朝鮮戦争
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朝鮮戦争は何故 起きたか。
韓国の近代歴史を見る時 大きなキーワードのひとつが朝鮮戦争です。
これを詳しく見ると韓国 朝鮮人の歴史の理解が深まるような気がします
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難民として在日朝鮮人の誕生 増加
朝鮮半島は 武力覇権共産主義の運命の末路である。
朝鮮戦争は何故起きたか?
何故反日の在日朝鮮人が日本に存在するのか?
彼らとどう対処すべきか?
私の意見
1950年6月25日 開戦からの詳細ですが 誰が 何故 開戦を決断して実行したのか?
それが不明でしたのでこれらの検証があります。
これは半世紀に及びステレオタイプ化された見方であり、アカデミズムにおいて、
このような視角への異議申し立てがなされたのは、冷戦崩壊前後からにすぎない。
従って、今日においてもこの先制攻撃限定論は、一般に極めて根強い認識である。
しかも、このような分断の矮小化した見方は、アカデミズムやジャーナリズムの重大な影響力によりすっかり定着した捉え方なのである。
当時の分断情勢において戦端を開く動機は南北双方に等しくあり、三八度線上の小規模な武力衝突は頻発していたのである。
どちらが戦端を開いたかは、単に結果論に過ぎない。
それにもかかわらず、冷戦崩壊前後に至るまで左翼論調は先端が南により開かれたという観点から、
朝鮮戦争の戦争責任を韓国の侵攻にあるとみなし、
他方、右派論調は開戦の責任を専ら北の「奇襲攻撃」にあるとし北の戦争責任を批判した。
朝鮮戦争の評価を先制攻撃の実際に限定して相互に批判し合うことで、
おそろしくステロタイプ化された冷戦型の論争を展開したのである。
それで推測
北朝鮮軍が夜明け前 いっせいに砲撃開始とありますので
北朝鮮側が戦争を決意し準備し、実行したと思われます。
戦争を挑発する李承晩も重要な役割を果たします。
当時 北朝鮮(共産主義国)側はソ連 中国の3国です。
ソ連の最高権力者 スターリン
中国の最高権力者 毛沢東
北朝鮮の最高権力者 金日成 です。
金日成の独断とは考えにくい。
彼はソ連 スターリン指揮下の傀儡政権の親玉でしかありません。
するとスターリンと毛沢東です。
共産主義理論の発祥の歴史 力関係から考えてこれはスターリンの野望と考えるのが妥当でしょうか。
彼はマルクス レーニンの共産主義を勝手に歪曲解釈し、同胞 先輩 後輩を粛清して
最高権力者にのし上がった男です。
政敵を謀略で暗殺 反対する同僚 気にいらない部下も容赦なく殺しました。
まれに見る非情な男でした。家族の証言もあります。
殺さねば殺される、殺される前に殺してやる、でした。
私利私欲 共産主義の武力覇権拡張政策の延長と考えられます。
あくまで私の個人見解ですが朝鮮戦争はスターリンの野望とするのが妥当です。
マルクス レーニンは共産主義理論を考えた。
しかしそれを実行したスターリンが悪党だった。
結果 悲惨な運命の方がたくさんいます。
私はスターリンはヒットラー以上に悪党だったと考えます。
ヒットラーが殺したのは600万人か1000万人 位です。
スターリンは3000万人以上 殺しています。
そしてスターリンの意を受けて毛沢東は 抗日 革命の主張で大躍進政策を取り
毛沢東は生産力理論に基づきこの政策を実施した。
しかし、農村の現状を無視した強引な集団農場化や、農村での鉄鋼生産などを進めた結果、
少なくとも2000万人といわれる餓死者を出し大失敗に終わった。
建国後は国家主席として身分制度を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、
その過程で多くの知識人から硬直した政策に批判をうけたため、
批判的な知識人に対する冷酷な弾圧を開始し、
少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄し処刑した。
抗日活動の長征 朝鮮戦争 文化大革命とか生涯で少なくとも5000万とか1億人を殺しています。
多分スターリンと 毛沢東が人殺し 歴代世界1か2です。3位はヒットラーかな。
共産主義理論を考えた マルクス レーニンもこういう結果では浮かばれないですね。
結論として朝鮮戦争は立案者スターリン 実行者スターリン 毛沢東 協力者
スターリンの子分 金日成 挑発した南朝鮮の李承晩です。
被害者はまともな南北を問わず朝鮮人 連合軍兵です。
朝鮮人は日帝のせいだとか 日本と戦ったのだと錯誤している方がいます。
なんともお粗末な教育です。
それで誰がどのような利益を得たのでしょうか?
ソ連でしょうか。ソ連は共産革命に失敗し解体 崩壊して、今はありません。
かなりの犠牲と 財政的な赤字を出して後悔していますね。
それではどこか?他にはありません。
中国ですね。 東北工程を見れば納得します。
いずれ 再び朝鮮半島を隷属すべく 工作しています。
参照ページ 東北工程
これが私の個人的な見解です。
なお スターリン 毛沢東の関係については
別掲載の記事があります。
挑発した李承晩
李承晩にとって米軍軍政の存在が「たのみの綱」であり、国連による信託統治や、
共同管理といったものはその「たのみの綱」を断ち切るものでしかなかった。彼にとって、
政権存続の方途は、さらなるアメリカの介入でしかなかった。
従って、国際機構による管理が始まる前に、
その枠組みの前提が崩壊されるための何かがおきる必要があった。
武力衝突が本格化すれば、アメリカは介入せざるを得なくなる。
その不可避性を引出すための李承晩の危険な賭が1949年6月以降、
三八度線上の挑発的な武力行為として盛んに繰り返されるようになった。
「三八度線」と題されたいくつかの史料はこの線上での小規模な武力衝突を数多く記録している。
北朝鮮の武力南進の動機が、名実ともに祖国統一にあったとすれば、
南朝鮮の武力北進とは、アメリカを引き出すための政権維持に過ぎなかった。
これに対し金日成にとって戦争は明らかに失われた祖国の南半分を解放・回復するために始められた。
それは予想外の迅速なアメリカの参戦決定により痛撃され、結局は、
南朝鮮の民衆の間での北朝鮮軍への支持が失墜したことで、その敗退が決定的なものとなったのである。
祖国統一戦争の勃発が、南朝鮮の革命の勃発を誘発するという当初の目論みは失敗に終り、
中国軍参戦により辛うじて三八度線以北を維持するに止まったのである。
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朝鮮半島の分断
ヤルタ会談
ヤルタ会談(中央ソファー左からチャーチル・ルーズベルト・スターリン)
この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする
資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。
朝鮮戦争
1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦、事実上停戦)は、
成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から
発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。
この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった
日本人にとってヤルタといえば「ヤルタ会談」。
ヤルタ会談の舞台になったのがここ、リヴァディア宮殿。
第二次世界大戦末期に英・米・ソの首脳が対日講和の条件を相談した。
ここで南樺太と千島列島のソ連への引き渡しが決められた。
1950年6月25日夜明け、北朝鮮の軍隊が奇襲的に国境を越え韓国を侵略してきました。
彼らの究極的な目的は2次世界大戦以後北緯38度線にそって分断された韓半島を武力統一
することでした。
訓練されていない韓国の軍隊は貧弱な武器であっという間に崩れ首都の ソウルは一瞬にして陥落されました。
進撃する北朝鮮軍人が韓国側の軍人を追い掛けてくると、道路は十数万人の避難民と後退する軍人
でいっぱいでした。
アメリカが本格的な参戦の前に小規模兵力を急に派遣しましたが
北朝鮮 軍隊の韓半島の最南端である釜山に向かう猛攻を防ぐには力に及びませんでした。
おおぜいの北朝 鮮人が避難民のふりをし韓国側の軍人を奇襲しました。
それで米軍やU.N軍が誤まって良民に発砲する 不幸な事件もしばしば起こりました。
8月には北朝鮮軍隊が韓半島の最南端まで進撃し韓国側の軍隊とU.N軍はやっと釜山の邊りに
最後の防禦線を構築するほどでした。
こうした状況で9月15日マッカサーU.N軍司令官があの
有名な仁川上陸作戦を敢為するによって一瞬の間に戦勢を引っくり返しました。
北朝鮮の奇襲攻撃
開戦直前の南北の軍事バランスは、北の有利であった。
何せ 悪党3人組は事前から武力共産革命を準備していたのである。
韓国軍は全土で8個師団6万5000人程度で、奇襲攻撃をうけたのである。
米韓軍事協定によって重装備が全く施されていなかったのに対し、朝鮮人民軍は陸軍が歩兵2個軍団10個師団と、
第二次世界大戦時最強のソ連製T-34/85戦車150両を配した第105戦車旅団で合計兵力18万3000人、
海軍は艦艇30隻と兵力1万4000人、空軍は120機のソ連製戦闘機と兵力2万人で、
総計すると約22万人に及ぶ軍隊に成長していた。
1950年6月25日午前4時、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。
韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、
李承晩への報告は、奇襲後6時間たってからであった。
しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。
一方、米軍の連絡系統は俊敏に機能し、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、
ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、
彼の目は常に欧州へ向いていた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。
大統領は米国市民の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬の補給命令、
海軍第七艦隊の台湾への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切れなかった。
6月27日に安保理が開催され、北朝鮮の行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0で採択した。
拒否権を持つソ連は、この年の1月から中国政府認証問題に抗議し、理事会をボイコットしていた。
決議の後、ソ連代表のヤコブ・マリクは国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、
スターリンにボイコットを命じられているマリクは拒否した。
スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気づいていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。
この間、韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都を水原に遷都、ソウルは6月28日に陥落した。
このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも漢江にかかる橋を爆破した。
これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。
また、この失敗により韓国軍は士気もさがり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
お粗末だった韓国軍
韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた
朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、
韓国軍は建国後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、
韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったが軍事協定によって重火器が不足しており、
特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。
その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなった。
3日間の空白
ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。
この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、
なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている
(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。
ミコヤン・グレビッチ MiG−15”ファゴット”
ソ連兵パイロットが参戦したといわれる。
米軍は黒人兵が最前戦に多数 動員されたという。彼らが犠牲者である。
このとき、米陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは1941年の半分に過ぎなかった。
第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど退役し、5年の平和によって多くの兵士は実戦を経験していなかった。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、
丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。
しかし、派遣された米軍先遣隊は7月5日の烏山の戦いで敗北した。
■東西冷戦の最前線となった朝鮮半島
第二次大戦終了と同時に、アメリカを中心とする資本主義陣営とソビエトを中心とする共産主義陣営は世界各地で対立を深めていました。
その最前線となったのが、38度線を挟んでソビエトや中国に後押しされる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とアメリカが支援する韓国に分断された朝鮮半島でした。
この朝鮮半島をめぐって1950年6月25日に勃発したのが朝鮮戦争です。
最初に主導権を握ったのは北朝鮮軍。開戦直後に韓国の首都ソウルを占領し、アメリカを中心とする国連軍を釜山周辺まで追いつめたのです。
これに対して国連軍は同年9月にソウル近郊の仁川への上陸作戦を成功させてソウルを奪回、北朝鮮の首都ピョンヤンも占領し、なおも北上を続けました。
しかし10月には中国軍が参戦し、人海戦術により1951年1月にソウルを再び占領。
攻勢に転じた国連軍が3月にソウルを再奪還した後は38度線を挟んで膠着状態が続きました。
この一進一退の激しい戦いが終わりを告げたのは開戦から約3年後、休戦協定が成立した1953年7月のことでした。
6月27日国連安保理は韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、
7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として
イギリス、オーストラリアなども加わった国連軍を結成した(詳しい参戦国は後述する)。
朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。
しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には国連軍ではなく、多国籍軍の一つである。
しかし、準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、
とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。
また、この時韓国軍は保導連盟員や政治犯などを多数殺害した(保導連盟事件)。
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い(離散家族発生の一因となった)、
再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は解放記念日の8月15日までに統一するつもりであったが、
国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。
マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度にわたる牽制の後の9月15日、仁川に国連軍を上陸させる事に成功した。
大きな転換点の1つとなる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)である。
この困難が予想された上陸作戦はマッカーサー元帥が着想した。
マッカーサーは太平洋戦争において11回もの上陸作戦を指揮した戦歴からも水陸両用作戦に深い理解があり、
開戦した5日後の6月29日にソウル郊外の最前線を視察して作戦構想を着想したと言われている。
韓国軍は釜山周辺地域で防衛線を保持しているが攻勢転移が可能ではなく、
また北朝鮮軍の進撃速度から考えて釜山に新たな防衛線を設定する時間的猶予ななく、
従って米軍の保持する海空軍力で制海権と航空優勢を獲得して
北朝鮮軍の背後に迂回して補給線の切断および南北からの挟撃して
一挙に攻勢転移するという作戦方針が良いとマッカーサーは考えた。
これに連動したスレッジハンマー作戦で国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は
一変した。度重なる攻勢によって限界に達していた北朝鮮軍は敗走を続け、
9月28日に国連軍がソウルを奪回した。この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内でゲリラ化し、国連軍は悩まされた。
10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。
10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中国に参戦を要請。
中国の国務院総理(首相)周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。
だが10月9日には国連軍も38度線を超えて進撃した。
これまで参戦には消極的だった中国も、
遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、
「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、
最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
10月20日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌(※北朝鮮は、1948年〜1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、
敗走する北朝鮮軍を追い、中国軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。
先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。
だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、
その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した
M26パーシング戦車
アメリカ軍が第二次世界大戦末期に実戦配備した
重戦車(1946年5月に中戦車に分類変更)で、ドイツ軍の重戦車に対抗するために開発された。
今までの米軍戦車に付けられた愛称は供与された英軍によるものであったが、
本車は初めて米軍自身によって命名された。
「パーシング」の名称は第一次世界大戦時のアメリカの将軍、
ジョン・パーシングからとったものである。
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初のジェット機同士の空中戦
また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入され、
アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84やF-80との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。
MiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80に対しても有利に戦いを進めていた
(俗に言う”ミグ回廊”の形成)が、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機F-86Aを投入した。
F-86A
MiG-15bis(ポーランド製のLim-2)
朝鮮戦争開始当初の話、
北朝鮮から飛んでくるミグにえらく悩まされた国連軍は、
その性能を調査するために、なんとしても無傷で鹵獲したいと考えた。
そこでミグごと投降したら賞金10万ドルを出すと、大々的に宣伝を開始した。
その後、この作戦は思わぬ方向へ効果を表す事になる。
宣伝を聞きつけた北朝鮮軍部は、身元の確かな兵士しかミグに載せなくなった。
結果としてパイロットの練度が下がり、ミグの被撃墜率は倍近くに上昇した。
信じられない事はないかもしれないけど、本当の話。
朝鮮戦争の時、北朝鮮軍が米軍陣地前の地雷原を突破するために
避難民を自軍の前方に横隊で歩かせ、地雷除去と弾除けにしようとした。
この時米軍は地雷原の有効性を維持するために、避難民を片っ端から撃ち殺した。
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回し、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。
韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2月までに忠清道まで退却した。
だが近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていた中国軍は度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。
それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始した。3月14日にはソウルを再奪回したものの、
戦況は38度線付近で膠着状態となる。
マッカーサーは第二次世界大戦以前に日本が一大工業地帯として築いた中国東北部(満州)をB-29とB-50からなる戦略空軍で爆撃し、
中国軍の物資補給を絶つために補給路を無効化するために放射性物質の散布まで検討された(原子爆弾を使おうとしたともされる)。
しかし、中国本土攻撃や、中国共産党と対立していた台湾の国民党軍の朝鮮半島への投入など、
戦闘状態の解決を模索していた国連やワシントンと政治的に対立する発言が相次ぎ、
戦闘が中国本土まで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることをことを恐れたトルーマン大統領は
、4月11日にマッカーサーを解任し帰国させた。
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原子爆弾の使用を要請も否認される。
苦戦に業を煮やしたマッカーサーは原爆使用を提案した。
しかし核兵器を使用すれば ソ連中国を相手に第3次世界大戦 核戦争になる、、でトルーマンに否認された。
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朝鮮戦争の初期に,平壌を占領した韓国軍,
勝利を祝って祝砲を撃ちまくった.
それだけなら,いいのだが,このとき撃ったのは実弾で,
しかも,着弾地点には味方の陣地があることを
知らなかったらしい
朝鮮戦争時、北朝鮮軍のあまりの進軍の遅さに
人民解放軍の司令官(朱徳だったか?)がキレて
金日成ぶん殴ったらしい。
人民解放軍の損害考えるとキレるのも無理はないか
ソースは父親の中国人の友達の親父さんから。
朝鮮戦争に従軍したらしいよ
停戦
この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、
双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1953年に入ると、
米国では1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死に、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。
(調印者:金日成・朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐・中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク・国際連合軍司令部総司令官。
李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。)
しかし、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。
中国義勇軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight David Eisenhower
釜山橋頭堡 (朝鮮戦争4)
強力な武器をもった米国を中心とした国連軍が釜山まで追い詰められた主たる原因は
近代装備され、周到に準備された北の軍を甘く見た事です。
もうひとつの大きな原因が難民なのです。
家を焼かれ、戦乱を避けて南下する数百万の難民が釜山に押し寄せて来たのです。
北は難民の中に多くのゲリラを侵入させ
難民の影から銃撃し、爆弾を投げたのです。
外国人である国連軍は 顔を見て北のゲリラと
難民の区別など不可能なのは当然です。
いつ背中から弾が飛んでくるか判らないという
緊張感は士気を消耗させるのです。
北は8月15日の解放記念を釜山で祝うとして激しい
攻勢をかけていました。
北は延びきった補給線と制空権がなく夜間の移動しか
できない中で最後の攻勢をかけ、ソウルやその他の
占領地から強制徴兵した兵を前線に投入し多くの血が
流れたのです。
国連軍は釜山が最後の砦でなので、必死の防衛をし、
制空権、制海権をもった国連軍は連日 莫大な補給
物資を日本から釜山港に陸揚げしていました。
写真はソウルの戦争博物館に展示中の鹵獲した戦車
写真:朝鮮戦争に参加した米軍戦車
安保記念館にて(現在廃館)
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、米軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。
一方、米国の推定では、北朝鮮軍が約52万人、中国義勇軍は約90万人が死傷したとされており、
毛沢東国家主席の二人の息子も戦死した。一般市民の犠牲者は100万人とも200万人とも言われ、
一説には全体で400万人の犠牲者が出たとされる。
「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、
最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
また、夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた。
両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、
南北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。
また、一度戦火を交えてしまったために両国とも互いの主権を認めず、北朝鮮の地図では韓国が、
韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されておらず、
日本地図で言う竹島や北方領土のような状態である)。
ここが分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、
相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。
李承晩は北側を挑発し休戦にも反対した。
キム・イルソン金日成
コイツはスターリンの命令で戦争を準備した。元はソ連軍の下級兵士である。
国連軍 停戦監視団の兵士
板門店
軍事境界線
38度線
現状
南北の緊張は2000年の南北首脳会談でアピールされたように、停戦当初に比べれば多分に緩和されたが、
双方の和解は行われておらず、未だに準戦時体制である。
従って国際法上では未だに「休戦」つまり戦争は継続中であり、一時戦闘を中止しているだけと言う事で、
戦争は終結していない状態である。
帰らざる橋
朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治・経済・防衛にも大きな影響を与えた。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、
日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結された。
さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給・製造を依頼したことから、
工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済的復興に弾みがついた。
日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになる(詳細は朝鮮特需を参照の事)。
民間人統制線を越えて北側に続く京義線。鉄条網が分断の現実を物語る。
右側の橋脚は旧上り線(ソウル・釜山・下関方面)のもので、かつてここが複線の大動脈であったことを示す
在日朝鮮人が存在する真相
朝鮮戦争で米軍は約14万人の戦死者をだした。
また、戦火を逃れるため日本に
密入国 不法入国で流入した朝鮮人難民は30万〜45万人とも言われる。
この難民が現在の在日朝鮮人の大部分である。
太平洋戦争で戦時中 日本帝国に強制連行された、、というのはごくわずかである。
要は怖くて敵と戦わず 祖国を逃げ出した連中である。
命惜しさに祖国を捨てた 卑怯者とその子孫である。
太平洋戦争時 日本から逃げ出した日本人難民はいるか。
沖縄戦 東京大空襲を見てみろ!
それが今 朝鮮人は日本で何をわめいているのだ!
強制連行という嘘
お読みください。
朝鮮戦争時のあのザマはなんだ?
朝鮮戦争で米軍は約14万人の戦死者を
だしてまで韓国を守った。
米軍が参戦しないで共産化されたほうが良かったな。
金ブタに支配され飢え死にしたほうが朝鮮人にはふさわしいか。
そうすれば人口は今の半分であろう。
何百万人も殺されたのに忘れて
北朝鮮欲しいだけ与えるというバカ
それが今 反米政策でお返しするのが 朝鮮人である。
また反日政策は国民の批判の的をそらす卑怯な政策である。
何でも他人のせいにする、、朝鮮人の得意技である。
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戦争の分岐点
仁川上陸作戦
今日は、国連軍が仁川(インチョン)上陸作戦に踏み切って55周年に当たる。
この作戦が成功していなかったら、大韓民国は共産化の運命に呑みこまれたことだろう。
1950年の今日、国連軍司令官のダグラス・マッカーサー(1880〜1964)将軍は、
約200隻の艦艇と7万人余りの兵力を率いて仁川に上陸、洛東江(ナクドンガン)まで進撃していた
北朝鮮軍の背後の兵站線を遮断することに成功した。
一触即発の赤化の危機状況で、一気に大勢を逆転させた国連軍は、ソウルを奪還し、
逃げ出した北朝鮮軍を追撃し、鴨緑江(アムノクカン)まで進撃した。
しかし、中国共産軍の参戦で後退せざるを得なくなり、戦争は痛恨の分断とともに終焉した。
これが仁川上陸作戦であり、朝鮮戦争である。
今日のわれわれの暮らしは、まさにこうした歴史的真実と認識の上に成り立っている。
われわれは、金日成(キム・イルソン)と金正日(キム・ジョンイル)の世襲統治下の
朝鮮民主主義人民共和国ではなく、大韓民国の国民であるからだ。
これを否定する勢力があれば、いまこそ彼らに問わなければならない。
大韓民国の国民としてともに生きていく気があるのか、と。
すでに5ヵ月にわたってマッカーサー将軍の銅像撤去を主張している人々は、
「マッカーサーが朝鮮戦争に介入していなかったら、戦争は1ヵ月以内に終わり、分断されることもなかったはず」と主張する。
これはどういう意味なのか。
「戦争が北朝鮮の勝利で終わるべきであったのに、マッカーサーのせいで駄目になった」ということではないか。
ひいては「あの時、赤化統一されればよかった」と言いたいのではないか。
であるならば、マッカーサー将軍とともに命がけで戦った大韓民国の国軍はいかなる存在だというのか。
統一を妨害する勢力であり、分断を助長した反民族分子なのか。
彼らの主張どおりなら、平壌(ピョンヤン)にある彭徳懐・中国共産軍司令官(当時)の記念館も撤去するよう求めるべきである。
中国共産軍こそ目前にあった統一を妨げた主犯であるからだ。
赤化念願の挫折がそれほど骨に染みるのか。
彼らはマッカーサー将軍銅像撤去を阻止する警察に向かって鉄パイプと竹の棒を振り回した。
だれのための暴力なのか。
「金日成・金正日父子の領導」の下で住むことができない痛みがそれほど大きいなら、
その胸に抱かれたいのなら、大韓民国に残っている理由は何なのか。
彼らは大韓民国の正統性を問題視する。「南韓政府は米国と親日派が結託して立て、
李承晩(イ・スンマン)の単独政府路線のため、分断が固定化した」と言うのだ。
すでに検証済みの古い左派的なリビジョニストの主張だ。
大韓帝国は日帝に併呑されたが、1919年の3・1運動と上海臨時政府(臨政)を通じ、大韓民国として復活した国である。
臨政憲章第1条は「大韓民国は民主共和制とする」と宣言した。
この「大韓民国」が今日の大韓民国である。
臨政の法統が大韓民国の正統性の根源である。
大韓民国はまた、国民の選択によって樹立された国だ。紆余曲折のすえ、
1948年5・10総選挙が南韓のみの選挙として行われたが、国民の神聖な主権の行使によって立てられた国だ。
マッカーサー将軍銅像の撤去を主張する人の祖父や親も
その時一票を投じたはずだ。だれがだれの民意を否定するというのか。
彼らはもっと正直にならなければならない。北朝鮮の3大共助、
つまり民族自主、反戦平和、統一愛国共助の実践のため動いていると告白した方がよい。
3大共助の中核は在韓米軍の撤退だ。北朝鮮が今年、「在韓米軍撤退の元年」にすると宣言してすでに久しい。
銅像撤去のデモ現場ではもちろん、平沢(ピョンテク)米軍基地反対デモ、
光州(クァンジュ)パトリオット・ミサイル基地閉鎖のデモ現場でも、
同じ性格の団体と人々が「米軍撤退」のシュプレヒコールを叫んだ。
彼らの行動を、純粋な民族主義者の国を憂う心、忠実な愛国心から出たものだと受けとる国民がどれほどいるだろうか。
このような事情にもかかわらず、国会国防委員長を務めた与党の張栄達(チャン・ヨンダル)議員は、
「守旧勢力がマッカーサー銅像問題を挙げて南北の和解・協力政策に反旗をひるがえす動きを注視しなければならない」と述べた。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と李海?(イ・ヘチャン)首相は遅れて「銅像撤去の試みは韓米関係にとって望ましくない」
という考えを明らかにしたが、「大韓民国の正統性」を否定するデモの本質については問題にしなかった。
国民が、銅像を攻撃する勢力とこの政権の一部の人の考えが似ているのではないか感じるほどであれば、
深刻な問題だと言わざるをえない。
仁川上陸作戦から55周年、国民の手で大韓民国を救い出さなければならない。
[3:朝鮮戦争における、人的被害状況]
開戦以来、休戦協定成立までの三年一ヶ月間における、国連軍の死傷者数は下表の通りです。
国連軍派兵国名 戦死者数 負傷者、行方不明 人的損害合計 オーストラリア 339 1,245 1,584 ベルギー 97 355 452 カナダ 309 1,235 1,544 コロンビア 140 517 657 エチオピア 120 536 656 フランス 288 836 1,124 ギリシャ 169 545 714 オランダ 111 593 704 ニュージーランド 31 78 109 フィリピン 92 356 448 南アフリカ 20 16 36 韓国 415,004 428,568 843,572 タイ 114 799 913 トルコ 717 2,413 3,130 イギリス 670 2,692 3,362 アメリカ 29,550 106,978 136,978 合計 447,771 547,762 995,533
上記とは別に、以下の資料もあります。注:1)
朝鮮戦争における米軍の損害について。1:戦死、33,665名
2:戦闘に依らない死亡(事故や病死)、3,275名
3:死者合計、36,940名
4:戦傷者、92,134名
5:戦闘中の行方不明者( M I A 、Missing In Action )、8,176名
、北朝鮮から帰国した曽我ひとみ さんの夫である脱走兵の ジェンキンス も、最初はこの中に含まれていました。
注:2)
以下の資料における損害の数字は、[ 戦死者+行方不明者+負傷者 ] の合計です。1:中国共産党人民解放軍、損害、推定100万名
2:北朝鮮軍、損害、少なく見積もっても200万名、最大で350万名
3:韓国軍、損害、135万名
4:民間人の犠牲者、推計200万名
5:南から北朝鮮に連行された民間人、15万名
6:離散家族、南北で一千万名
注:3)
中国の人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被ったからです。
私の意見
マッカーサーの恩恵を忘れたチョンどもは北の楽園へ行けということ。
日本国内向けとはいえ、朝鮮発の新聞とは思えないほどまともな社説。
アメリカだって韓国にはウンザリしています。
在日朝鮮人は、本国の韓国人からは、本当は嫌われているって知っているのだろうか
ノムヒョン大統領は 「在日は、韓国戦争から逃げた連中である。
祖国統一を弾の飛んでこない日本から叫ぶとはおかしな話だ。
私は在日の連中を信用しない。
徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める、馬鹿げている。
つまり、いいとこどりである。私たちが苦しい思いをしていた頃、
在日の連中は戦争から逃げて 私たちより良い暮らしを日本でしていたのだ。
在日は在日だ。韓国人ではない。」
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よーく見ろと言いたいよ在日に。在日はしょせん在日でしかないってこと。
韓国からも日本からも厄介者扱いな在日は逝ってよしってことだ。
これだけは脳無ヒョンも正解を述べたな。
結論
朝鮮戦争は50年も停戦状態が続いています。
異常です。最近朝鮮戦争を終結したとする意見があります。
賛成です。共産主義者の独善の行動を総括し、反省を求め 終結せねばなりません。
そして歴史の恥部を解明する必要があります。
大いに賛成です。我が日本に滞在する60万とも 45万ともいう いわゆる在日朝鮮人の
存在する 理由がが無くなります。
彼らは戦争難民として日本に逃げ込んでいるのです。
戦争が終結すれば その大儀名分が失われます。
帰国するか、日本に帰化するか 選択させるべきです。
ただし 帰化の場合 厳正に条件を審査すべきです。
過去に朝鮮総連構成員のように反日活動を行ったものは敵性分子として許可してはなりません。
当たり前です。アメリカ イギリス フランス どこの国でも見てください。
国家反逆者など帰化を絶対 認めません。
反日の朝鮮人は国外退去処分です。
当然です。国内のガンみたいな連中を居住させる理由はありません。
排除すべきです。
まともな方は帰化させてよろしい。今まで多くの朝鮮人は日本に帰化しました。
いまだ帰化しない在日朝鮮人は悪質な反日思想家と言えます。
これが私の結論です。
あえてもう1度 言います。
韓国人と中国人は日本が大嫌いだが、
彼らは世界中からもっと嫌われている。
この日本に在日 帰化し生活をしようとして
日本を愛せない朝鮮人 中国人は日本を出て行くべきだし
我々は 出て行かせるべきだ。
日本文化まで脅かされる。出て行って欲しい!
当サイトの冒頭にある私の主張です。
明智大五郎でした。
私の娘です。可愛いでしょ。
オレの許可なく 手をだすなよ。
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