オーストラリア
Australia)またはオーストラリア連邦
オセアニアの国で英連邦の一国である。
南東にはニュージーランド、北には、インドネシア、パプアニューギニア、東ティモールがある。
世界で6番目に面積の大きい国である。英連邦王国の一国。
1606年にオーストラリア大陸に最初に到来した白人はオランダ人のWillem Janzであった。だが、赤道付近の熱帯の北部地域に上陸し、その周辺のみしか探索しなかった為、植民地には向かないと判断しオランダ人は入植しなかった。1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言、入植が始まる。東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流刑植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団1030人の内、736人が囚人でその他は殆どが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でもオーストラリアに流刑されたという。
1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進む。内陸を探検し、農牧地を開拓する。その段階で先住民のアボリジニから土地を取り上げて放逐し、反抗者は(時には反抗しない者も)殺害した。奴隷的な条件で労働させられたアボリジニもいる。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた。19世紀の初めにはスペイン産メリノー種羊を改良し、以後、羊毛産業が発展する。なお、羊が重宝されたのは羊毛に関してだけでなく、まだ冷凍船がなかった頃、肉類の中で羊肉が1番長持ちした為である。1850年代にゴールドラッシュが発生すると中国系の金鉱移民に対する排斥運動が起こり、後の白豪主義に繋がって、やがて白豪主義は国是となる。
1901年にイギリスから事実上の独立をするが、独立後もイギリス国王への忠誠からイギリスの戦争には度々参加、第一次世界大戦ではオーストラリア & ニュージーランド軍団 (ANZAC) として英仏軍と共にガリポリの戦いに参加し、オスマン帝国軍との激戦を経験した。ANZAC軍のガリポリ上陸記念日である4月25日はANZACの日として国民の祝日となっている。第二次世界大戦では日本軍の爆撃や特殊潜航艇によるシドニー港攻撃を受け、ニューギニアやボルネオで日本軍と戦い、日本占領にも参加した。戦後、ヨーロッパからの白人移民は減り続け、国力となる人口増加は鈍った。そこで1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れ、「多文化主義」へと移行した。ベトナム戦争にも積極的に参加し、アメリカと共に戦い、その後ベトナム難民を数多く受け入れた。1975年、ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立した。2003年のイラク戦争にも参加した。
距離は離れているものの、同じアングロサクソンのイギリス・アメリカや、移民出発地の他のヨーロッパ諸国との結びつきが依然強いが、やはり地理的上、北半球の欧米諸国の一員ばかりではいられないこともいろいろな面で多くある。特にフランスの南太平洋のムルロア環礁での核実験の際には、北半球の欧米諸国が黙認を決めこむ中、隣国のニュージーランドと共に猛抗議。市民にもフランス製品不買運動が広がり、大都市のフランスの有名ブランド店では一時休店したところもある。だが、その背景にはアングロサクソン特有の嫌フランス感情があるともいわれる。また、2008年の北京オリンピックでは、お家芸の水泳競技の決勝時間が、同じくお家芸でライバルであるアメリカの(ニューヨークなど)東部時間のゴールデンタイムに合わされたため(北京時間では朝)、北京より進んだオーストラリア時間では決勝生中継が昼になってしまい、猛抗議している。
オーストラリアの周りは荒い海であったために、16世紀頃の世界地図にTerra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。
首都がキャンベラとなったのは、シドニーとメルボルンで首都争奪戦の末、妥協案として、
シドニーとメルボルンの中間に新たに都市を建設して首都としたためである。