていた某外国人(特に匿名)の日誌を抜粋して、外人の見た戦慄の南京最後の模様を報道している。
それによると、7日早朝、蒋委員長が飛行機で南京を脱出したが、「この蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は家財を抱えて難民区へなだれ込んだ」とある。つまり市民は一人残らず難民区へ逃避したとみてよかろう。
また8日には「馬南京市長らもまた市民を置き去りにして逃げだし、郊外の支那軍は民家に火を放ち、南京付近は四方に炎々たる火焔起こり、市内また火災あり、逃げ迷ふ市民の姿はこの世のものとは思われぬ」と記述している。支那兵特有の敗走時の掠奪はそのころ極限に達したことは容易に想像できる。
私がさきに述べたように、電信、電話はもとより、電気も水道も途絶え、市内が掠奪・放火の無政府状態に陥ったのはこの頃からである。
日誌にはこうある。
「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも、大勢如何ともする能はず、唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ。敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく、恐怖に陥る。電灯は消え、月光淡く、この世の末すと疑はる。電話全く不通となる・・・・」(「東京日々新聞」12・20)
これを裏付けるように、南京に入城した日本兵は正規兵が便衣に着替えるため脱ぎ捨てた軍衣袴や軍靴、軍帽、兵器類等のおびただしい散乱を見ている。
16日午後、中山門から郵便車で入城した佐々木元勝氏は、城内で見た情景を次のように述べている。
「本通り、軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる。死体はすでに片ずけられたのか少ないが、小銃や鉄兜や衣服が狼藉を極め、ここで一、二万の支那兵が掃射されたかと思われるばかりである。これは支那兵が軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えたものらしくあった」(佐々木元勝著「野戦郵便旗」216ページ)。
軍司令部付岡田尚通訳官は、13日、入城時の南京城内の様子を次のごとく語る。
「市内じゅう軍服、ゲートル、帽子が散乱していました。これはすごい数で一番目に付きました。中国兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのです。中国兵にしてみれば、軍服を着ていると日本軍にやられますから当然とおもいます」
松井大将は『陣中日誌』の中で「難民区に遁入せる便衣兵数千・・・・・・」と述べている。
とにかくこの数千とみられる便衣兵を、国際委員会は何らのチェック手段も取らず、無条件で潜入せしめたのである。
上海戦での戦闘は、日中双方とも死闘に次ぐ死闘で、多くの戦死傷者を出したが、中国の場合その負傷者は、主として南京および蕪湖方面に後送された。
その南京に後送された傷病者の数はいったいどの位になるかについて、畝本正巳氏は「証言による「南京戦史」」の中で次のようにくわしく述べている。
〈11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、
「上海の支那軍83個師団のうち、その半数は損耗しており、その実戦力は約40万内外」といわれる。
上海の激戦地に逐次増援して83個師団の大兵力となった中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。
これらの死者は現地において処置され、負傷者は逐次後送されたのであろうが、後送された負傷兵の数はどのくらいになるであろうか。
「当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者が南京に後送された計算になり、3ヶ月に及んでいるので、1ヶ月5万人、1日平均1700人が連日南京に後送されたことになる〉
これらの負傷者は、一時南京にとどまり、逐次重傷者は船で漢口へ、あるいは陸路江北に移送されたものと思われる。
しかし南京の病院で陣没して城内の墓地に埋葬されたものも相当数あるはずと推測している。
なお、第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述べている。
「南京は11月下旬より、遠く南方戦線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香が、びまんしたる状態なり。これに生ぜし死者もまたすくなからず」
全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」、とおり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえるのである。
中沢参謀はさらにこう言っている。
「入城時、外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。
これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」(東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはず)。
もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられる。
上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたから、上記の計算を準用すると、約9000人が南京において陣没したものと推測される。
なお南京戦における中国軍の戦死者の数をダーディン記者は3万3000と推測している―――これらも紅卍字会によって埋葬されたわけだが、これらの城内墓地の埋葬死体数を、すべて日本軍による《虐殺死体数》であると東京裁判では判決しており、中国側も、日本の虐殺派の人々もそのように主張している。しかしこれはとんでもない錯誤であり、虐殺数を増すための作為的な虚構であるといわなければならない。
以上が陥落直前までの南京の実情である。いわば断末魔の南京の姿であって、南京事件はこのような状況の中に日本軍が突入したことをまず念頭におく必要があろう。
くりかえすがようであるが、南京の掠奪と放火および若干の殺害は、すでに日本軍占領以前の時期、完全アナーキーの状態の中で、実在していたのである。しかも埋葬された死体数イコール日本軍による虐殺数として計算するがごとき、悪意に満ちた、作為的レポートを、われわれは鵜呑みにする訳にはいかないことを明記しておきたい。
まず、南京攻略戦に参加した日本軍の編成から見てみよう。
南京攻略を行った日本軍は、松井石根(まついいわね)陸軍大将を軍司令官とする中支那方面軍であるが、その麾下(きか)に上海派遣軍と第10軍があった。次の通りである。
上海派遣軍(軍司令官 朝香宮中将)
第16師団(京都)、第9師団(金沢)、第11師団 天谷支隊(善通寺)、第13師団(高田)山田支隊、第3師団(名古屋)の一部、 第101師団(東京)の一部
第10軍(軍司令官 柳川中将)
第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)、第18師団の一部(国崎支隊)
(以上別表・編成表参照)
総兵力は約10万と号していたが、上海戦での消耗はげしく、実際に南京戦に参加した兵力は7〜8万程度とみられている。
南京を攻略した司令部および編成は次の通りである。
司令部の編成(昭和12年12月)
中支那方面軍 | 上海派遣軍 | 第10軍 | |||
司令官 | 大 将 松井石根 (9) | 軍司令官 | 中将 朝香宮鳩彦王 (20) | 中将 柳川平助 (12) | |
参謀長 | 少 将 塚田攻 (19) | 参謀長 | 少将 飯沼 守 (21) | 少将 田辺盛武 (22) | |
参謀副官 | 歩大佐 武藤章 (25) | 参謀副長 | 歩兵大佐 上村 利通 (22) | ||
参 謀 | 騎大佐 西原一策 (25)兼 歩中佐 芳村正義 (28)兼 歩中佐 長 勇 (28)兼 歩中佐 寺垣 忠雄 (28)兼 砲中佐 公平 匡武 (31) 航中佐 光成 省三 (31) 騎少佐 本郷 忠夫 (32)兼 航少佐 中山 寧人 (33) 工少佐 二宮 義清 (34) 工少佐 河村 弁治 (34) 砲少佐 吉川 猛 (35) 国際法顧問 法学博士 斉藤 良衛 |
第1課 | 騎大佐 西原 一策 (25) 歩中佐 芳村 正義 (28) 航中佐 北島 熊雄 (29) 航中佐 川上 清志 (30) 砲中佐 大坪 一馬 (30) 歩少佐 二神 力 (34) 海大佐 松田 千秋 海少佐 青木 武 |
航大佐 藤本 鉄熊 (26) 歩中佐 寺田 雅雄 (29) 砲少佐 吉永 朴 (31) 工少佐 池谷 半二郎(33) 歩少佐 山崎 正男 (33) 航少佐 大坂 順次 (35) 歩大尉 仙頭 俊三 (36) |
|
第2課 | 歩中佐 長 勇 (28) 騎少佐 本郷 忠夫 (32) 歩少佐 御厨 正幸 (33) 歩大尉 大西 一 (36) 海少佐 根木 純一 |
歩大佐 井上 靖 (26) 歩中佐 岡田 重一 (31) 歩少佐 堂脇 光雄 (34) 砲大尉 清水 武男 (36) 海少佐 根本 純一 |
|||
第3課 | 歩中佐 寺垣 忠雄 (28) 歩少佐 櫛田 正夫 (35) 歩少佐 榊原 主計 (35) 歩少佐 北野 兵蔵 (35) 砲大尉 佐々木 克巳(38) 海中佐 長岡 博吉 |
工大佐 谷田 勇 (27) 輜中佐 小畑 信良 (30) 歩大尉 金子 倫介 (39) 海少佐 長岡 博吉 |
|||
管理部長 | 歩中佐 川勝 郁郎 (24) | ||||
兵器部長 | 少 将 福原 豊三 (20) | ||||
軍医部長 | 医少将 笹井 秀恕 | ||||
経理部長 | 主少将 根岸 莞爾 | ||||
獣医部長 | 獣少将 橋本 庄太郎 | ||||
法務部長 | 高等三 塚本 浩次 | 高等二 小川関次郎 | |||
憲兵隊長 | 憲少佐 横田 昌隆 (32) |
注:兼印は兼務。各課においての課長は名を青色で示している。( )は陸軍士官学校の期を示す。
指揮官一覧表(昭和12年12月)
軍 | 師 団 | 編成地 | 師団長・参謀長 | 旅団 | 編成地 | 旅 団 長 | 連隊 | 編成地 | 連隊長 |
上海派遣軍 | 3 | 名古屋 | 藤田 進中将(16) 田尻 利雄大佐(23) |
5 | 名古屋 | 片山理一郎少将(19) | 6 | 名古屋 | 川並 密大佐(24) |
68 | 岐 阜 | 鷹森 孝大佐(20) | |||||||
29 | 静 岡 | 上野勘一郎少将(21) | 18 | 豊 橋 | 石井 嘉穂大佐(24) | ||||
34 | 静 岡 | 田上 八郎大佐(25) | |||||||
9 | 金 沢 | 吉住 良輔中将(17) 中川 広大佐(22) |
6 | 金 沢 | 秋山 佳兌少将(20) | 7 | 金 沢 | 伊佐 一男大佐(23) | |
35 | 富 山 | 富士井末吉大佐(19) | |||||||
18 | 敦 賀 | 井出 宣時少将(21) | 19 | 敦 賀 | 人見 秀三大佐(23) | ||||
35 | 鯖 江 | 脇坂 次郎大佐(19) | |||||||
11 | 善通寺 | 山室 宗武中将(14) 片村 四八大佐(23) |
10 | 善通寺 | 天谷直次郎少将(21) | 12 | 丸 亀 | 安達二十三大佐(22) | |
22 | 松 山 | 永津佐比重大佐(23) | |||||||
22 | 徳 島 | 黒岩 義勝少将(18) | 43 | 徳 島 | 浅間 義雄大佐(12) | ||||
44 | 高 知 | 和知 鷹二大佐(26) | |||||||
13 | 仙 台 | 萩洲 立兵中将(17) 畑 勇三郎大佐(23) |
26 | 高 田 | 沼田 徳重少将(19) | 58 | 高 田 | 倉林 公任大佐(22) | |
116 | 新発田 | 添田 孚大佐(20) | |||||||
103 | 仙 台 | 山田 栴二少将(18) | 65 | 会津若松 | 両角 業作大佐(22) | ||||
104 | 仙 台 | 田代 元俊大佐(24) | |||||||
16 | 京 都 | 中島今朝吾中将(15) 中沢 三夫大佐(24) |
19 | 京 都 | 草場 辰巳少将(20) | 9 | 京 都 | 片桐 護郎大佐(20) | |
20 | 福知山 | 大野 宣明大佐(23) | |||||||
30 | 津 | 佐々木到一少将(18) | 33 | 津 | 野田 謙吾大佐(24) | ||||
38 | 奈 良 | 助川 静二大佐(19) | |||||||
101 | 東 京 | 伊東 政喜中将(14) 西山福太郎大佐(24) |
101 | 東 京 | 佐藤正三郎少将(19) | 101 | 東 京 | 飯塚国五郎大佐(22) | |
149 | 甲 府 | 津田 辰参大佐(19) | |||||||
102 | 東 京 | 工藤 義雄少将(17) | 103 | 東 京 | 谷川 幸造大佐(21) | ||||
157 | 佐 倉 | 福井浩太郎大佐(20) | |||||||
第10軍 | 6 | 熊 本 | 谷 寿夫中将(15) 下野 一霍大佐(23) |
11 | 熊 本 | 坂井徳太郎少将(17) | 13 | 熊 本 | 岡本 保之大佐(21) |
47 | 大 分 | 長谷川正憲大佐(24) | |||||||
36 | 鹿児島 | 牛島 満少将(20) | 23 | 都 城 | 岡本 鎮臣大佐(22) | ||||
45 | 鹿児島 | 竹下 義晴大佐(23) | |||||||
18 | 久留米 | 牛島 貞雄中将(12) 小藤 恵大佐(20) |
23 | 久留米 | 上野 亀甫少将(18) | 55 | 大 村 | 野副 昌徳大佐(22) | |
56 | 久留米 | 藤山 三郎中佐(22) | |||||||
35 | 福 岡 | 手塚 省三少将(19) | 114 | 小 倉 | 片岡 角次中佐(23) | ||||
124 | 福 岡 | 小堺 芳松中佐(23) | |||||||
114 | 宇都宮 | 末松 茂治中将(14) 磯田 三郎大佐(25) |
127 | 宇都宮 | 秋山 充三郎(18) | 66 | 宇都宮 | 山田 常太中佐(24) | |
102 | 水 戸 | 千葉小太郎大佐(21) | |||||||
128 | 高 崎 | 奥 保夫少将(17) | 115 | 高 崎 | 矢ヶ崎節三中佐(27) | ||||
150 | 松 本 | 山本 重悳中佐(23) | |||||||
5 | 9 | 広 島 | 国崎 登少将(19) | 41 | 福 山 | 山田鉄二郎大佐(20) |
注:( )は陸軍士官学校の期を示す。
これに対し南京防衛軍の兵力配備=戦闘序列は次の通りである(張其的、魏汝霖編著『抗日戦史』中華民国国防研究院出版による)。
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兵力配備は上図の通りである。(「抗日戦史」54ページ)。
当時日本軍は中国の首都防衛軍を10万と見ていた。
それは前記の戦闘序列に名を連ねた兵団番号によるが、南京陥落時の城内の兵力はその半数以下とみるのが妥当のようである。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、次のように述べている。
「南京包囲の日本軍に対抗したのは、広東軍数個師団、江西軍2、3個師団、若干の湖南軍、さらに城内では第36師、第88師およびいわゆる南京師団であった。広東軍部隊は、上海付近から日本軍の前面を退却する間、何週間も日本軍の砲撃にさらされていた。
かつて蒋介石総統の精鋭軍であった第36師と第88師は、上海付近で大損害を蒙っていた。
これらの師団は南京に退却して新兵を補充した。
蘇州と句容の間で日本軍の進攻に第一線に立って抵抗してきた四川軍の大部分は蕪湖からは揚子江を渡河してしまい、南京の戦闘には加わらなかった。
南京市内外の中国軍の戦力がどれほどであったか正確にあげるのは難しい。
ある観察者たちの推定では、南京攻防戦には16個師団が参加したという。この数字は正確と見なされる。
中国軍の師団は平時においてさえも、平均してわずか5000名編成にしかすぎない。南京を防衛して痛撃を蒙った大師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ2000〜3000名編成であったこともあり得る。
約5万人の軍が南京防衛戦に参加し、袋のネズミとなったといっても間違いない。」(AII286〜7ページ)
そのほか、在南京米大使館アリソン三等書記官から在漢口ジョンソン大使あてに送付した南京米副領事ジェームス・エスピーの報告書には「町(南京)は5万を越えざる兵数にて守らるることとなり居れり。実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり」とある(「速記録」58号21・8・29)。
また、東京裁判の判決文の中にも「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」「残留軍5万の大部分は・・・・」とあり、中国の南京守備兵力5万と判定して議論を進めている。
また「南京安全区国際委員会」の日本大使館への公文書の中にも「南京衛戌軍五万」と記載されており、昭和12年12月13日の南京陥落時における唐生智麾下(きか)の兵力はおおむね5万とみられていた。
しかし、歩兵第19旅団司令部の通信班長犬飼總一郎氏は、紫金山で戦闘した体験と、戦後の中国側の資料その他から推理して「陥落当時の城内の兵力は、「せいぜい3万ていど」という見方をしている。
これを裏付けるように、最近秦郁彦が台湾で取材したところによると、中華民国の関係者は、城内兵力3.5万と計算している。要するに3.5万から多く見積もっても5万である。
なお唐生智は11月28日、外人記者会見で、中国軍は訓練も足りず、規律も良くないので、不祥事が起こるかもしれない、無用の外人は退去されたいと警告している。
部下が何をしでかすかわからん、責任は持てないから退去せよというのである。
このため、前述の「安全区国際委員会」の委員15名、新聞記者5名、若干の公館員等20数名を残す他は、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している。
入城する日本軍に拍手(その1)
昭和12(1937)年12月13日撮影
撮影者 アーサー・メンケン
(米国パラマウント・ニュース映画カメラマン)
(日本軍入城を目の前にしながら)ちらほらと飢えた中国人が拍手をしています。
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ニセ生首写真で“南京大虐殺”ねつ造
「朝日新聞」昭和59年8月4日付夕刊に掲載された“南京虐殺”の記事と写真(上写真、点線で囲まれているのが生首写真) |
「記事の再調査をした結果、朝日で報じた3枚の写真とは無関係のモノだった。
近く、「全国版」で、写真および写真に関する記述についておわびし、取り消す」
会見に応じた朝日新聞東京本社の広報担当役員、青山昌史氏は、本紙記者の質問に。てきぱきとした態度で応じたが、言葉の端々に、自社記事の非を認めざるを得ないくやしさがにじんでいた。
昭和61(1986)年1月17日、東京本社役員室でのことである。
問題となった「朝日」記事―“南京大虐殺”を証明する日記と写真が発見された―が昭和59(1984)年8月4日に報じられてより、実に1年5ヶ月ぶりに本紙の追求によってようやく朝日はニセ写真報道の「おわび記事」掲載を決定したのである。
「朝日」問題取材班に、一読者から「南京大虐殺」を報じた「朝日」記事の疑問点を指摘した資料が郵送されてきたのは、「続々・朝日新聞の「犯罪」」の連載が最後の追い込みに入った昭和60年12月14日のことであった。
その内容は、昭和59年8月南京に入城した兵士が残した日記と写真が発見され、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に「朝日」が報じたが、その後の関係者の調査で「持ち主に該当する人物がいない」というものである。そんなことがはたしてあるのか?
だが、戦後「南京大虐殺」はあったと執拗に報道し続けている朝日新聞のことだ。
そういう記事を朝日の記者が書かないとも限らない。
こうして朝日の南京虐殺記事の真相究明に取り組んでいった。
実際、同報道に関して朝日には、いくつかの“前科”がある。最近の例では、昭和59(1984)年6月23日付夕刊、全国版で「南京大虐殺目撃の中山老/「語り部」記録映画に/中国での講演など記録」との見だしで報じられた記事が挙げられる。
その記事によると、東京・江戸川に住む中山重夫氏(72)が陸軍戦車隊の整備兵として、南京入城の2日前に、南京郊外の雨花台で、白旗を掲げてくる中国人を日本兵が銃剣で次々と刺し殺していく光景を4時間あまり凝視したという。
だが、評論家、田中正明氏の調べで
(1)中山氏の所属した第一戦車隊(岩仲戦車隊)は雨花台に突入していない
(2)まして中山氏は岩仲部隊の段列(輸送隊で後方勤務)であり、雨花台には行っていないはず
(3) 「南京入城2日前」の雨花台の戦闘は、大激戦が展開されている最中であり、とても白旗を掲げての大量降伏や4時間余にわたる殺害場面など想像すらできない
―と指摘した。
しかし、朝日新聞は何の回答もしなかったのである。
中山氏はすでに全国百五十ヶ所で講演を行っており、その様子は記録映画として残されていくという。
その影響は決して小さくない。
「南京大虐殺」を強引に証明しようとするあまり、虚偽の“証言”や“証拠”をニュース記事として流す過ちを、「朝日」の記者はまた犯したのであろうか。
現地で確認するため、記者(鴨野)は宮崎に飛んで関係者の取材に入った――。
問題の記事は、大阪本社版の昭和59(1984)年年8月4日付夕刊で最も詳細に報じられ、西部本社、東京本社版でも掲載された。
大阪版では、第二社会面トップで「日記と写真もあった―南京大虐殺/悲惨さ写した三枚/宮崎の元兵士/後悔の念をつづる」の見だしで写真をつけて大きく報じられ、翌日朝刊の全国版でも少し短くしてのせられた。記事を書いたのは中村大別・宮崎支局長(昭和61(1986)年1月10日付で、西部本社企画部次長に異動)。
記事は、宮崎県東臼杵郡北郷村(ひがしうすきぐんきたごうむら)出身で、南京に入城した都城(みやこのじょう)23連隊の元上等兵(当時23)=昭和49年(1974)年に腎臓病で死去=の遺品から、虐殺に直接たずさわり、苦しむ心情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっている写真などが見つかった、というもの。
昭和12年(1937)の元旦からおおみそかまで毎日ペンで詳細に記録されているというその日記から、中村支局長は次のくだりを引用している。
十二月十五日「・・・・近ごろ徒然なるままに罪も無い支那(中国のべっ称)人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり、木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子。
同二十一日「今日もまた罪の無いニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。・・・まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」
中村支局長は、これに続けて「自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる」と“解説”をつけている。引用文の最後には、(いずれも明らかな誤字以外は原文のまま)という注釈まで付け加えている。
また「写真はアルバムに三枚残っていた」「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」「家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいた時もあったという。家族は「京都で手帳が見つかったのを朝日新聞の報道で知り役に立てばと思った。
二度と戦争は起こしてほしくない」と話している」として、最後に「南京大虐殺の研究家の1人、大阪市大の広川禎秀助教授(日本現代史)は「京都で見つかった資料に比べて、悲惨さが感情をもって表現されているようだ。写真についてもこれまで出所はほとんど中国側からのもので、日本軍の兵士が持っていたことは大変貴重な資料と評価できる』と話している」とのコメントで結んでいる。
またリード文で中村支局長は「(「南京大虐殺」は)広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人と言われながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」と、“絶賛”した。
20万、30万という「南京大虐殺」は、当時の状況からどうしても不可能であるという事実を実証的に、何人もの学者、ジャーナリストが指摘しているにもかかわらず、「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人と言われながら」という表現を用いているところに、「南京大虐殺」を既成事実化しようとする中村支局長の意図が読み取れる。
記事を見た孫に悪人扱いされた元日本兵
だが、日記の筆者が都城23連隊の兵士と報じられたことで、同連隊の生存者で構成する連隊会(安楽秀雄会長)は、「連隊の名誉を傷つける記事」と重視、新聞報道から2週間後に対策会議を開いた。
席上、
(1)「南京虐殺」など戦時中はもちろん、終戦後においてもうわさ話すら聞かなかった
(2)南京攻略戦に従軍した西条八十、木村毅、大宅壮一氏など一流文筆家も異口同音に「見たことも、うわさ話もない」と語っていた
(3)「南京大虐殺」は中国側の一方的言い分である
――ことを確認し、事実関係の調査を行うことを決定したのであった。
同会議では、南京大虐殺をこれ見よがし報じる「朝日」の記事がどれだけの波紋を呼び、連隊会の会員に激しいショックを与えたかを物語る、ひとつの話が、ある参加者によって披露された。
彼は遊びに来た中学生の孫から「爺ちゃんたちは悪い人じゃねー」と言われたので、「何を言うか爺ちゃんたちは、み国を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。
悪いことなどしておらん」と反論した。
すると、その孫はこう言って,“逆襲”したというのである。
「新聞はウソつかん」
これでは若くして散華した英霊が浮かばれない――こうした思いを胸に、連隊会の中山有良事務局長と坂元昵元23連隊大隊長が調査のために現地、北郷村を訪問したのであった。
集まった4人の戦友に、南京虐殺について、また「朝日」で報じられた日記や写真の件について質問したが、異口同音に「見たことも聞いたこともない」と言う。
そこで中山事務局長らは、この村にある3つの寺の過去帳をあたって、「朝日」が報じた昭和49(1974)年の死亡者と物故した戦友とを照らし合わせる作業に入った。
最後に訪れた恵超寺(荒木孝道住職)で、元23連隊所属の兵士の名が発見された。
河野美好氏。
しかも同氏は、腎臓病で死去したという。
年齢も合う。
「やはり「朝日」が報じた人物は実在したのか・・・」中山氏らは一瞬緊張した。
だが河野氏の未亡人、吉江さんを訪ね、日記と写真の有無を問い合わせてみて、中山氏らは驚いた。
「主人は常日ごろから日記は所持せず、カメラなどはもちろん持っておらず、写真もありません」というのだ。
12月19日、記者は北郷村に高野吉江さんを訪ね、インタビューした。
――御主人の美好さんが生前、日記をつけている姿を見たことはありましたか。
「いや、全くありません」
――戦時中、日記をつけていたということを聞いたことは?
「ありません」
――カメラは持っていましたか。
「いいえ、あればよかったのですが・・・・」
――「南京大虐殺」について聞いたことは?
「ありません」
――美好さんが、吉江さん以外の家族の人に、南京事件に関する写真か、何かを見せていたとか、話していたということは?
「ないですね」
――「朝日」の中村宮崎支局長から、取材を受けたことは?
「ない」
吉江さんは、朝日新聞を購読していない。
ただ人づてに、亡くなった主人の書いたと思われる日記、しかも南京大虐殺に関する内容が「朝日」に掲載されていると聞いて非常にショックを受けた。
だが、記事の信ぴょう性を尋ねる人もいない吉江さんは、わざわざ日向市にいる祈祷師を訪ねて、記事の真相を聞いた。
すると祈祷師は、「その記事はウソだ」という。
「それで初めて、安心しました」と、吉江さんは、その時の動揺した様子を語った。
さて連隊を構成する24中隊の代表者役員の証言からも23連隊に関する限り「南京大虐殺」はなかった、との結論に達した連隊会役員は、59年(1984)9月22日、朝日新聞社宮崎支局に中村支局長を訪ね抗議を申し入れた。
次のようなやりとりが両者の間で、行われた。
連隊会「23連隊は虐殺はやっていないと各隊の代表者が証言しているが貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その当用日記は1月1日から毎日欠かさず、12月31日まで記入されているとあるが本当か」
支局長「そのとおりだ。表紙はボロボロとなっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して、昭和12年に記載されたものに違いないと判断した」
連隊会「支局長!!それはおかしいでないか!!戦争をしている兵隊が毎日、日記がつけられると思いますか。鉛筆書きならともかくインクで書いているとは恐れいる。現代ならいざ知らず、当時はペン書きするにはスポイトでインク瓶からインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するとは考えられないことだし、またカメラを携行して虐殺現場を撮影したとあるが、農村の一兵士が当時カメラを購入することなど思いもよらない時代で、ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校でもカメラを携行した者は一人もいない。支局長のポストに就任されるだけの学識ある支局長が、日記を毎日記入してあり、かつペン書きとあるだけで、これはおかしいぞと思い、カメラ携行とあるだけでもこれは臭いとお考えにならなかった支局長ご自身の方がよほどおかしいと私たちは思うのですが!!」(支局長 応答無し)
無言のまま席を立ち、しばらくして一枚の写真を持って席に戻り
支局長「これを見てください」
だれもいない家の前の路面に生首が12個転がっている写真である。
連隊会「これが虐殺現場を撮影したと思われる写真ですか」
支局長「そのとおりです。中国人の生首です」
連隊会「これを見て支局長は即座に虐殺写真と思われたのですか」
支局長「そのとおりです」
連隊会「おかしいですねー。生首が転がっているだけでは、兵士なのか一般人なのかも分からない。
スパイを捕らえて首をはねたのかもしれない。
それなら虐殺ではありませんからねー。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。
私は元満州国の新京にいたことがあります。
その折に満州国軍が匪賊討伐を行い、匪賊を打ち首にした写真を見せられたことがありますが、その時の写真にこの写真は実によく似ています。
支局長はこれを一目見ただけで、よくまあ日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたですね。その根拠は!!」
支局長「この写真を持っていた人が、この写真を見ながら後悔していたということを聞いていましたから、テッキリ虐殺の現場写真だと」
連隊会「しかしその人は10年前に既に死んでいるんでしょう」
支局長「そうです」
連隊会「それでは直接本人から聞かれたわけでなく、その家族の方の話ではありませんか!!信用できますか」
連隊会が、全国版で歩兵23連隊は南京大虐殺に無関係との記事を出してほしい、と要請したのに対し、中村支局長は「しばらく待ってほしい」と答えた。
そして、翌年の60(1985)年2月4日、再び会談が持たれたのであった。
連隊会「今日は是非とも元歩兵第23連隊は南京大虐殺とは無関係との記事を掲載していただきたいと思い参上しました」
支局長「先般来から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから今日はその日記をお目にかけます」
中村支局長は、後方の棚からナイロンの袋にいれた日記帳らしきものを手に取り連隊会の代表者のいるテーブルから5〜6メートル離れたところに立ったままナイロンの袋からその日記帳らしきものを引っ張り出して、自分の胸の高さのところで、日記帳面の真ん中くらいを広げて見せた。連隊会の役員の1人、後藤田万平氏が、いすから腰を浮かせて立ち上がり、近づこうとすると
支局長「近寄ってはいけません。書体が分かるとだれが書いたか分かりますから」
連隊会「その日記を所持していた兵士は10年前に腎臓病で死亡したとのことで、調査の結果は河野美好氏と判明しました。早速未亡人の河野吉江さんに尋ねましたところ、そんなもの持っていませんとの回答を得ましたから支局と河野さんと対決していただけませんか」
支局長「いや、その人でなく、日記は別の人から届けられたものです」
抗議から20日後の2月24日付、朝日新聞宮崎版に、小さなベタ記事がのった。「『南京大虐殺と無関係』/元都城23連隊の関係者が表明」という記事である。
だが、最近になって県外の連隊会会員から訂正記事が全国版にのっていないことを知った中山事務局長が、中村支局長に訂正記事掲載を申し入れたところ、同支局長は「2月24日付の記事は訂正ではない。記事は全く正しい」と反論したことで、両者の対立は一挙にエスカレートした。
記者は、60(1985)年12月20日、宮崎支局で中村支局長に会い、インタビューを行った。
――「朝日」で報道した日記の筆者は、故河野氏以外に該当者はいないと思われるがどうか。本当にその人物は都城23連隊の元兵士か。
「日記の持ち主はまぎれもなく元23連隊の方のものだ。その方は北郷村で昭和49(1974)年に腎臓病で死去している。河野氏以外に該当者がいる。当方とそちらの資料が違うのだろう。連隊会の調査不足でないか」
――では、昭和59(1984)年8月4日夕刊の記事には一切のフィクション、デッチあげはないというわけか。
「全くない。あの記事はすべて正しい。昭和60(1985)年2月24日の宮崎版にのった記事は、訂正記事ではない。連隊会の方から抗議があった事実を掲載したまでだ」
――取材の続き、手順は十分にふんだのか。記事を書くまでに、社内でも十分に検討したのか。
「南京虐殺については、西部本社、また東京本社などでもこの問題を専門にしている記者が、本多勝一氏をはじめかなりいる。記事掲載にあたっては、そういった記者とも相談し、十分に資料をつきあわせて書いた。フィクションやデッチあげがあるというのであれば、論理的に書簡で指摘していただければ、満足のいく回答をすることにやぶさかではない」
――日記の信ぴょう性については、コメントをしている大阪市大の広川助教授の他に、直接見せて確認をしたか。
「本州に住むある教授に見せてもらった。その人の名は、先方の了解を得られれば答えてもよい」
――日記は現在、どうなっているのか。
「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある。遺族が名前の公表を拒否されている以上、公開はできない。私としても体を張ってニュース源を守らなくてはならない」
朝日のベテラン記者である中村支局長が、記事の真実性を強調し、逆に「連隊会の方の調査不足」とまで言い切ったことには、いささか驚きを覚えた。
彼が言うように、河野氏以外に昭和49(1974)年に腎臓病で死去した元兵士が北郷村にいるのか。連隊会の調査は十分であったか。
調査を担当した中山事務局長らは、北郷村の3つの寺にあった過去帳にあたって、河野氏以外に該当者はいなかったと判断した。が、過去帳にのらなかった人もいるのではないか。
河野氏の名前が見つかった恵超寺の荒木住職は、「もちろん、宗教が違えば過去帳に名前はのりませんよ」という。
ならば連隊会の調査は完璧とは言えない。
連隊会の協力を得て、宮崎県が発行した23連隊の復員名簿に載っていた北郷村出身者23名の動向を追った。
その結果、23名のうち死亡が判明したのは10人。内訳は戦死者2人。残り8人は昭和27(1952)年、34(1959)年、48(1973)年、49(1974)年、54(1979)年、58(1983)年、59(1984)年、60(1958)年に一人ずつ死去している。
やはり昭和49(1974)年に腎臓病で亡くなった、と「朝日」が報じた人物は、同年9月25日に死去した河野美好氏の他には存在しない。
しかも、その後の連隊会の調べで河野氏が南京事件当時はまだ召集(しょうしゅう)されずに内地にいたというのである。
「朝日」の記事は決定的に矛盾している。
虚偽の内容が伝えられている。総合的に判断して書かれたのが、昭和60(1985)年12月27日付、本紙一面トップ記事である。
「南京事件の日記発見報道/朝日支局長が“自作自演”/執筆者存在せず/戦友会が調査し判明」との見出しで、次のようなリードで報じたのである。
日中戦争中の昭和12年暮れ、日本軍が南京を占領した際に、「南京大虐殺」が行われたと戦後、報道し続けている朝日新聞は、昭和59年8月初めにも、南京に入城した兵士が残した日記と写真が見つかり、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に報じたが、その後の関係者の調査で、これが全くのデタラメで「朝日」記者によるねつ造であることが判明した。
同記者は、記事の信ぴょう性を高めるために、虐殺の様子から兵士の苦悩、家人の談話までいかにもそれらしく描写し、読者のコメントまでのせるなど極めて巧妙で悪質なやり方をしていた。
朝日新聞側が謝罪、訂正記事の掲載を拒否し続けていることに対して、関係者は告訴も含めて、対応を検討している。
「朝日」記者は最近でも、祖国を捨てて命がけで脱出する難民を「出稼ぎ難民」とわい曲したり、自衛隊幹部を「お前など飛ばすのは簡単」などとどう喝するなどして社会問題化したが、今回の「ねつ造報道」も、ジャーナリストの論理から完全に逸脱した“犯罪的行為”として、波紋を呼ぼう。
真相は満州で処刑された馬賊の写真
実は、ここまで大胆に報じることができた背景には、この取材の途中で「朝日」に載っている写真の一枚が中国側出版物の一枚と同一であり、それは南京とは全く別の地域の写真である、という情報を得ていたからである。
それを翌28日付本紙は同じく一面トップで、「朝日、今度は写真悪用/南京虐殺事件をねつ造/中国の出版物に酷似/大学講師が指摘」と報じた。
記事の本題は次の通りである。
問題の写真は、朝日新聞大阪本社版の昭和59(1984)年8月4日付夕刊、第2社会面トップで、“悲惨さ写した3枚”として、日記の横に並べられた3枚のうちの一枚。
同記事を書いた中村支局長は「名刺判白黒で、一枚は人家と思われる建物の中で、12人の生首が転がっており、その中央には女性らしい顔も見られる」「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」と記事の中で説明している。
この日記と写真の持ち主が存在しないことで、その出どころが疑問視されていたが、「“南京虐殺”の虚構」の著者で拓殖大学講師、田中正明氏は中国の新華出版社発行の「日本侵華図片史料集」90ページの写真のうちの1枚、と指摘する。
田中氏は、「朝日新聞記事の写真を拡大レンズで見ると、口をあけている様子や無念そうな表情、一つひとつの首の置かれている位置関係まで極めて類似しており、私は100パーセント間違いないと確信する。と語っている。
「日本侵華図片史料集」の90ページの写真には「○○凌源被○男女同胞之惨状。――采自上海文華美木図弔公」とあり、つまり遼寧省遼源で殺された男女同胞の惨状、との写真説明がつけられている。
遼寧省は旧満州の熱河省に相当する地域で南京とは明らかに違う。
また死人も、いつ、だれによって殺されたかは全く分からない。
日記と写真の持ち主が宮崎の元都城23連隊の兵士と、朝日新聞は報じたが、同連隊の生存者で結成する都城23連隊会の事務局長、中山有良氏は「写真は同一のものと確信する。
朝日新聞は“南京虐殺”があったことを視覚に訴えて確定的にしようという意図的な扱いを行ったものと考えている」と、朝日新聞の報道を厳しく批判している。
この問題について、中村支局長は、「現時点では、何も答えられない」と言葉を濁した。
朝日新聞は昭和60年6月23日付夕刊でも、昭和12(1937)年12月11日、戦車兵として、南京郊外の雨花台で白旗を掲げて来る中国人を次々に虐殺している場面を4時間にわたって凝視した、という東京・江戸川区の中山重夫氏の“虐殺証言”を紹介しているが、その後の南京戦参加者の調査で、中山氏の所属した岩仲戦車隊は雨花台には突入してはおらず、中山氏の証言が全くの虚構であったことが判明している。
朝日新聞が、このようにウソの証言や証拠まで集めて“南京大虐殺”があったことをことさらに強調する理由について、田中正明氏は、「朝日新聞がこれほどまでにして旧日本軍が“虐殺”や“犯罪”を行っていたと印象づけようとする狙いは、当時の日本軍を統率していたところの天皇陛下の戦争責任を告発する、そうした雰囲気をつくるところにあるのではないか」と指摘している。
本紙の報道をきっかけに、「週刊新潮」の記者が、宮崎に飛んで行った。中村支局長は、ニセ写真の件について尋ねられると、「中国の写真集の方がうちの記事より後に刊行された。向こうが間違っているのかもしれない」と反論、あくまで自己の報道は正しいとの姿勢を貫いたのであった。
だが、虚偽は永くは続かなかった。
問題の写真と同一のものが昭和6(1931)年、当時の朝鮮で売られていたことが日中戦争に参戦した元兵士の証言で明らかになったのである。
本紙昭和61(1986)年1月13日付け一面トップは、「朝日の南京虐殺ニセ写真/事件以前から市販/旧日本兵が購入・保管/説明文に『鉄嶺で銃殺』/中国の出版物も誤用」との見出しで、次のように報じた。
現在の北朝鮮、会寧で買った「馬賊の首」の写真を手にする佐藤進氏=昭和61(1986)年1月12日午後、藤沢市の自宅で(上写真) |
この写真の持ち主は、神奈川県藤沢市天神町に住む建築業、佐藤進氏(74)。
佐藤氏は昭和6(1931)年10月、当時の朝鮮と中国の国境に位置する会寧の工兵19大隊に入隊し、歩兵75連隊とともに国境警備にあたった。
佐藤氏によれば、同年末から翌年にかけて、この会寧にある文房具兼写真屋で、約10枚買った写真の1枚が、「朝日新聞」昭和59(1984)年8月4日付夕刊の“南京大虐殺”報道に用いられた写真の一枚と同じものという。白黒でタテ9.7センチ、ヨコ13.5センチの大きさである。
佐藤氏は「写真はせいぜい1枚5銭だった。ちょっと変わっている写真だったので買った。
同年配の兵隊仲間ならこの写真を持っている人もいるでしょう」と語る。写真の上部には、「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」との文字が刷り込まれている。
鉄嶺とは、遼寧省内の瀋陽の隣の都市。
佐藤氏は、「写真の撮影は昭和4、5(1929-30)年の頃かと思われるが、当時の中国東北地方は張学良が掌握していた。彼らの配下の者が中国人の匪賊(ひぞく)を一般人への見せしめとして切ったものと考えられる。
首を切り落とせるのは中国人の持っていた青龍刀であり、日本の兵隊の持っている銃剣では無理です」という。
また佐藤氏は日支事変のぼっ発で、召集され、工兵13連隊の兵士として中国の江蔭、南京、蒙城、徐州、武漢、宣昌などを回ったが、「入城時にはすでに敵兵は逃げていない。住民もわずかに老人が少し残っているのみ。
捕虜を大量に虐殺することなんかできない。
朝日新聞は誤報を訂正していただきたい」と要望する。
朝日新聞の中村支局長(当時)はこの写真について「名刺判」の大きさと記事で書いていることから、縮小した写真を入手したものと思われる。
だが中村支局長は十分な吟味も行わずに、“南京大虐殺の証拠写真”と決めつけて悪用、「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという」と、きわめて巧妙な表現を用いて読者を欺(あざむ)いている。
さらにこの写真は中国の新華出版社が「日本侵華図片史料集」の90ページに掲載、「遼寧省凌源で殺された男女同胞の惨状」との写真説明をつけ、誤って用いている。
同書には佐藤氏が会寧で買った、馬賊の首の写真も掲載されているが、それもまた「日本侵略軍はわが国の人民を殺したあと、その首を電柱にぶら下げた」写真として用うるなど全く杜撰(ずさん)な編集内容であることも判明した。
写真帳にある「馬賊の首」写真を拡大したもの。「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と書かれている。 |
中村支局長は、日記と写真の持ち主が元都城23連隊の兵士と報じたが、同連隊の生存者で構成する都城23連隊の事務局長、中山有良氏は「この写真は昭和16(1941)年、中国の新京(現在の長春)で同級生の三好秀吉副官の兵舎で見たものと同じであり、かなり広範囲に出回っていたと思われる。記事のデタラメぶりがさらに一層明らかになった以上、朝日新聞に対してはどうしても謝罪と記事の取り消しを求める考えである」と、対決姿勢を強めている。
すでに「南京虐殺」記事はデタラメと報じて、この時点で2週間が過ぎていた。
朝日新聞社から、わが社に対する抗議は一度もなく、「自らの虐殺を認めたものと考えられる」とも書いた。
しかし、水面下では、朝日新聞社は積極的に動いていたのである。
朝日新聞西部本社の宮本隆偉・通信部次長が再三にわたって、連隊会の中山事務局長に接触をはかろうと面会の申し込みを行っていた。
先の藤沢市に住む佐藤進氏宅にも、本紙の記事が載った13日に2度も、朝日新聞社会部の女性記者が、「写真を見せて欲しい」と電話を入れてきている。
これは、ともに断られているのであるが。
朝日新聞本社ははたして、今回の虐殺報道について、本紙の報道を黙殺する態度なのであろうか。
反論できないのか。間違っているなら、その非を認めるべきではないか。
誤用認め全国版で「おわび記事」
そのあたりをどうしても聞いてみたいと、1月16日午後、朝日新聞東京本社の広報担当、青山昌史氏に聞いてみた。この時、青山氏は不在で、こちらは名を伝えるのみで、用件までは語らなかった。
しかし、夕方、秘書から電話が入り、「明日、午後2時に本社でお会いしたいとのことです」との返事が入った。
青山氏はすでに、こちらの用件を察知していたのであろう。
翌17日午後、朝日新聞役員室に青山氏を訪ねると、彼はおもむろに、「そちらが質問することに、私がお答えする形で進めましょう」と切り出した。すでに、朝日新聞の態度は固まっているな、と感じた。用意した質問を、順番に行った。
――宮崎前支局長の中村氏は、「世界日報」の記事を非難しながらも、肝心の日記、写真の信ぴょう性については何も答えることができない。
ただ「東京の広報に聞いてくれ」と言っている。
すでに半月もたち、調査をなされたと思うので結果を聞きたい。
「記事の再調査を行った。先(昭和59(1984)年8月4日付記事)の取材にタッチしていないわが社の者が担当し、日記の筆者の関係者、遺族にもあった。
詳細かつ慎重に調査した。
写真については、朝日新聞北京支局に調査依頼をした。
その結果はまず、日記については間違い無く現存している。
それはわが社で保管している。
しかし、写真については南京のものではない。
16日、北京支局より返事があった。
本紙で報道した3枚の写真いずれもが、戦後、上海で発行された『東北巨変血泪大画史』に収録されていた。
撮影の月日、撮影者はわからなかったが、場所は東北地方の凌源となっている。
このため近く、『全国版』で、写真および写真に関する記述についてはおわびし、取り消す」
――なぜ、このような間違いが起きたのか。
「担当記者(中村氏)が、写真提供者が、ただ『写真は当時のもの』としかわからないのに、南京虐殺のものと決め付けたようだ。取材のワキが甘かった」
――そのような問題の写真と一緒にあった日記が間違い無く、正しいと言えるのか。
「日記に関する記述は全て正しい」
そう答えて、青山氏は「朝日新聞」で報じた惨殺のくだりの部分をコピーで記者に示した。
日記には個人の名前も記されており、それがわかると日記の筆者もわかってしまい、取材源を秘匿できなくなる、という。
青山氏とのインタビューは1時間ほどで終わった。
18日付本紙は、この内容を「朝日、誤用認める/南京虐殺ニセ写真/全国版で近く訂正」との見出しで報じた。
この記事では深くふれなかったが、ニセ写真も悪質ではあるが、それ以上に巧妙でタチが悪いのが、写真に関するくだりである。
「撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に『南京虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという」
「家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。
家族は『京都で手帳が見つかったのを朝日新聞の報道で知り役立てばと思った。
二度と戦争は起こしてほしくない』と話している」
結局、この部分は全くの“自作自演”ということになるのではないか。
日記と写真の提供者が実在していても、その人物は写真が、南京攻略のものであるとは思っていなかった。
そのような人が、「南京大虐殺」事件の模様を克明に記録した日本兵士の手帳が京都で見つかった、というニュースが7月28日付「朝日新聞」に掲載されるや、せきたてられたかのように、「役に立てば」と、中村支局長に持ってきたというのか。
手帳発見の報道が7月28日付で、中村支局長の記事が8月4日夕刊。この間、7日間しかない。
わずか1週間で、日記がまぎれもなく昭和12年当時に、南京攻略戦に参戦した兵士のものに間違いないと判断、専門家に見てもらい、コメントをとったというわけになるが、どうも、話しが「うますぎる」気がしてならない。
さて、「朝日」、誤用認める」との本紙の記事が掲載された18日午後2時半から、宮崎市内の中華料理屋「四海楼」では、都城23連隊会の代議員大会が開かれている。
冒頭、あいさつに立った安楽会長は「朝日新聞」の“南京虐殺”報道にふれて、「徹底的に究明していきたい」と決意を述べた。
中山有良事務局長の経過報告が行われた後、朝日新聞社に対する謝罪、記事取り消し要求の件について協議。その結果、「“南京虐殺”の日記と写真は誤りでありましたので、23連隊の名誉を傷つけたことを深くおわびし、記事訂正を行い、23連隊は“南京虐殺”に無関係なことをお知らせします」との内容の謝罪記事を、1月中に、朝日新聞の「全国版」「地方版」におのおの報道したのと同じ大きさで掲載することを満場一致で決議した。
そしてもし、朝日新聞社側がこの要求を受け入れなければ
(1)宮崎県内での朝日新聞不買運動を起こす
(2)あらゆる報道機関にこの問題についてアピールしていく
(3)告訴に踏み切る―の3点を決めたのであった。
この日の決議を受けて、昭和61(1986)年1月21日付で都城23連隊会会長、安楽秀雄氏と事務局長、中山有良氏の連名で、内容証明、配達証明で朝日新聞社東京本社の一柳東一郎社長にあてられた「記事取消と謝罪に関する件」の内容は次のようなものであった(原文のまま)。
拝啓 陳者(のぶれば)昭和五十九年八月四日、五日貴紙地方版・全国版にて元歩兵第二十三連隊が南京に於いて虐殺を行った事を綴った日記と寫真が見付かり兎角(とかく)その有無が論議されている南京大虐殺は正(まさ)しく実在した事を物語る歴史的資料であるときめつけられた。 元歩兵第二十三連隊の生存者約二千名で結成された都城二十三連隊会にとっては全く身に覚えのない濡れ衣であり早速連隊会を構成する二十四の部隊に綿密なる調査を命じたところ右報道は全く事実無根の虚偽の報道であることが判明した。 依(よって)而昭和六十年二月八日文書をもって抗議、右抗議は受け入れられて同年二月二十四日の貴紙地方版に元歩兵第二十三連隊は南京大虐殺とは無関係の旨報道され本件はこれにて終息したかに見えた。 然る処、県外在住の戦友より全国版の何月何日に掲載されたかの問合せがあり、為に同年十二月二十日、貴社宮崎支局に出頭して尋ねた処、意外にも全国版に掲載の約束なしと反撥された背信行為に日本を代表する一流新聞社なるが故に怒りを殊更に覚え☆(ここ)に改めて左記に依り記事取消と謝罪を要求する次第である。 敬具 記 一、記事取消と謝罪は昭和六十一年一月末日までに貴紙全国版、地方版に掲載すること 一、南京大虐殺と元歩兵第二十三連隊とは無関係の旨を表明すること 一、今回の誤報に依り宮崎県民並びに元歩兵第二十三連隊そして朝日新聞社に迷惑をかけた担当記者の責任を追及されたいこと 一、前条につき拒否されたる場合は宮崎県民一丸となりこの貴紙不買運動を展開すると共に刑法230条に基づく告訴をする事を念の為に申し添う。 以上 (ルビは、世界日報社げ記入) |
この連隊会の抗議文送付に一日遅れて、朝日新聞社は22日付朝刊の全国版で「おわび記事」を出した。二十三日付本紙は、「『朝日』謝罪納得できぬ/“南京虐殺”報道/戦友会が記事取り消し要求/『日記の原文見せよ』」との見だしで、次のように報じた。
「おわび記事は、中村支局長の“南京虐殺”記事を再調査した結果、「日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」という内容。
特に写真3枚と日記の写真を掲載した「大阪版」では、これに加えて、「写真のうちに昭和9年1月、上海文革美術図書公司から発行された『東北巨変血泪大画史』に収録されたものがあり、撮影場所は中国東北地方の凌源としている」といった説明も加えるという、異例の扱いで出した。
疑問残る「写真はウソだが日記はホント」の弁
だが、日記の持ち主の所属していた都城23連隊の生存者で構成する連隊会(安楽秀雄会長)は朝日新聞社に対して、
(1)南京大虐殺と、23連隊とは無関係との表明
(2)23連隊および宮崎県民の名誉を汚されたことへの謝罪
(3)担当記者の責任追及
――等を要求、これを受け入れない場合は、宮崎県下での朝日新聞不買運動と告訴に訴える、としている。
連隊会の安楽会長は、おわび記事について「これでは子供だましではないか。“おわび”とは考えていない。私たちは、写真よりも日記について謝罪をしてほしい。私たちの抗議にも中村支局長は数メートル離れてしか見せてくれなかった。そんな日記が本物と言われてもとても納得できない」と言う。
事務局長の中山有良氏もまた「日記の原本を朝日新聞が保管しているからには、それを見ない以上、納得しない」とあくまで真相を究明する姿勢を崩していない。
中山事務局長の話によれば、朝日新聞西部本社の宮本通信部次長から、21日夕、22日夜の2度、「おわび記事」の内容について中山氏に電話で説明し、「これでかんべんしてほしい」と伝えてきたが、中山氏は「承知できない」と突っぱねたという。
東京本社の広報担当、青山昌史氏は、日記の原本が西部本社に保管されていると述べており、連隊会ではそれを見て納得のいかない限り、朝日新聞への抗議は、一歩も譲れない、としている。
1月25日午後、都城23連隊会役員会は朝日新聞宮崎支局で朝日新聞西部本社通信部次長らと4時間近く会談した。
会談には、連隊会側から中山有良・事務局長をはじめ役員5人が出席、朝日側は西部本社の宮本隆偉、稲垣忠両通信部次長と金丸嵩・宮崎支局長が出席した。
席上、宮本次長は連隊会が21日に内容証明で送付した一柳東一郎東京本社社長あての抗議文について触れ、「検討の結果、さきの『おわび記事』以上の要求には朝日としては応じることはできない」「日記に関して事実無根の虚偽であると抗議されているが、私どもに言わせると逆に事実無根の抗議である」と突っぱねた。
これに対して連隊会側は、西部本社版の「おわび記事」にあった、「この日記は、南京に入城した宮崎県出身の兵士(当時上等兵・故人)の戦記で、なかに虐殺の様子や心情もつづっています」というくだりに言及、「おわび」に名をかりて逆に南京虐殺を宣伝する記事になっていて納得できない、と反論した。
そして、連隊会側は写真の誤り以上に、「南京虐殺と23連隊は無関係であることを全国版で表明してほしい」と要求した。
朝日側は、「歩兵23連隊の兵士の日記に虐殺の記述があると記載しただけで、23連隊が南京虐殺をやったとか虐殺に手をかしたとは一言も言っていない」と釈明したが、連隊会は会員からの抗議が事務局あてに相次いだことを挙げ、「読者は23連隊が虐殺をしたと判断する」と重ねて反論した。
朝日側は、この場では問題の日記については見せることを拒否したが、連隊会が指示した日付の部分を読みあげている。しかし、日記に他の師団についての動向が書いてあるなど、連隊会出席者は日記の信ぴょう性について納得せず、「国会で、朝日の報道が正しいか、われわれの主張が正しいか、白黒つけよう」と迫った。
連隊会は26日午後、宮崎市内で役員会を開催、18日に決議した代議員会の抗議事項を尊重し、あくまで朝日新聞に対して謝罪を要求することを確認したのであった。
連隊会は、他の要求はともかく「南京虐殺と23連隊は無関係である」との表明を、朝日新聞社に求めている。
異例の「おわび記事」を出した。「朝日」が1つの記事で、2度、「おわび記事」を出すということなど、常識的には考えられない。あくまで、突っぱねていく姿勢が予想される。連隊会には、今後、根気強い戦いが強いられよう。今後のなりゆきをじっと見続けていきたい。
朝日新聞は、テレビ朝日のやらせリンチ事件、豊田商事会長刺殺事件、ロス“疑惑”報道などでマスコミ倫理が厳しく問われた昭和60(1985)年の新聞週間の初日にあたる10月14日付の一面に富森編集局長の「新聞週間にあたって」と題する記事を書いている。朝日新聞の記者はその結論を思い出していただきたい。そこで富森氏は次のように述べている。
メディアも、報道の自由を乱用して受け手の側の知りたい関心にこたえることだけに腐心していると、自ら墓穴を掘ることになる。新聞もテレビも記事や番組の審査機構を内部に持っているのだから、とりあえずはその機能を強化して、批判に対応することが必要であろう。中でも新聞は、読者との太い信頼関係があって、はじめて民主社会での役割を果たすことが出来る。この点で一層の努力が必要と考える。(世界日報「朝日」問題取材班『朝日新聞の「犯罪」誰がために情報は操作される』より)
この話は今から十年前のことである。
南京攻略と同時に入城して取材にあたった朝日新聞の足立和雄記者に、評論家の阿羅健一氏が電話で面接を申し込んだ。すると、足立氏はこういったという。
「南京大虐殺とおっしゃっていますが、私は大虐殺なんか見ていません。あなたがどの様な立場の人か知りませんが、大虐殺の証言はできません」と最初断られたそうである。だが、ようやく了解を得て、お宅に伺った阿羅氏は「しかし、足立さんがいらっしゃった朝日新聞では本多勝一記者が南京大虐殺があったと主張しているし、社会面でもよくとりあげていますが・・・・・。」と切り出した。すると足立氏は、「非常に残念だ。先日も朝日新聞社の役員に会うことがあったのでそのことを言ったんだが、大虐殺などなかったことをね。」さらに足立氏は語を継いで、「朝日新聞には親中共(中国共産党)・反台湾、親北朝・反韓国という風潮がある。本多君一人だけじゃなく、社会部にそういう気運がある。だからああいう紙面になる。」(阿羅健一著『聞き書南京事件』127貢)これは何も朝日新聞だけじゃなくて、産経新聞を除く日本のテレビ局を含むマスコミ全般の風潮である。 阿羅氏によれば、87年の段階で、軍の参謀、師団の参謀など軍関係者だけで150人、報道関係者300人、外交関係者20人など、当時(占領直後)南京にいた約500人の人たちから、直接南京の様子を聞
けば、当時の本当の南京の様子が浮かんでくるのではなかろうか−−−というので、氏はこの中の67人と連絡を取り、情報を得、さらに35人には1人3回づつ面接をして取材し、本人の校閲をうけて出版したのがこの『聞き書南京事件』である。
朝日では足立記者の他に、朝日の南京支局長を務めた橋本登美三郎氏に面接してインタビューしている。橋本氏は朝日新聞社から派遣された50人近い記者や連絡員を統率して南京に入城し、支局を開設した支局長である。阿羅氏の、−−−−−「南京では大虐殺があったといわれていますが、南京の様子はどうでしたか?」の問いに、橋本氏はこう答えている。
「南京での事件ねぇ。私は全然聞いていない。もしあれば記者の間で話に出てくるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことを話をするし、それが仕事だからね。噂としても聞いたことがない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話がでるはずだ。南京事件はなかったんだろう」(前掲同著132〜3貢)
橋本登美三郎といえば、佐藤内閣で官房長官、田中内閣で自民党の幹事長をつとめた実力者で、決してウソをつくような仁ではない。年月日は忘れたが、細川隆元氏が小浜利得氏とのテレビ対談でこう述べていたことを思い出す。
「わしが朝日新聞の編集長のとき、南京攻略戦に参加した記者やカメラマン全部を集めて、大虐殺のことを聞いたことがある。だが、誰一人として、見たことも聞いたこともありませんと、はっきり答えおった。大虐殺などありゃしないよ、デマだよ。」と大笑いしていた。
その証拠は、私が3年前に上梓した『朝日新聞が報道“平和甦る南京”の写真特集』である。南京に占領と同時に入城した約20名の朝日の記者・カメラマンは、入城の12月13日から12月30日まで、3週間たらずの間に、4面にわたって『平和甦る南京』の状況を、半ページ大のスペースに組写真にして占領での南京を紹介している。
その第1面は、占領5日目の写真特集で、題して『平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》』である。この中には、早くも夜店が出て(1)「兵隊さんの買い物」姿がでており、(2)「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」の姿が写されている。さらに早くも城外にいた(3)「避難民の群が続々と帰って来る風景」。さらに(4)「和やかな街頭床屋さん風景」。が写しだされている。(河村特派員撮影)
第2の写真特集は、占領8日目に撮った『きのふの敵に温情《南京城内の親善風景》』というタイトルである。写真説明は(1)は「治療を受けている支那負傷兵」で、捕虜虐殺どころか、日本の軍医が彼らを診療している写真だ。(2)は「皇軍将兵の様に食欲を満たす投降兵」である。日本兵が食糧を配給している写真だ。(3)は「兵隊と市民との親善風景」、(4)「手製の日の丸の腕章をつけた市民」たちの姿である。(河村特派員撮影)
写真特集その3は、題して『南京は微笑む《城内点描》』である。(1)は「玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん」であり、(2)は「壊れた馬車で遊んでいる子供たち」(3)は「子供たちを診療している日本軍の衛生兵」、(4)は「支那人教会の庭から洩れる賛美歌」と題する約50人ほどのうら若い女性たちがオルガンの前で歌っている写真である。(林特派員撮影)
写真特集その4は、題して『手を握り合って越年《日に深む南京の日支親善》』である。(昭和12年12月30日の新聞掲載)写真説明の(1)は「兵隊さんお正月に靴の修繕いたしませう」と支那人の靴屋が大繁盛している風景、(2)は「サァおっぱいが足らなきゃミルクをお上がり」とヒゲの隊長が中国婦人にミルクを差し出している。(3)は「新しいガーゼをとりかえていいお正月を迎えませう」と日本軍の軍医達が支那兵捕虜の包帯をとり変えている風景だ。(林特派員撮影) 朝日新聞写真特集へ
いったい朝日新聞のこれらの写真が物語る風景のなかに、どうして30万の大虐殺、強姦2万件、6週間にわたる放火・略奪・暴虐の地獄図など想像できようか。まさしく前述の朝日の足立記者や、橋本南京支局長や、細川隆元編集長の言うごとく、「大虐殺など見たことも聞いたこともない、“でっちあげのデマ宣伝”だ。」というのが実話なのである。ことに占領してちょうど3週間目の1月3日に、陶錫山を委員長とする「南京自法治委員」が誕生したというので、3千の市民が日章旗と5色旗を振りかざし旗行列をしている写真まである。虐殺の街では絶対に考えられないことだ。
まことに奇妙なことに、その朝日が、大虐殺はあった、あったと、マスコミの先頭に立ってはやしたてはじめたのである。雑誌「正論」に『朝日新聞の戦後責任』を連載している評論家の片岡正巳氏によると、昭和45年の3月から4月にかけて、自社の株主総会をほったらかして、広岡知男社長は、中国に飛んだ。そして約1ヶ月間、中共政府の熱烈歓迎をうけた。この時から朝日の編集方針は一変したのである。「日中復交促進」を社論にかかげて、何もかも中国共産党政府の意向や言い分を正論として、日本国民に伝達することを使命とする「中国一辺倒の新聞に変身」したのである。社論だけではない。朝日の事業部は、日中卓球親善試合の開催、中国出土文物展の主催、上海舞劇団の公演など、矢継ぎ早に中国文化を紹介した。さらに東京本社編集局長後藤基雄を訪中せしめて、朝日の編集や紙面構成についてまでも談合したという。つまり社をあげて中共の政策にのめり込んだのである。本多勝一記者が中国に渡り、言論統制きびしい共産党の“語り部”(宣伝マン)とみられる人間から大デタラメの作り話を聞かされ、ありもせぬ大虐殺や、万人抗の凄惨きわまりない、日本軍軍民が犯した残虐
物語を無批判に、検証もせず、ウラもとらず、そのまま綴ったのが『中国の旅』である。 史実とも照合せず、日本側の意見も徴せず、無責任極まる『中国の旅』が発刊されたのは昭和46年であるが、これがさらに、朝日新聞にかこみ記事で、史実として大々的に連載されたため、日本国民に与えた影響は甚大なものがあった。 「南京大虐殺事件」なるものは、東京裁判で初めて知らされた事件である。それまでは日本国民は“噂”にすら聞いてもいなかった。南京城の面積は東京都世田谷区よりも矮小である。(約40平方キロ)そこへ外国人記者5人を含む130人ほどの記者・カメラマンが入城して取材にあたった。そのうえ西条八十、草野心平、大宅壮一、野依秀市、石川達三、林芙美子といった著名な詩人・評論家・作家等も入城し、視察している。そのうちの誰ひとりとして、大虐殺など見ていないし、聞いてもいないのである。従って死体の山も血の河も、非戦闘員を殺害している場面の写真なども一枚もない。松井大将は上海に帰って2回、外人記者団と会見しているが、その席でさえ、虐殺に関する質問など受けていないのである。 東京裁判は勝者が敗者に対する一方的な復讐裁判だ。
日本国民は初めて聞く南京虐殺の件に驚愕したものの、日時とともにその印象も薄れかけていた。しかし、改めて『中国の旅』が朝日に連載されるに及んで、国民は愕然とした。なぜならそれは、日本の新聞記者による現地報道だからである。 南京大虐殺事件が初めて中学の歴史教科書に登場したのは、昭和50年の春から使用する教科書である。それは、おそらく、朝日をあげてこの虐殺キャンペーンの影響と思われる。文部省の検定官は、驚き、「戦乱にまぎれて・・・」事件が起きたと修正意見を付した。 それが57年の「侵略」を「進出」に訂正したという誤報を、時の宮沢官房長官が、誤報にもかかわらず中国に謝罪して以後、どの教科書にも「20万、30万」という誇大な虐殺数を列記するようになり、「戦乱にまぎれて・・・」も消えてしまったことはご存じの通りである。朝日は本多記者を中心に社内に「南京事件調査研究所」を設け、大虐殺派の洞富雄元早大教授を顧問に、藤原彰、笠原十九司、吉田裕といった反日・虐殺派の学者を集め、もっぱら南京に大虐殺があったとする出版や寄稿を重ね、さらに虐殺の資料の発表や証言の収集につとめた。 かくして朝日をトップに、日本
のマスコミ全体が、南京に大虐殺があったとする風潮が支配的となった。(ただし産経新聞だけは正論を曲げないため、いまだに北京駐在から外されており、例外である)朝日は度が過ぎて、宮崎の歩兵第23連隊戦友会から訴えられた。それはウソの陣中日誌や満州馬賊の生首の写真までかかげて、大虐殺の証拠だと大きく報道したためである。朝日は訴訟に敗れ、謝罪訂正を余儀なくされている。また毒ガスのニセ写真などもバレて謝罪している。 昭和60年8月、中共は抗日戦争勝利40周年を記念して南京に「侵略日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」を建設していたが、何とその企画を持ち込んだのは日本社会党(現在の社民党)某実力者であり、その資金は総評(現在の連合)がまかなったといわれている。 前述の朝日の「南京事件調査研究所」のメンバーも、記念館建設の前後に南京を訪問して熱烈歓迎を受けている。本多、洞、藤原氏ら12人による『南京大虐殺の現場へ』の著書が朝日から出版されている。館内に飾られた写真その他の資料は日本から持ち出されたとみえて、館内で販売される資料集は、なぜか当分、日本人には売らないことになっていたという。
南京大虐殺の最大のプロパガンダとして登場した本多記者の『中国の旅』の一角が完全に崩壊する日がきた。 『中国の旅』の中には撫順炭鉱での虐殺事件も出てくる。満州最大の炭坑であった撫順炭鉱には万人抗が30ヶ所もある。1ヶ所1万人づつ埋めたとして、日本人は中国労働者を30万人も虐殺したというのである。やはり『中国の旅』の影響でこのことは高校の教科書にも出てくる。 以下は「正論」2月号の田辺敏雄氏『「平頂山事件」「万人抗」にみる教科書と報道の不誠実』から引用させていただいた。 《「多くの中国人労働者が粗末な宿舎と食事をあたえられて酷使され、日本人経営者の一部の鉱山などでは、死んだ中国人労働者の遺体をすてる『万人抗』がつくられた」(三省堂『高校日本史』) 「指導のポイント」には、ほぼ1ページにわたって『中国の旅』の引用がある。その一部を抜き出すと、「(通りかかった隊列の日本兵2、3人が)赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出して、その場で強姦しようとした。母は赤子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母の手からむしりとると、その場で地面いっぱいにたたきつけた。赤子は声も出ずに即
死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った。・・・」 そして、説明文の中には「中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著『中国の旅』『中国の日本軍』が必読文献。ことに後者の写真は良い教材になる、」と書かれている。 『中国の日本軍』は『中国の旅』の日本版である。万人抗に関するものだけでも、白骨化した人骨の写真などが30ページ以上にわたっている。万人抗記述が教科書になくても、「必読文献」という以上、教師はこれらを読み、生徒に教えることになる。 田辺敏雄氏は昭和51年頃から『中国の旅』など中国における旧日本軍・民の残虐事件に疑問をもち、撫順炭鉱や満州鉱業の元社員約200名を対象に取材した。いくたびも座談会や研究会も開き、あるいは産経記者と共に現地の踏査にも行った。その結果、撫順炭鉱に万人抗などというものは1つもない、見たことも聞いたこともない、と関係者たちは異口同音に言う。まして病人や働けなくなった中国人鉱夫を生きながら穴埋めにするような残酷な行為など、断じてあり得ないと誰もが言い切る。 田辺氏はそれからの聞き書きや、座談会での記
録や、現地調査の報告書を雑誌正論や産経新聞に投稿した。そして朝日新聞にも抗議した。朝日新聞は「改めて調査をします」とまで約束したという。だが、調査した痕跡は皆無である。 著者の本多記者に対して、「撫順炭鉱の万人抗記述などは、全くの虚妄だ。取り消して欲しい」と抗議すると、なんと氏はこう放言した。 「私は中国人の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やって欲しい」と。 何という無責任きわまる夜郎自大ぶりか。朝日新聞ともあろう全国紙が、「白髪三千丈式」の誇大妄言をならびたてる中国の宣伝屋のプロパガンダを、そのまま1ヶ月以上も連載して、ありもせぬ大虐殺を煽るとは何事か。田辺敏雄氏は『朝日に貶められた現代史』という著書を上梓してこのことをくわしくのべている。
朝日は中国の言う「30万大虐殺」を信奉してきた。本多記者ごときは、「南京大虐殺というのは、何も南京における虐殺だけを指すのではなく、日本軍は杭州湾上陸時から虐殺をやっており、場所と時期も広げて考えるべきだ」などと詭弁を弄してまで、30万大虐殺を擁護してきた。かつて石原慎太郎氏が米紙プレイボーイ(平成2年11月号)に「南京大虐殺は中国人の作り話だ」と発言した内容の論文がのった。その影響は大きく、これに憤慨した在米華僑が、ニューヨークタイムズに1貢大の意見広告を出して「30万大虐殺」を強調した。ところが朝日は、それから1週間後の平成3年1月3日付けの社説で、「石原氏の発言は、歴史を無視した暴論であることは明らかだ」と華僑の意見広告を支持した。つまり朝日新聞社自体が初めて南京事件に対する見解を社説で明らかにしたのである。 そこで南京事件に関心をもつ多くの識者から、朝日は中国のいう「30万大虐殺の証拠を示せ」という投書が寄せられた。その1人、野村吾朗氏(富山の歩兵第35連隊の大隊本部付書記・軍曹)に対し、前述の社説の筆者(論説委員)から回答があった。2月2日付けで、要約すると、「30万とい
う数字が正しいとは思いません。『窓』で紹介した中公新書『南京事件』の見方が、現時点では妥当ではないかと考えます」というのである。 この著者というのは秦郁彦著で、秦氏は「虐殺は4万ていど」と述べている。筆者はこの著書を精読したが、推測やねつ造も多く、マスコミの虐殺風潮に媚びた文章である。 朝日は、石原氏が「論壇」に投稿したいと申し入れた際、ごう慢にもこれを断っている。多くの読者の質問にも「南京に30万の大虐殺があったか否かに付いての御質問には答える立場にない」と突っぱねてきた。だが朝日が「秦氏の4万説」を支持したことは、結果的には石原氏の言う「南京の30万虐殺は中国の作り話である」を認めたことになる。朝日は言論の自由さえないマルクス・レーニン主義の論理と価値観をもつソ連・中共にのめり込んで、そのいいなりになり、今なお自国の過去を侵略国だったとする史観で、反日主義をふりまいて正義ぶる。罪深い過去の反省など爪の垢ほどもない。恐ろしい新聞である。
最近の「朝日新聞」は気でも狂ったのではないかと思われるほど、中国大陸における旧日本軍の“罪悪”バクロに惜しげもなく紙面を割いて誇大なキャンペーンを展開している。いま私の手元にあるスクラップ・ブックを一瞥しただけでも、その“反日キャンペーン”がいかに気狂いじみたものであるかがわかる。
これらの記事が十分な調査をかさね、ウラをとって事実まちがいないものとして発表されるならまだしも、調べればすぐわかるような虚偽の証言までも、堂々と扇情的大見出しをつけて発表している。
しかも、あとから述べるように、明らかにそれらの記事が間違いではないかという証拠を揃えての反論に対して、「朝日新聞」はこれを黙殺して取り上げようとしない。要するに、一つの方向――日本軍は南京で30数万の中国人を虐殺した――という結論に初めから結びつけようとする態度である。いま朝日新聞社内で「南京大虐殺派」を代表してやっきとなって筆をふるっている本多勝一という記者が、かつてベトナム戦争報道で、いかに反米親ソ的な役割を果たしたかを想起してみていただきたい。その後、百万を越える難民や何十万ものボート・ピープルが出ても、「朝日新聞」も本多記者も、みずからの北ベトナム観について今日にいたるも反省の言動を全く聞かない。こうした新聞及び記者が、いままた新たにありもしなかった「南京大虐殺」という虚妄を国民に押しつけ、日本の「民族的恥辱」を永久に歴史に刻み込む工作に専念これ努めているのである。
私は「朝日新聞」に掲載される“南京大虐殺”に関する記事や評論の取り上げ方があまりにもでたらめが多いので、読者欄に5回にわたって投稿した。しかしいずれも拒否され、ついに一度も私の反論は掲載されることがなかった。
最初に私が投稿したのは、4月2日の「朝日」の「声」欄に、私を名指しで誹謗する次のような投書を見たのがきっかけである。
《写真集が語る大虐殺の実態。 宮城県 橋本四郎(無職56歳)
私は戦争の悲惨さを子供や孫に知らせるためにそれらの図書や写真を買い求めています。日本軍人らが中国などアジアの各地で行った残酷な人殺しは数限りなく、南京大虐殺は、訴えを起こした(注@)旧軍人が言うように虚偽の風聞では決してありません。斬り落とした首をもっての記念写真、集団で生き埋めにされる中国人、これが虐殺でなくてなんでしょう。
東京裁判の記録には「20万人の中国人を殺害」とあるが、虚偽の風聞だと原告(注A)の田中正明氏らが信じているなら、なぜ証人として意見を述べなかったのだろうか。戦争についての事実隠しを進める自民党政府、文部省の喜びそうな田中氏らの反省のない行為に怒りを感じます》
(注)文中、「訴えを起こした」とか、「原告」とかいう言葉が出てくるが、これは、水津満、菅野豊太郎、畝本正巳、西坂中、木ノ下甫、伊勢貞一と私の7人が、国(文部省)を相手に、一昨年夏の教科書騒動で、中・韓両国政府の抗議に鈴木内閣が屈服して以後、その偏向ぶりが一層甚だしくなった中・高校の偏向歴史教科書の是正を求める訴訟を、さる3月15日、東京地裁に起こしたことを指すものである。ちなみに、第3回公判は10月1日開廷予定。(この件に関する問い合わせは東京都千代田区外神田5−6−3 教科書是正訴訟事務局へ 電話03−832−6805) 橋本氏の文中に「東京裁判」や「首」の件があり、東京裁判を説明するためには、五百字の「声」の欄では十分でないと思われたので、私は同じ投稿欄の「論壇」(三枚半)に投稿した。4月3日、内容は次の通りである。
《南京に“大虐殺”はあったか。本紙3月30日には本多勝一記者の「南京大虐殺46年」のレポートと「南京事件調査研究会」の発足記事がのり、4月2日には、私の名前まで出た「南京虐殺」に関する賛否両論の2つの投稿が掲載されたので、私にも言わせて頂く。 本多氏によると激戦地になった中国各地の地方政府当局の「両国間の歴史的事実を正しく知った上での友好こそホンモノの友好」との意見には私も賛成である。日中とも当時の責任者存命されている間に、一級資料を基礎にして公正なる調査を実施されんことを希望する。昨年長編記録映画『東京裁判』が上映され話題を呼んだが、その時小林正樹監督は、99%までドキュメンタリのこの映画に、1ヶ所だけ『中国の怒吼』という宣伝劇映画を挿入して、南京で「大虐殺」があったと解説した。小林監督は「プレジデント」(58年9月号)に「映画“東京裁判”に応える」と題して、この映画の制作意図についてかなり詳しく説明している。それによると小林氏は「確かにあれは国民政府が南京事件を告発するためにつくったいわゆるやらせ映画であることは最初からわかっていた」と述べてい る。やらせとはわざとそのような場面をしつらえ、わざと演技して、真実のごとく見せる映画技法である。しかもこのフィルムを手に入れるため、関係者は台湾へ9回も足を運んでようやく手に入れたのだという(江田和雄氏談)。それほどまでして「南京大虐殺」を立証しなければならない理由はどこにあるのか、私にはわからない。 この映画には、真冬というに半袖、半ズボンの兵隊が出てきたり、南京に上陸していない陸戦隊の兵隊が生首をささげた写真が出てくるのである。投書の橋本四郎氏の写真集の写真もおそらくこのたぐいであろう。 橋本氏は、東京裁判でもその判決で、「20万人の中国人を殺害した」とあるではないかと言われるが、松井大将に対する個人判決では「10万人の殺害」とその数は半減しているのである。この裁判は日本軍の暴虐については、「偽証罪」なしの言いたい放題を許し、日本側の提出証拠はことごとく却下するという不公正な裁判であった。昨年5月サンシャインビルで開催された「東京裁判国際シンポジューム」で、連合国11ヶ国の判事中ただ1人の生存者であるオランダのレーリング博士も出席して、その不公正さ
を認め、たまたま出席中の家永三郎氏さえも、東京裁判は公正なる裁判とは言い難い旨の発言をしたほどである。「南京大虐殺」はこの東京裁判がデッチあげた“創作”なのである。 南京は郊外まで含めても約40平方キロ、東京世田谷区の5分の4の面積で、ここに100人以上の内外記者団が取材にあたったのである。当時の市民は20万人といわれ、早くから全部「安全区」の中に集められていた。(南京安全区国際委員会発表)。そこには一発の爆撃も砲撃もなく、火災すら一件もなく保護されていたのである。そのため3週間後にはその人口は25万に増えている。当時の朝日新聞は「平和甦る南京」と題する写真特集を組、日本軍占領4日目の12月17日、皇軍に保護される避難民の群れや、帰還した農民が城外の畑を耕している写真を掲載している。 ここを守備した唐生智軍約5万は、戦闘により壊滅的打撃を受けている。蒋介石氏は「南京における我が軍の損害6千」と発表している(『蒋介石秘録第12巻』)。いったい20万だの30万だのという虐殺数字はどこから出てくるのか。広島の原爆犠牲者でさえその数は14万であることを想起してほしい》
この投稿は「朝日」の編集局論壇係から、「残念ながら掲載を見送らせて頂きます」という印刷ハガキがあって、没になってしまった。そこで今度はこれを600字に圧縮して、「声」欄に投稿した。4月10日のことである。
《“南京大虐殺”は数字の一人歩き。 本紙3月30日に「南京大虐殺46年・日中両国はいま」という本多勝一氏のレポートが掲載され、また4月2日の「声」欄には、私を名指ししての質問もあるのでお答えします。 新年度からの中学教科書、高等学校の歴史教科書の中には、南京大虐殺20万、30万という数字まで現れました(東京書籍)。ご存じのように南京事件は東京裁判で大きく取りあげられ、以後真相究明のないままに、数字だけが一人歩きしているのが現状です。日中の「ホンモノの友好のためにも、両国間
の歴史的事実を正しく知る」ことが肝要だとの提言には双手をあげて賛成します。そのためには、政治宣伝的な数字や、一方的な、あるいは風聞による数字は別として、日中双方とも当時の関係者がまだ生存されており、公正なる第三者立ち会いのもとに、実証的調査を実施されるよう強く希望します。現在私の手もとに全国から、当時の従軍記者を含め参戦将兵約80名の方から、「20万、30万など論外だ」「大虐殺など絶対にない」と強く否定し、「無実のえん罪を教科書にまで書き立てられ、死んでも死にきれない」といったお手紙やお電話を頂いています。
東京裁判の判決文(多数判決)には20万とあるではないかといわれますが、松井石根被告に対する個人判決文は10万と半減しています。日本軍の非道残虐は言いたい放題という“偽証罪”のないこの裁判は全く不公正なばかりか、その数値もでたらめであることを付言して回答と致します》
この投稿に対して「朝日新聞」の「声」欄担当者から電話があった。
「投書を掲載させて頂きます。ついては、歴史教科書の中に、20万、30万という数字まで記述されているといわれますが、その教科書をお持ちでしょうか。」という質問である。そこで私は、手もとにあった「東京書籍」の中学校社会科(歴史的分野)の次の一節を読んだ。 「日本軍は、華北を占領し、さらにナンキン(南京)へ侵攻して、各地で多くの中国民衆の生命を奪い、その生活を破壊して大きな損害を与えた。※ 《脚注》※ ナンキンを占領した日本軍は、数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した。その死者の数は婦女子、子供をふくむ一般市民だけで7〜8万、武器をすてた兵士を含めると20万以上ともいわれる。また、中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者をふくめ、30万以上ともみている。この事件は、ナンキン大虐殺として、諸外国から非難をあびたが、日本の一般市民は、その事実を知らさされなかった」(277貢)
「声」欄の担当者は「ありがとうございました」と丁重に礼を言って電話を切った。 それから一週間まち、十日待ったが一向に掲載されない。しびれを切らして当方から「声」欄係りに「どうなっているのか、のせると約束しながら、一向にのらないが――」と問い合わせた。「声」欄担当者が「ちょっとお待ち下さい」といってしばらく待たせたが、ちがった人物の声で、「紙面のつごうで載らなくなった、あしからず」と木で鼻をくくったようなあいさつで電話は切れた。 かくして私の2回にわたる「反論」は、ついに日の目を見ることなく葬り去られた。「朝日」の夕刊に「深海流」というコラム欄がある。5月14日、本多勝一編集委員名で、「虐殺した数とされた数」という一文が掲載された。次の通りである。
《・・・・最近この問題で争われているひとつに、一昨年の教科書問題から再燃した南京事件(1937年)での犠牲者数がある。先月24日に東京地裁で第一回法廷が開かれた第三次教科書訴訟では、教科書検定強化の実例の中から、象徴的な数例に争点をしぼっているが、その一つが「南京大虐殺」である。文部省が「修正」したがるひとつは殺された人の数だが、その調査官の意見を読むと、なんと「1−2万」という数字を示唆している。加害者側の政府の検定官としての中国では「30数万人」とか「30万人」といった表現が定着している。(中略)
都市での大量虐殺の常として、精密な調査や正確な数字は永久に不可能だが、状況調査からある程度の大ざっぱな推測はできよう。この冬、日本軍上陸点の杭州湾から、その進撃ルートを南京までたどって調査してきたも、この問題についてのヒントを得たいのが目的の1つであった。百数十人の生存者たちに個別に面接した結果、およそ次のようなことがいえると思う。
南京事件についてはその「時」と「場所」のとらえ方で数字も大きく違ってくる。「時」については、日本軍が南京城を完全占領したとされる12月13日から入場式の17日までの「5日間」という区切りが方が最短だ。また「場所」については、南京市の「市街地」部分に限定する区切り方が最小範囲である。しかしこの最短・最小の場合でも、「何千」とか「何百」の単位の集団虐殺が各所で行われたこと(その奇跡的生還者たちも生きている)や、当時の記録映画(日本未公開)・写真などから考えるとき、「1−2万」という数字はどうにも少なすぎはせぬか。
だが、このようにことさら少ない時と場所に限定すること自体にむしろ本質的問題がある。13日の1日前の12日に行われた虐殺を加えぬことはナンセンスだし、市街地を少し離れた川岸を加えぬのも奇妙なことだ。となると、どこかに境界を引くこと自体に無理がでてくる。 まとまった状況全体として無理のない解釈は、南京攻略の開始(11月上旬)から混乱のほぼ終息する2月はじめまでの約3ヶ月間であろう。そうなるとまた何十万か見当もつきかねることになるが、「南京攻略戦」という行為全体から南京市一点での五日間だけ切り離すナンセンスよりましかもしれない。集団虐殺は杭州湾上陸直後から南京までの途上各地で行われたのだから》
まことに奇妙キテレツな論理である。一体、本多氏は何を言いたいのか?まわりくどく、「時」がどうだとか「場所」がどうとか言っているが、要するに中国側の言う「南京虐殺30万人」が正確だということを言いたいのだろう。だがその30数万人という人間が南京にはいなかった―――ということを本多氏は知っている。そこで30数万人の犠牲者を作るためには、「時」をのばし、「場所」をひろげるほかない。そこで本多氏はこういう奇妙な、東京裁判でさえもでなかった論理をブチあげたのである。氏は言う。「いわゆる南京大虐殺は日本軍の南京占領直後に突然発生した事件ではないということである。虐殺・暴行は、杭州湾上陸直後から始められており、(中略)虐殺・暴行は南京への途上で“訓練”をつみながら進み、もはや習慣化した大軍となって、南京へなだれこんだ観がある」ただ「南京一帯は大人口だから、したがって相対的に犠牲者の数も大きいというだけあって、本質的にはこの事件は、南京攻略開始の十一月上旬から、陥落後二ヶ月近くつづいた“勝手放題”期間を含む約三ヶ月間の出来事、ととらえるのが実情にそくしているだろう」(「朝日」3月30日付「南京大虐殺
46年」より)
つまり、「場所」と「時間」をひろげないことには「30数万人」にはならないという告白である。ということは、裏返して言えば、南京では30数万人もの大量殺戮はなかったということを認めたことである。
『決定版南京大虐殺』の著者である洞富雄氏にしても本多氏にしても、およそ「大虐殺派」の立論は、戦闘による死体でも中国兵の死体はすべて虐殺として数える。捕虜が何千いたという証言があれば、これも勝手に虐殺にする。その他埋葬死体の数、難民区から摘出された便衣兵(ゲリラ)の数・・・・・これらすべてが被虐殺者の数として計算されるのである。 例えば前掲文で本多氏は「十三日の一日前(南京陥落の前日)の十二日に行われた虐殺を加えぬことはナンセンスだ」といっているが、これは一体どういう意味なのか。十二日は南京城に肉迫した日本軍が、南京城の守りが意外に固く、戦友のしかばねを乗り越え、一番乗りを目指して、勇猛果敢に悪戦苦闘を重ね、多くの犠牲を強いられた一日である。こんな時に、どういう「虐殺」があったというのだろうか。本多氏のいう「虐殺」とはいったい何なのか?戦闘行為で敵を殺傷し、撃滅することを「虐殺」というのだろうか。
当時、南京市民の人口はどのくらいか。占領十日目の十二月二十三日には、南京に自治委員会が成立し、委員長には江寧人の陶錫山がえらばれた。日本軍はこの日から中国人立ち会いのもとに「良民証」を下付した。これは良民の中に紛れ込んでくる敗残兵を除去するためである。このとき日本軍に登録された市民は16万に達したといわれる。しかしこの中には10歳以下の子供や年老いた婦人はふくまれていなかった。これを全部含めて「20万人」と推定した「南京安全区国際委員会」の記録は、それほど大きなあやまりでないとみてよかろう。洞富雄訳『日中戦争史資料集』によると、「安全区(難民区)には公共機関の建物を利用して十八ヶ所の避難民収容所が設けられていた。これらの公共物建物には十二月十七日現在で約5万人が収容されていたが、十二月下旬から一月中の最盛期にはそれが六万八千人ないし七万人にも達した」。このほかに「収容所へも入らず安全区内に住んでいたものが六万八千人いたという。」その他安全区内の私邸(空き家)やテント生活者、周辺の住民等を合わせて、約二十万と委員会は推定していた。 安全区(難民区)と
いうのは、城内西南の一角で、南は漢中路、東から東北は中山北路(現在の人民北路)、北は山西路、西は西康路に取り囲まれた四.二平方キロの面積で、城内総面積の八分の一にすぎない。しかしここには、金陵大学、金陵女子学院、高等法院、日本領事館、鼓楼病院などの公共建物が多く、高級軍人や官吏の官邸や外人・富裕階級の邸宅も多い。この地区を管理したのが外人居留民で、米人七名、英国人四名、ドイツ人三名、デンマーク人一名、計十五名からなる「国際委員会」である。 南京市長馬超俊は、十二月一日、全市民に対して、市民はすべて安全区に移住するように厳命し、一般市民は三万担のメリケン粉、および十万ドルの助成金を国際委員会に委託して、自らは船で脱出した。蒋介石、宋美齢、何応欽、白崇禧ら国民政府首脳が南京を脱出したのは十二月七日である。高級官吏や金持階級は、持てる限りの私財を自動車やトラックや船に積んで南京を後にした。九日からは電灯も消え、電話も途絶えた。 このころからは南京は完全な無政府状態におかれ、中国兵や市民による掠奪、暴行が行われた。九日には松井軍司令官の「降伏勧告文」が飛行機で撒布されたが南京防衛司令官唐生智将軍
はこれを拒否した。唐は数日前から「清野作戦」を下命していた。清野作戦とは焼き払い作戦のことである。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、この惨状をつぶさに報道している。彼はこれを「焼き払いの狂宴」といっているが、城外のあらゆる公共建物や竹やぶまで焼き払い、狂気のごとく建物や事物をぶち壊し破壊し、掠奪した。その損害は、これまで日本軍の空襲や砲撃の与えた損害の十倍にあたると報道している。(東京裁判ではこれらが全部、日本軍による犯行にすりかえられた)
分 類 |
資 料 | 昭和 年・月・日 |
人数 (万人) |
備考 | |
国 際 委 員 会 公 式 文 書 |
T 6号 T 9号 T14号 T19号 T22号 T24号 T26号 |
J20号 J26号 J41号 J43号 J46号 J47号 J49号 J54号 J68号 |
12.12.17 12.12.21 12.12.27 13. 1.14 13. 1.17 13. 1.18 13. 1.19 13. 1.22 13. 1.28 13. 2.10 |
20 20 20 25〜30 25 25 25 25 25 25 |
T : ティンパーリー「戦争とは何か」・(外国人の見た日本軍の暴行) J : 徐 淑希「南京安全区襠案」 |
統 計 |
国際救済委員会調査 南京地区における戦争被害 |
12.12.〜13.3. | 221150人 | スミス博士と助手による推計 | |
報 告 |
アメリカ大使館報告 ドイツ大使館報告 |
13. 1. 13. 1. |
20〜25 20 |
エスピー報告 ラーベ報告 |
|
証 言 |
許伝音 M・S・ベイツ |
21. 7.26 21. 7.29 |
20〜30 221000人 |
極東国際軍事裁 判検察側証言 |
|
参 考 |
R・O・ウイルソン | 21. 7.25 | 戦100 12月初め50 |
同上 鼓楼病院医師 |
このような阿鼻叫喚の中を、市民は安全を求めて、ほとんど一人残らず、安全区内に身をよせた。その数がおおむね二十万といわれるのである。
右の表は、日本軍占領直後の十三日から翌年二月十日まで、国際委員会が、安全区内外の治安や日本軍の暴行、あるいは食糧補充等に関する六十九通(号)の日・米・独大使館にあてた文章の中から、人口にふれている箇所を抽出したものである。右の表を見ていただきたい。十二月十三日の南京占領直後の人口二十万からわずか三週間後の一月にはいると、人口は二十五万に増えている。つまり難民が連日どんどん復帰しているのだ。この第三国人からみた人口の推移からおしはかってみても、南京に「三十数万」はおろか万というケタの虐殺があったなどと、どうして推測できようか。本多氏がいうように「時」を二月まで延長しようと、人口は増える一方なのである。松井軍司令官の二月七日の陣中日誌には、「目下南京城内の居住者約三十万の人民中十万余は城内に復帰して概ね我軍に親しみつつあり」とある。本多氏は南京で「“何千”とか“何百”の単位の集団虐殺が各所で行われた」というが、そんなぶっそうな“虐殺の街”にどうして五万も十万もの市民が毎日続々と復帰してくるであろうか。
そこで私は、この本多氏の「虐殺した数とされた数」を一読してすぐペンをとって「第三者の見た“南京虐殺”の数」という一文を草して「朝日」の「声」欄に投稿した。五月十五日のことである。
《第三者の見た“南京虐殺”の数。
本紙十四日付け夕刊に本多勝一氏が「虐殺した数とされた数」と題して「南京大虐殺」に言及し、奇妙な論を展開している。
日本軍が占領した時の南京の人口は約二十万(南京安全区国際委員会発表)であり、南京を守備した中国軍は約五万といわれている。一人残らず虐殺したとしても二十五万である。ところが日本軍占領からわずか三週間後の昭和十三年の正月には、南京の人口は二十五万に増えているのである。(前掲国際委員会発表)従ってどう計算しても三十数万の虐殺は数字の上でなりたたない――ということを本多氏は承
日 付 (1937 - 1938) |
死 亡 原 因 | 負 傷 原 因 | 拉致さ れたも の** |
死傷者 統 計 |
兵士の暴 行による 死傷者の 比率(%) |
||||
軍事 行動* |
兵士の 暴行 |
不明 | 軍事 行動* |
兵士の 暴行 |
不明 | ||||
12月12日以前 12月12、13日 12月14日〜1月13日 1月14日〜3月15日 日付不明のもの |
600 50 ― ― 200 |
― ― 150 ― ― |
― ― 150 ― ― |
50 ― ― ― ― |
― 250 2200 ― 600 |
― ― 200 ― 50 |
― 200 3700 250 50 |
650 550 4550 ― 1000 |
― 91 92 ― 75 |
計 | 850 | 2400 | 150 | 50 | 3050 | 250 | 4200 | 6750 | 81 |
12月13日以降の暴行件数の比率(%) |
89 | 90 |
知している。そこで氏は、「このようにことさら少ない時と場所に限定すねこと自体にむしろ本質的問題がある。と称して、「南京大虐殺」というのは「南京攻略の開始(十一月上旬)からはじまって翌年二月はじめの約三ヶ月間」と期限を延長し、場所も杭州湾上陸から南京までは中国側が発表しているような虐殺はなかったということを裏返して弁明しているのである。戦中南京に駐在したNYタイムズのターディン記者は「およそ二万人の中国兵が日本兵によって処刑されたことはありうる。(注(1))」という表現で南京事件をレポートしている。また日本軍占領三ヶ月後、多数の学
生を動員して戦争被害状況を50戸に1戸の抽出方法で調査したスミス博士は、日本軍による中国人殺害2136人と発表している。これらの数値は「第三者の見た(注(2))“南京虐殺”数であることを承知されたい》
注@ダーディン記者の二回にわたる詳細なレポートの中で、彼は日本軍による婦女・子供などシビリアンの殺害などには全く触れていない点は注目すべきであろう。な同記者は、市民をおきざりにして早くも逃亡した蒋介石はじめ中国首脳の無責任な行動を非難し、これが「全面的破滅への合図となった」と述べている。
注Aスミス博士は金陵大学の学生多数を動員して、二人一組となり、五十戸に一戸の割合で家族の被害状況の聞き取り調査を行っているその結果は表2の通りである。スミス博士は「兵士」の暴行によって殺害された二千四百のうちには、中国兵による殺害もあり、日本軍によるものその89%の二千百三十六人と計算している。戦争直後のこの科学的な貴重な証拠を東京裁判は却下した。その理由は死亡者数があまりにも少なかったからである。以後「虐殺派」はこの第一級資料である調査データを用いることをしない。
殺人 | 傷害 | 連行 | 強姦 | 略奪その他 | 備 考 | |
12月13〜20日 21〜31日 |
28 |
14 2 |
337A 20B |
134AB,AB,AB 120 |
48 11 |
No.114〜136 No.155〜164(欠) |
1月1〜10日 11〜20日 21〜31日 |
4 6 5 |
4 1 11 |
2 3B 26 |
13 3BB 68B |
1 5 66 |
No.204〜209欠 |
2月1〜7日 | 6 | 12 | 2 | 21 | 48 | |
合 計 | 49 |
44 |
390 A BB |
359 AAA BBBBBB |
179 |
No.1〜No.444 正味 405件 |
当時の南京市内の全人口二十万ないし二十五万のうち、日本軍によって殺害され、連行され、強姦された者が幾人いるか、国際委員会がはっきり示した記録がある。
十五人の国際委員はおおむね反日的な敵性国人であるが、その十五人と紅卍字会やYMCAの職員など数十名が、日本軍占領下の南京城内をくまなく四六時中探索し、これを毎日記録して、日本大使館に提出している、いわば日本軍に対する苦情申告のようなものである。十二月十四日から翌年の二月十九日まで約六十日間のあいだに提出された文書は、第一号文書から第六十九号文書まで六十九通、件数にして四百二十五件ある。この中にはデマあり、風聞、仄聞(そくぶん)、誇張ありで、信用し難いものも多いが、これを全部「黒」として統計すると次の表3のごとくなる。
この六十九号文書は、後年徐淑希の『南京安全区當案』とテンパーレーの『外国人の見た日本軍の暴行』(注@)の両書に記載されている。われわれはこれをダーディン記者はじめ内外記者のレポート、前出のスミス博士の調査報告書、各部隊の戦闘詳報、松井大将の陣中日誌その他将兵日誌類や記録と共に第一級史料(資料)と呼ぶ。この第一級資料を見るかぎり、南京に“大虐殺”は絶対ない。
この表は板倉由明氏が前記の第六十九号文書四百二十五件の日本軍に対する苦情を部門別に統計したものである。これによると殺人は四十九件である。傷害四十四件、連行三百九十プラス・アルファ、強姦は多数と記載してあるもの三、数名とか若干と記載しあるもの六、はっきり数字で示された累計は三百五十九件である。前線部隊と行動を共にし、占領直後の南京の取材に当たった同盟通信の前田雄二記者(現・日本プレスセンター専務理事)は筆者にこう語る。
「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの虐殺など行われようはずがない。もしあれば、私たちが見逃すはずがない」と言い切るのである。
松井大将の陣中日誌や獄中記によると、大将は南京入城を済まして上海で二回にわたり外人記者を集め記者会見を行っている。その会見で“虐殺”に関する質問はなに一つも受けていない。そればかりかニューヨーク・タイムズのアベント記者を二回も招いて、南京占領に関する国際評価や国際世論の動向を訊ねている。そこでも大将はこのことを聞いていない。当時の中国新聞をふくめ外国新聞のどこにもそのような記事はのっていない。南京に入城した百二十人もの日本のカメラマンや特派記者のうち誰一人として“大虐殺”の存在を知らなかったのである。と同様、十数人の外人記者も、南京に居残った約四十名の外人も、揚子江上の五隻の米英の艦船乗員も“大虐殺”は見ていないのである。そればかりではない、その翌年十月、上海駐在の外人記者団十数名が、つぶさに南京の戦跡を視察しているが、その時も“虐殺”の質問はなかったと、当時同盟通信南京特派員の小山武夫氏し(元・中日ドラゴンズ社長)は証言している。
中国自身にも当時「南京虐殺」を記録した文献はなに一つない。「ティンパーリーの編書(注@)に寄せた郭沫若の序文は例外的なもののように見える」と『証言・南京大虐殺』の解説者姫田光義氏は次のごとく述べている。「南京大虐殺から三、四年たって発行された書物の中にも、この事件のことはいぜんとして触れられていない」(同書二一八貢)
日本の中学・高校の歴史教科書には、「当時日本は国際的非難をあびた」とあるが全然ウソである。少なくとも前記の一級資料の中には「大虐殺」の片鱗すら見あたらない。
当時の新聞その他の記録はその逆である。
南京市内でも鼓楼病院や中央病院――そこには中国の敗残兵が多数病臥していたが、日本の衛生隊は、日本軍の傷病兵と同様に、給水し、食糧を運び、包帯のまきかえや施薬をして、感謝状まで受けているのである。
難民区に救恤物資を贈り、乳幼児には粉ミルクを配給し、子供たちにはキャラメル等を与えている。
「朝日新聞」はこうした風景を「写真特集」に組んで、どの新聞よりも忠実に、熱心に報道している。それも一度や二度ではない。十二月二十日付けの朝刊は「平和甦る南京」と題して、半ページを四枚の写真で埋めている(十七日、河村特派員撮影)。そこには早くも「皇軍入城に安堵して畑を耕す農民たちの姿」や「皇軍に保護される避難民の群」がぞろぞろ帰ってくる写真がのっている。
さらに翌二十一日には、三面トップ五段ヌキで、「抗日のお題目忘れた南京市民/日毎加る親密さ/“奈良の鹿”偲ばせる配給風景/敵首都に皮肉な明朗」と題して、守山特派員の十九日発電を、ミルク缶配給の風景写真と共に掲載している。
その翌日の二十二日、またも半ページをつぶして「きのふの敵に温情/南京城内の親善風景」と題して、写真特集を行っている(二十日、河村特派員撮影)。ここには日本の軍医や看護兵に治療を受けている支那兵の姿や、「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」と題して二人の日本兵がザルに入れた白飯を配給している写真等が大写しにされている。
さらに二十五日にも「南京は微笑む、城内点描」と題して、またも半ページを埋めた写真特集をやっている(林特派員、二十三日撮影)。ここでは日本の兵隊さんと遊ぶ子供達の明るい顔や遊戯の模様を多面的にとらえている。林特派員は「支那人の子供の無心に遊ぶ様を眺めて、兵隊さんは国に待つわがいとし子を偲んでいるのだ。“新聞記者どの、今度手紙をたのみます”と思い出したように国への便りを願うのである。」とコメントしている。教会の庭でオルガンに合わせて賛美歌を歌っている百名近い女性徒の写真もある。朝日はさらに、「手を握り合って越年/日に深む南京の日支親善」と題して五回目の写真特集を組んでいる。
なぜ私がこのようにくどくどしく「朝日新聞」を引用しつつ、日本軍の南京占領後の市街の状況を説明するかというと、東京裁判における中国側の証言や本多勝一氏によると、日本軍による婦女・子供をふくむ三十数万の虐殺が行われた」とか、あるいは組織的、集団的な放火、掠奪、暴行等の不法行為が占領直後から二月初めまで連日のように続いたといわれているが、もしそれが「事実」ならこの五回にわたる写真特集の画面に映された「事実」を、本多氏や「朝日」の編集スタッフは読者にどう説明するのか、私はそれを聞きたいのだ。本多氏にしても、今の「朝日」の編集スタッフにしても、四十数年前、戦場で命がけで取材し、国民に報道した諸君らの先輩のこれらの写真はみなやらせ写真だというのか?軍に迎合するためのデタラメのインチキ写真であり、ウソの記事であるというのか?いかに戦いに敗れたとはいえ、たなごころを返すように、昨日までの先輩の写真や記事はすべてウソでした、インチキでした、デタラメでしたといって、わざわざ日本軍の旧戦場に出向き、敵側の当時七つ八つの子供だった人々に、まるで魚屋か八百屋の御用聞きのよう
に、その被害状況をお伺いして、それをそのまま記事や写真にし、これこそが南京事件の真相だと発表する――こんな態度が許されていいものかどうか、読者に対する「報道の責任」というものを、いったい「朝日」はどう考えているのか問いたい。
注@マンチェスター・ガーディアンのテンパーレー記者の著書は、同記者が南京の友人から寄せられた文書を基礎に一九三八年三月上梓した本で、英・中・日の三ヶ国語に翻訳され有名となったが、実はこの著は、国民政府が対外宣伝のために出版したもので、例の郭沫若が序文を書き、蒋政権下で反日宣伝を担当していた青木和夫、鹿地亘の両氏が翻訳・発刊に尽力している。
「朝日新聞」六月二十三日付夕刊の社会面に、見出し五段ヌキで、「南京大虐殺目撃の中山老/『語り部』記録映画に/中国での講演など収録」――という記事が私の目をひいた。そこにはアゴ髭に眼鏡の七十二歳の中山重夫氏の顔写真もあり、トップ記事ではないが、見出し地紋入りの派手な扱いである。記事内容は次の通り。
「一兵士として目撃した南京大虐殺を語り続けている東京都江戸川区平井の中山重夫さん(72)の記録映画が近く完成する。この五月、中国の黒竜江大学で講演した模様を中心に、日本での活動などを三十分、16ミリカラー作品にまとめた。戦争の実相を証言する全国反戦行脚を始めてすでに百五十ヶ所。『死ぬまで語り続ける』という“戦争の語り部”にふさわしく、題名は『中山老の証言』と決まった」ここまでが導入部門で、本文は、「昭和十二年十二月。南京が陥落した時、中山さんは陸軍戦車隊の上等兵として、その状況をつぶさに見た。『私は整備兵だった。戦車を修理しながら進む道すがら、累々と重なる死体の中にとても戦闘員になれそうもない女性や老人が多く交じっているのを見て不思議に思った』忘れられないのは南京入城の二日前、郊外の雨花台で見た光景。白旗を掲げてくる中国人を壕(ごう)の上に座らせては、日本兵が次々と銃剣で刺し殺していく。一突きでは死にきれず、苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、見境なしに殺戮が続いた。『四時間余りも凝視していたでしょうか。それまでは国のため、天皇のためには仕方がないと考え
ていたのが、その日からはああ戦争はいやだ、と思うようになった』
戦後一貫してこの体験を語り続けてきた。五十七年夏には静岡市の中学教諭森正孝さん製作の8ミリ映画『侵略』と出合った。南京大虐殺や三光作戦を扱ったこの作品に『私が言葉で語ってきたことを映像で証明してくれた』と感動。自費で買い求めてこれを携え講演して回った。(中略)“戦争の語り部”としての活動が、中国の光明日報に紹介された。本年三月には中国のテレビ局、黒竜江省電視台訪日団が中山さん宅を訪問。これが縁となって五月十一日から二十四日まで二週間の訪中が実現した。
映画『中山老の証言』は、十九日黒竜江大学の日本語専攻学生約百二十人に対する講演を中心に、ハルピン周辺の石井七三一部隊跡や東北歴史記念館を訪ねる中山さんを紹介。日本での活動をスチール写真で挿入していく。製作の日中映像企画によると、現在編集の仕上げ段階で、六月中には完成させたい、としている。
× × ×
映画についての問い合わせは、東京都中央区新川1ノ22ノ12、ニッテイビル902日中映像企画(電03−552−2468)へ」
中山氏のことは、かつて「毎日」にも載ったことがあり、私は返信付きで、ぜひお目にかかりたいが、ご都合よろしき日時・場所をご指定下さいという手紙を出した。
返事はナシのツブテであった。今度の「朝日」の記事に対し、私の友人Yは、日中映像企画に電話して、中山さんと直接お話ししたいがどうしたらいいかを聞いた。
長谷川と名乗る男性社員が、いろいろ脅迫を受けているので、直接話はできない、要件の向きは取り次ぎましょう、ということであった。
そこでYは、長谷川氏気付で、「侵略」という映画を見せて頂いたり、講演もお聞きしたい、そのためには、どのような手続きをしたらいいかと手紙した。
その返事も来ない。
そこでまた、せめて中山さんの所属部隊を教えて欲しいと再々電話した。すると「所属部隊は忘れた」という返事が帰ってきた。
当時、同じ戦車隊の上等兵で、南京攻略戦を戦ったKという東京に住む建設会社の社長さんがいて、この方が中山さんと面接した。この社長さんのおかげで次のようなことがわかった。
中山重夫氏は大正二年一月二十五日、福岡県三井郡草野町大字吉木で生まれ、昭和十二年七月応召、現住所は江戸川区平井○○○の都営住宅○○○○○○、一人暮らしで、生活・医療保護を受けているという。
南京戦での所属部隊名は戦車第一連隊(岩仲戦車隊)で、階級は上等兵、段列兵である。段列とは、戦車隊の弾薬・糧秣等の運搬および修理等に任ずる後方任務の部隊のことである。
かねて南京事件を調査・研究している広島市矢野町在住の畝本正巳氏(当時独立軽装甲車第二中隊小隊長)に岩仲戦車隊について調べてもらった。その結果岩仲戦車隊は、雨花台の戦闘には参加しておらず、麒麟門から中山門に向かい南京街道を進撃していることがわかった。雨花台は起伏多く、谷あり河ありで地形複雑のため戦車隊は突入できず、そこで日本軍は軽装甲車をかり集め、品川大尉がこれを指揮して戦っている。岩仲戦車隊とは全然無縁である。こんな場所に岩仲戦車隊の段列がいるはずがない。
入城二日前といえば十二月十一日のことである。十日、十一日の両日はことに敵の反攻ものすごく、トーチカと鉄条網と地雷で固めたこの要塞に立ち向かった宇都宮の第百十一師団と熊本の第十六師団の一部は、多くの犠牲者を強いられた。戦史によると南京城外におけるわが軍の損害は戦死二百六、負傷六百八十二、戦傷死六、敵の遺棄死体約五千とある。その大部分はこの雨花台での死闘である。段列の兵隊が四時間にもわたって、捕虜を一人一人突き刺すさまをじっと「凝視」するといった環境ではないのである。そこで私はペンをとって次のように疑問符を投げかけた。六月二十六日のことである。
《入城二日前は雨花台大激戦。
本紙六月二十三日付夕刊に「南京大虐殺目撃の中山老/『語り部』記録映画に」と五段ヌキで東京都江戸川区の中山重夫氏の談話が掲載されました。それによると中山さんは南京「入城の二日前」郊外の雨花台で、白旗を掲げて来る中国人を虐殺している場面を四時間にわたって「凝視していた」と証言しています。私は疑問に思って早速関係者にあたって調べてみました。
@中山さんの所属した第一戦車隊(岩仲戦車隊)は雨花台には突入していません。Aまして山中さんは岩仲部隊の段列(輸送隊で後方勤務)ですから雨花台には行っていないはずです。B「南京入城二日前」といえば十二月十一日のことと思いますが、雨花台の戦闘は、九日から十二日にかけて大激戦が展開し、日本軍も悪戦苦闘の末多くの犠牲者を出しています。とても白旗を掲げての大量降伏とか、四時間余にもわたる殺害場面など想像すらできない激戦の修羅場であったというのが、ここで戦った歩兵第四十七連隊将兵の証言であり、戦史にもそう記録されています。中山さんは何か勘違いされているのではないでしょうか、一度お目にかかりたく以前お手紙しましたが、ご返事は頂けないままでした。大新聞である「朝日」ともあろうものがこのような記事をたしかめて頂きたく、それが報道の責任かと存じます。もし私の調査が誤りでしたらご教示下さい》
これに対して「朝日新聞」は、私の投書を無視したばかりでなく、私の調査に対する回答もなかった。
「朝日新聞」は七月二十八日、「南京大虐殺克明に/従軍兵士の手帳発見/京都の戦争展」と題して大きく報道した。その手帳にはこう書いてあるという。
「十二月十四日晴天 はい残兵が(略)或大きな一家に千名ほどの難民と一緒になっていたので(略)約はい残兵らしきもの五百名ばかりより出した(略)一ヶ小隊をもってはとても殺す事ができないので、第一機関銃(中隊)機関銃二門をたのみ、なお中隊の機関銃六銃で、小銃兵全部集まり、遠くの城へき山きわに、はい残兵全部を集めて、軽機、重機の一声射撃により全部撃ち殺した、見るもあわれな光景だった」(原文のまま)
「朝日」はこの記事を鬼の首でも取ったかのようによろこび「“大虐殺”をうかがわせる箇所が随所にある」とし、例えば「○連隊の敗残兵の掃討で、城外に四千人ばかり集めていた」(同月十六日)と記してあると言い、大阪市大の広川禎秀助教授の「軍が組織的に虐殺を行った事実が、当事者自身のメモとして見つかった意義は大きい」という談話までのせている。ちなみに、この手帳は、どうしたものか、京都の戦争展に展示されることなく、「朝日」「毎日」「赤旗」の三社が報道したのみで、姿を消し以後非公開を宣言、“まぼろしの手帳”となっている。
本多勝一氏はこの記事をうけて、七月三十日「朝日新聞」夕刊の「ルポ’84」に約四分の一の紙面を塗りつぶす署名入りの記事を書いた。凸版白ヌキ横見出しで、「南京大虐殺・教科書裁判に一石」さらにタテに凸版で「一兵卒の陣中日誌と伍長徳証言」とし、中央に「敗残兵残らず射殺〈陣中日誌〉/〈伍証言〉掃射→クシ刺し→焼く」といったどぎつい大見出しである。
本多氏によると、今度発見された京都の一兵士の日誌と自分が南京で聞き取りした伍長徳証言とは符節があっており、この二証言は目下東京地裁に提訴している家永三郎氏の主張する「南京に大虐殺があった」とする動かぬ証拠だというのである。
本多氏が聞いた伍長徳氏の話というのは、次の通りである。十二月十五日の八時ころ、伍氏のいた難民区内の司法院に日本兵数十名が突然入ってきて青壮年男子を外へ追い立てた。他の建物からも追い立てられた青壮年と合わせておよそ二千人余りの一団が歩き出したのは午前十一時ころ。途中「首都映画館」前にすわらされ、数台のトラックが来て、憲兵が包囲陣に加わった。午後一時ころ漢中門に着いた。二千余名は門の内側ですわらせられた。二十分ほどのち、二人の日本兵がナワの両端をもち、百余人をナワで小グループに分けた。そのグループのまわりを武装兵が囲んで門の外に出た。二十分ほどすると門の外から機関銃の轟音が起こった。それまで不安だった群衆は、これで決定的に虐殺とさとった。
このようにして一グループずつがナワで分けられては門外に連れ出されて虐殺された。伍さんの組の番になったのは午後五時ころだった。四台の機関銃が二台ずつ分かれて並び、その間から伍さんらは土手の斜面に追いおろされた。眼前に死体が層をなしているのを見た瞬間、伍さんは前につんのめるように倒れた。と同時に一斉射撃となり、死体が折り重なってきた。「お母ちゃん!」と親を呼ぶ悲鳴がきこえた。
機銃のあと小銃の狙い撃ちの音がした。それがやんだあと、人体の層の上を歩く気配がする、といきなり背中に激痛を覚えた。生存者をさがして銃剣で刺していた兵隊が、上に倒れている人体を貫いて伍さんをクシ刺しにしたのだ。じっと我慢していると、今度は木材などを死体の上に投げ、それにガソリンをかけて火をつけた。伍さんは火のついた着物を脱ぎ捨て、死体の間をはいながら川へとびこんだ。泳ぎの得意だった伍さんは、川岸に着くと二百五十メートルくらいはって進んだところで小舟をみつけ、中にあったボロ服を着た。さらにはって川沿いに南下し、水西門の一軒の焼け残りの空き家にころがりこんだ。
これが伍長徳氏の物語である。本多氏はこの物語をながながと情景描写を加えながら綴ったあと、伍氏の語る型にはまったおきまり「私は幸福です」という毛沢東語録での長文をしめくくっている。
この物語には幾つかの疑問点がある。 その一は、十二年十五日には、日本軍は司法院の検索はしていないということが、国際委員会の第七号文書に記載されている。従って伍氏の逮捕、連行はウソである。
その二は、司法院を出て、中央ロータリーを左へ回る中山路・漢中路は東京で言えば銀座通り、日本橋通りに匹敵する。午前十一時から午後一時まで、二千余人が武装した日本軍に連行されて行くのを、新聞記者も将兵も、誰一人見たという者がいない。国際委員会の者もこの大事件を知っていない。
その三は、重機関銃射撃音は通常4キロから6キロまで鳴り響く。当時漢中門から約1.5キロ東南方の実輝巷には第四十五連隊(鹿児島)本部があり、南方1.5キロの水西門には四十五連隊の一部が、約2キロ東方の甘露寺には独立山砲第二連隊の一部が、そのさらに一キロ先の江東門には第四十五連隊第三大隊が駐屯している。これらの諸部隊のうち四時間にもわたる重機四台の射撃音を聞いたという将兵は一人もいない。
その四は、漢中路の左側一帯は難民区で、国際安全委員会の事務所のある海寧路や難民がいっぱいいる金陵女子学院や金陵神学校はいずれも1.5キロから2キロの距離である。重機発射音四時間に及ぶとなれば、二十万の難民は黙っていないはずだ。しかし国際委員会の記録にはこのことは全く記述されていない。
その五は、紅卍字会の埋葬簿にも、崇善堂の埋葬簿にも、漢中門外の二千余の死体を埋葬したという記載はない。要するに伍長徳氏の一人の物語であって、これを裏づける傍証は何もないのである。こんな物語がまかり通っていいものかどうか?そこで私は「朝日新聞」に次のような反論を投稿した。八月七日のことである。
《「南京大虐殺」の欺瞞。
本紙七月三十日付夕刊に本多勝一編集委員の「南京虐殺・教科書裁判に一石/敗残兵残らず掃射/〈陣中日誌〉/〈伍証言〉掃射→クシ刺し→焼く」というショッキングな記事に対して一言したい。
このルポは、南京攻略戦に従軍した京都出身の一兵士の手帳(陣中日誌)が発見され「朝日」「毎日」とも『「南京大虐殺」克明に』と題してその内容の一部を発表したが、本多氏はこれを受けて、東京裁判で証言台に立った伍長徳氏の聞き取りと符節が一致すると称し、「四千人より少ないらしいが、ともかく千のケタの虐殺」があったとして、その目にあまる残虐振りを生々しく披瀝した記事である。ところがこの記事には巧妙なカラクリというか、トリックと欺瞞がある。
その一は、一兵士の日誌は十二月十四日、敗残兵らしきもの五百名の難民の中からより出して銃殺したとある。本多氏はこれを頭ごし虐殺と決めつけて、鬼の首でも取ったように「直接当事者による当日の記録だ」といって小躍りしているが、十四日は南京陥落の翌日、掃討戦の最中で、各所で市街戦が行われていた。武器を隠匿して、難民の中にまぎれ込み、便衣でひそんでいるいわゆる“便衣隊”なるものは、戦時国際法の違反であり、捕虜とちがってその場で処刑されても文句は言えないことになっている。
その二は、伍長徳氏が十二月十五日司法院で便衣隊と一緒に捕らえられ、約二千人と共に引き立てられて、漢中門外で射殺されるところを免れられたという記述であるが、これはウソである。十五人の米英独等第三国人よりなる「南京安全区国際委員会」が南京の日本大使館にあてた十二月十八日付第七号文書によると、十二月十四日、日本軍将校が司法院に来て難民と便衣隊とをえり分けて元中国兵を逮捕・連行したが、「十五日にはえり分けに一人の将校も来なかった」と明記し、「翌十六日になってこの難民グループ(先に取り調べを受けなかった半数を含めて)から数人の中国兵を発見」して連行したと書いている。(洞富雄訳・H・Jテンパーレー編『戦争とは何か―――中国における日本軍の暴虐』百三十二貢)すると伍長徳氏の十五日司法院から約二千名と共に連行されたというのは、虚偽の証言ということになる。
その三は、兵士の陣中日誌の十二月十六日には「○連隊のはい残兵のそうとうで、城外に四千人ばかり集めていた」とある。これを本多氏は「同師団の別の連隊が四千人を駆り出したのを目撃、これも虐殺されたらしい」と勝手に憶測し、小見出しに「四千人駆り出し虐殺か」と記述して、前記伍長徳氏の「掃射→クシ刺し→焼く」という、女子供を含めての残忍極まる虐殺風景へと文章をつないでいるのである。つまり「四千人ばかり集めていた」が「四千人を虐殺した」に話がスリかえられているのである。何とも悪らつな曲筆である。 本多氏がこれほどまでして日本軍の罪科告発にやっきとなるのは何なのか。私には解らない》
この投稿もまた、日の目を見ることなく、黙殺されてしまった。
本多氏は言論統制下にある共産国中国へ出かけて行き、草の根を分けるようにしてカギまわり、そこで語られる反日反軍の怨恨の数々をそのまま記述して発表するという奇妙な性癖のレポーターである。それが真実か否かを疑うことを知らない。批判もしない、まして日本側の証言や資料と照合することもしない。自分が聞いた中国側の言い分は百パーセント正しいモノとし、これが「南京大虐殺」の真相だと示す態度である。「万人抗」や「死体橋」の物語もそのデンである。(三月三十日付「朝日新聞」)。
本多氏の説明によると、昨年の十二月十三日、南京市は南京大虐殺(中国語で「南京大屠殺」)四十六周年を期して記念碑の定礎式を行った。その場所は南京城水西門の西郊外江東村の大通りに面した一角で、今なお大量の人骨が層をなして埋まっているところ。その記念に建てられた石碑の写真と、「最近試掘された南京事件犠牲者の万人抗の一部」として白骨堆積の写真が大きく掲載されている。本多氏によると、この万人抗は近いうちに正式に発掘されて、一般に参観できるよう記念館として整えられる予定とのことである。試掘されたこの白骨の堆積が、日本軍の虐殺によるものであるなどと宣伝されることは甚だ迷惑であり、事実とも相違する。日中友好の将来のためにも、このことをはっきりさせたいと主張する人がいる。第六師団通信班小隊長の鵜飼敏定少尉(当時。東京都杉並区在住)は南京攻略の十二月十二日からこの地区の戦闘に参加し、十二月二十一日太平府に移動するまで江東門付近に駐屯しており、併せて歩兵第四十五連隊戦史の編纂者でもある。鵜飼氏によると、四十五連隊第二大隊は十二月十二日夜九時、江東門を占領した。第二大隊長成友少佐の回想記によると、敵兵すでに
退散し、街に人影見ず、電線が石畳の道に垂れ下がって、不気味な静寂が街を包んでいたという。第二大隊は江東門に宿営し、翌十三日早朝、濃霧をついて出発、三叉河において敵と遭遇し激戦する。この第二大隊出発のあと、第三大隊が上河鎮から江東門に入ってきた。するといったん遁走したと思った敵が侵入してきてたちまち市街戦となった。この戦闘でわが方は、日高中隊長重傷、岩間小隊長戦死、ほかに下士官兵十名が戦死した。敵も遺棄死体約百を残して退却した。白骨の堆積はこの戦死者の遺骨であり、女・子供は一人もいない。すべて戦闘員である。なお江東門西方の新河鎮では、大薗大尉を長とする歩兵第十一中隊と高橋義彦中尉の指揮する山砲および工兵、騎兵各一小隊二百五十は、十三日払暁、城内から敗走してきた敵約一万五千と遭遇、朝五時から四時間にわたる大激戦を展開、この戦場で敵は二千三百の死体を遺棄して逃走している(わが方の死傷者三十六名)。
このあたりを掘れば、白骨はまだまだいくらでも出て来よう。しかしこれらはすべて戦死者の遺骨であって、断じて屠殺(虐殺)死体にあらざることを銘記すべきである。
次に本多氏は「死体橋」について説明する。
「石碑の近くにある幅4、5メートルの運河の橋は、日本軍の南京占領直後に国民党軍(蒋介石軍)が爆破したが、占領後このあとが大量の虐殺死体で埋められて“死体橋”となり、その上を日本のトラックが往来していたという。
当時の目撃者の一人・孫殿炎(59)よると、その“死体橋”のたもとに孫さんの家はあった。ほんの十メートルほど離れた道路ぎわだったので、日本軍がしばしば通過して危険を感じ、二百メートル離れた空き家に引っ越した。“死体橋”は断面が台形上に積まれた死体の上に、破壊された家の扉や板・草・土などが敷かれていたが、かなりでこぼこがあり、多少ぶよぶよと動く感じだった。まだ少年の孫さんは、殺された上にトラックの橋にされてしまった大量の人を見て、恐ろしさと同情で言葉も出なかったという」
いかにももっともらしい作り話である。
前出の鵜飼敏定氏も、新河鎮で戦った高橋義彦中尉(当時。久留米市在住)らは口を揃えて言う。
「あの橋(江東橋)は爆破されてなどいませんヨ。われわれはしょっちゅうあの橋を通っていました。若干修理はしたがネ。だいいち運河の幅は四、五十メートルなんてない。せいぜい二、三十メートルだ。われわれの部隊にはトラックはなかった。トラックは兵站で、十四日以降の上海――南京間の補給は揚子江の船舶輸送に依存した。われわれの輜重は馬の背だ。江東門にトラックは一台も通っていない」と言い切るのである。
いったい“死体橋”などというものが物理的にあり得るだろうか、常識でもわかるはずだ。幅四、五十メートルのドロ深い運河に、人間の死体を積み重ねて橋ができると、本多氏は本気でそう思っているのだろうか?死体は水に浮き沈まない。とくに当時の中国兵は、冬期は綿入れの軍服で着ぶくれていた。死体は冬でも一、二週間水につけるとガスが体内にたまり、土左衛門となって水に浮いてくる。作り話もここまでくると茶番である。
本多氏は、ちょっと常識をはたらかすならわかるようなウソやでたらめでも、それが中国側の言い分なら阿呆みたいに一切の合理性や科学的判断もすてて、もっともらしくメンメンとこれをそのまま綴り、いかにもそれが真実であるかのごとく表現する。
中国は『三国志』の遠い昔から、宣伝謀略が得意である。修飾も粉飾も誇張も天性秀れた民族と言っても良い。その言い分をそのまま忠実に取り次ぐ日本の本多勝一というレポーターは、中国にとって貴重な存在と言わねばなるまい。
(なお南京事件の詳細については拙著「南京事件の総括 虐殺否定の十五の論拠」=謙光社発行=を参照されたい)
田中正明著『南京事件の総括 虐殺否定15の論拠』謙光社あとがきより
昭和60年11月24、5の2日間にわたって、朝日新聞は私の編著した『松井石根大将の陣中日誌』〈芙蓉書房刊行〉について、「『南京虐殺』史料に改ざん/900ヶ所原文とズレ」と題して、翌日はまた「『南京虐殺』ひたすら隠す/田中氏の松井大将の日誌改ざん」と題して、両日とも九段、白ヌキ見出しという派手な扱いで大々的に取り上げて私を誹謗しました。
前日拙宅に「朝日」の記者が来訪し、コメントを求めたが、私は「改ざんの覚えはない、どこがどうズレているのか、調べるまで発表を待って欲しい」と言いましたが、しかしその翌日前述の記事となり、しかも私が言いもしない「申し訳ない」という詫びごとまでねつ造して、いかにも私が意図的な改ざんを認めたかのような記事になっており、有無も言わせぬ切り捨て御免の弾劾記事となった次第。反論も、弁解も許されない、一方的な断罪です。私は「朝日」にさっそく釈明の一文を投稿しましたが、もちろん一顧だにされず没書となりました。
「朝日」は本著でも紹介しているように、終始一貫して南京に虐殺があったとしてキャンペーンを張っている新聞であります。私の抗議や反論など取り上げようはずがありません。
数百万部を発行する大新聞が、二日間にわたって私を非難し、その弁明の余地さえ与えられないということは、いったい私の人権はどういうことになるのか?新聞は第四の権力と言われていますが、ひとたびマスコミのターゲットにされた者からすると、これほど無残な、反論も反駁もできない、ほどこす術もない一方的な暴力はありません。世の中には、マスコミの暴力の一撃をくらって、反論も弁解も許されず、いかに多くの人権が踏みにじられたまま泣き寝入りさせられているケースが多いことか、今更ながら思わずにはいられませんでした。自殺した高校の先生、取りつぶされた病院、名誉毀損や人権回復のため、多くの訴訟事件がマスコミ相手に起きていますが、しかし、これらはほんの氷山の一角にすぎないのではないでしょうか。
○
私が改ざんしたと称される『松井大将の陣中日誌』と私の記述とのズレは、板倉由明氏が中公出版の「歴史と人物」(60年冬期号)でくわしく指摘しているが、氏の推定箇所以外はほぼまちがいありません。専門家が二ヶ月かけて、松井大将の日記と私の文章を対比したと言いますが、それをごらん頂いてもおわかりの通り、「南京事件」を隠すために、意図的に改ざんしたものでは毛頭ありません。だいいち大将の日誌には、南京に“虐殺”事件があった、なかった、などということとはまったく無関係なのです。
隠さなければならぬことは何もないのです。そのほとんどは、私の筆耕の誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります。それを「『南京虐殺』ひたすら隠す」といかにも私が実在した“虐殺事件”を秘匿したかのごとく誹謗したのです。
なにぶんにも兵馬こうそうの間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で読みとることのできない不明の箇所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もありました。
このほかに、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・・等々数えあげれば際限ありませんが、これらの漢文調の文字を、現代の読者に読みやすくする配慮から、かなまじり文になおし、あるいは新かなづかいにそって、おくりがなを付したり、句読点を付すなど、語句の扱いに配慮を欠いた点は認めますが、原文を勝手に書き直して、虐殺事件を隠したとか、大将の不利を補ったとかいったようなことは毛頭もありません。その他きめ細かく〈注〉を付して、日記以外に大将が弁護人に与えたメモの挿入(二ヶ所)を日記本文と峻別しなかった等、づさんな点のあったことは認めます。
ここではっきり申し上げたいことは、私は大将の日記を著述した目的は、第一級資料である軍司令官の日記を通して、この戦闘期間中の松井大将の行為・心境・真意をひろく江湖に伝えることでありますが、字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得たと言うことであります。朝日新聞をはじめ洞富雄氏ら虐殺派の人々は、ニセ写真やウソの記述までならびたてて、ありもせぬ20万、30万の“大虐殺”がさもあったかのごとく宣伝し著述しています。
これこそ歴史の改ざんでなくてなんでしょうか。
私が松井大将の日記を改ざんしたと称して朝日新聞で叩いた本多勝一氏が、今度は板倉由明氏から、本多氏よ汝こそ南京事件の「改ざんの常習者」ではないかと叩かれているのはその一例と申せましょう。(月刊評論八三四号)
○
朝日新聞社は私を2日間にわたって誹謗したのち、大虐殺派のリーダー格の洞富雄氏の『南京大虐殺の証明』を出版しました。この本は私をはじめ虐殺否定論者七名(板倉由明、畝本正巳、渡辺昇一、山本七平、畠中秀夫、阿羅健一)の名をあげ、その所論を反駁し、批判したもので、とくにこの本の70〜80パーセントは拙著に対する批判であります。20万、30万の大虐殺があったとする洞氏のこの著書と前後して、一橋大の藤原彰氏が岩波ブックレットから『南京大虐殺』を出版し、その弟子の吉田裕氏が『天皇の軍隊と南京事件』を青木書店から出版しました。いうまでもなくこの二著も洞氏同様、中国の政治宣伝通り、南京に大虐殺があったことを一生懸命に書き連ねている本であります。さらに続いて拓大の秦郁彦氏が中央公論社から『南京事件=「虐殺」の構造』という本を出しました。秦氏は中間派と自称し、虐殺数を四万と推測していますが、洞氏同様、東京裁判史観を展開して、松井大将に対するいわれなき誹謗と日本軍の残忍性をひたすら綴っています。
私は本著で、以上四氏に対する批判や反論を随所に加えつつ、また先年出版された中国初の公的発表と称する南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』の白髪三千丈式の大デタラメの被害者の証言も徹底的に批判し、各部隊の戦闘詳報や、当時の一級資料をふまえて、しかも新しく発掘した資料や証言を駆使して、南京事件の真相に迫ったつもりであります。
私はさきに日本教文社から『“南京虐殺”の虚構』を上梓しました。この著は国内で多くの反響を呼んだばかりでなく、中国では「南京大屠殺記念館」建設にあたって、この本がよほど目ざわりとみえて「人だましの本」だと悪宣伝につとめ、ソ連の赤い電波も、著者の私を名指しで非難しました。つまりそれだけ海外でも反響が大きかった訳です。本著は若干前著とダブル点もありますが、文字通り「総括」の名にふさわしく、虐殺の定義からはじまって、東京裁判や教科書との関係、本件と虐殺論、否定論を網羅し、欧米のマスコミや米・英・仏政府にこの事件に対する反響や対応にまで手を伸ばし、「南京事件50年の節目」を期して、その全貌と真相に迫った決定版のつもりであります。
いずれにせよ、巷間伝えられるがごとき南京に20万、30万もの大虐殺があったとする俗論は、歴史の真実をゆがめる歴史の改ざんであり、虚妄であります。ことにこの虚妄を教科書にまで記述し、次代を担う小国民にかかる自虐的な、祖国呪詛のいつわりの教育を施しつつあるということは、許し難い父祖の歴史への冒涜であり、民族の恥辱であり、国をあやまることこれ以上はなはだしきはありません。私は今後ともこの歴史的虚構――日本罪悪史観――一掃のため、不退転の決意でいっそうの努力を重ねて参りたいと思っています。
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ホームページ上で、「これが南京大虐殺だ」なんて風に発表している様なのがありますけど、実際には南京大虐殺の証拠写真は1枚もありません。
どこから、持ってきたのか解らないけど、厳寒の南京に半袖の夏の戦闘服を着た日本兵が死体の側に立っている変な写真とか、ソ連兵を日本兵だと解説してたり、文化大革命犠牲者の大量の骨の写真や当時の中国やアメリカの抗日、反日映画の1シーンをウソの解説をつけて最もらしくさせているだけです。
写真雑誌等見て育った世代には単純なヤラセ写真と言うのは簡単に見抜けるもんです。
南京大虐殺を宣伝している年齢は大体40代中頃〜60代の人らしく、当然従軍経験、軍事知識は皆無。
だから簡単なヤラセ写真にひっかかる、というか意図的なんですけどね。
真実は100年立っても200年経っても変える事は不可能です。今の祖父達をどうにかして悪者にしたてたいという気持ちは全く理解不能だけど、そういう親を見て育った子供達は決してそういう親を尊敬しません。
いつか必ず、しっぺ返しをくらうのはずです10年後、今の自分たちがどう評価されるのか見ておくことです。
馬賊(匪賊)の写真
馬賊(匪賊)とは中国で清の末ごろの満州にはびこって、馬に乗って荒らし回った集団的な盗賊で、大正から昭和初期にかけて、中国の北部は群雄割拠する馬賊の時代だった。
関東軍に爆殺された張作霖のように大小馬賊群ににらみを利かし、自ら大元帥と名乗った権力者もいた。当時には女馬賊もいた。
当時の支那(中国)では農民は作物が不作の時には馬賊に変身して近隣の村々を襲ったりもしていた事もあったそうです。それら馬賊は近隣の街を夜な夜な襲って金品を強奪し、殺人などを行っていた。(当時の中国の町は安全のため城壁で囲んでいたのはここに理由がある。) 満州鉄道も度々襲われていた。
だが、彼らは捕まるとほとんど現地の警察などによって処刑され斬首されたりしたり(写真1-4)見せしめのため首を切りさらし首にしていた(写真1-3)。ここが日本人とは文化が違う事を表すポイントである。(注:日本では斬首、さらし首は江戸時代に廃止している。
ましてや昭和初期にこの様な野蛮な行為は一切行ってはいない)「南京」の市民なんて根拠のないウソである。少なくとも「虐殺派」は中国の文化について全く知識がないようだ。以下は全てその写真である。
写真1-1 | 写真1-2 |
写真1-3 | 写真1-4 |
上段2枚の写真は馬賊へのみせしめ(写真1-1)もしくは、当時の馬賊の斬首した首を集めて撮影した(写真1-2)だけの何ら南京とは関係のない写真だが(写真1-2)実はこの写真には被写体は一緒だが背景が映っている別写真が存在しており、後ろに城壁の一部らしきものが見え、その城壁は明らかに南京とは違う。つまりウソ写真である。
下段左の写真1-3は、昭和59年8月4日の朝日新聞に「日記と写真もあった=南京大虐殺」と題し宮崎の元兵士が日記と共に見つかったと掲載した(これについては別ページを参照して下さい。)。しかしこれは佐藤進氏(神奈川県藤沢市在住)が昭和6年10月、朝鮮と中国の国境に位置する会寧にて文房具品兼写真屋にてみやげとして、約10枚買った写真の中に入っており「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」との文字が刷り込まれていた。
鉄嶺は満州である。朝日はニセモノであることを認め謝罪した。その後「朝日」は日記を公開したが、古くて破れやすいからとの理由で十数メートル下がらせて見させた。
だが、見学者の話では日記には当時戦場には携行されているはずも無かった万年筆で書かれていた(大体の兵士は鉛筆書きがほとんどである)。
南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)
よくぞまぁ、と言いたくなるくらいに「虐殺が有った。としたい派」は戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表することだろうか。
南京戦については別ページにて述べた通りだが、戦闘状況においての戦死体がどうして、ああいうキャプションになるのかおうかがいしたいほどである。
以下の写真は戦闘後の支那(国民党)兵の死体であり、日本軍側にも多大なる戦死者、負傷兵がおり単なる戦闘下での戦死者にすぎない。これは全て支那(国民党)軍と日本軍による正規戦における死体であり、何ら大虐殺とは関係がない。
ちなみに写真が裁判でも証拠として採用される際には「誰が?どこで?いつ?撮影したのか?」という条件は最低問題である。これが満たせない場合は証拠とはならない。常識でしょ。でも写真からそれらが推測される場合は別ですが。
写真2-1 | 写真2-2 | 写真2-3 |
写真2-4 |
とまあ、こういった写真を4つほど例に説明しましょう。
まず、これらは、全て中国軍兵士らの単なる戦死体です。
撮影者も解っており、写真2-1、2-2、2-4の写真撮影者は村瀬守保氏(埼玉県川越市在住)であり。
これらの写真は「毎日新聞」が「南京事件」の犠牲者のごとく報道したが実際は只の南京戦での戦死者であったことが第45連隊、高橋義彦元中尉その他の人達の証言で解っている。
ちなみにこれら死体には全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる。
大体、「虐殺があった」等と発言した元兵士達は行動を同じくした隊の者に訴えられたりウソを見破られたりしているのです。
写真2-1、2-2、2-4は新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)。
ちなみに写真2-3は単に南京城外・内での戦死者の死体を集めた場所で撮影。
はっきり言って、「南京大虐殺」とは何ら関係ない。(もっと、詳しく知りたい人は「南京事件の総括」 謙光社 田中正明著を見て下さい。)