歴史に残る悪行
朝鮮総連 寺尾五郎 朝日新聞を糾弾する。
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地上の楽園、北朝鮮への帰国
「北朝鮮への帰国事業」という言葉を聞いたことがありますか?。
朝鮮戦争の停戦から六年後の昭和34年(1959年)に、
在日朝鮮人のうちの帰国希望者を、北朝鮮に帰国させることになりましたが、この事業は在日朝鮮人が
日本における差別と貧困に耐えかねて帰国を求めたからとされました。
写真は大阪駅における、帰国者を乗せた特別列車。
在日朝鮮人の帰国運動に対しては、韓国政府と大韓民国居留民団が北へ返すのは
「人道に反する」として反対して、こちらも大規模な抗議運動を行いましたが、
写真は民団によるデモ行進の様子です。
日本政府は帰国事業に対して終始中立的立場を採り続け、日本赤十字社が帰国希望者に対して、
「自由意思」によるものかどうかを一人一人別室に呼んで意志の確認をするという入念な方法を採りました。
なぜ朝鮮総連は朝鮮戦争後の北の貧しい生活を、肉の入ったスープを飲み、絹の服を着る
地上の楽園(天国)などと、真っ赤なウソをついてまで、同じ民族の仲間をあざむき、
自由と人権を奪う社会主義独裁国家の牢獄(北朝鮮)に送り込む為の、激しい帰国勧誘運動を全国規模で展開したのでしょうか?。
そこには以下の理由がありました。
金日成による 労働者拉致である。
朝鮮戦争の結果国土が戦場となりひどく荒廃し多くの人材を失った為に、
その復興に必要な技術者や労働力が不足しました。、
特に鴨緑江(おうりょっこう)には植民地時代に日本が建設した
水豊ダム、長津ダムを初め、四つの水力発電所があり合計450万キロワットと、
北朝鮮の総電力量の八割を供給していましたが、空爆により完全に破壊されました。
写真はかつて日本が建設した水豊ダム。
植民地時代に東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場も、興南肥料連合企業所として
北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産していましたが、爆撃により壊滅状態になりました。
それ以外にも各地の鉄橋、橋梁も破壊され、その為に国土を復興させるための技術者や、
その他の高学歴の人材を必要としていました。
コイツが人攫いの金日成
息子の金正日も横田めぐみさんを初め多くの日本人を拉致し殺している。
そこで金日成( 金正日の父親 )は日本から在日朝鮮人の人材を求めることに決め、
在日の帰国を奨励するとの声明を発表し、帰国事業が始まりました。
前述した如く朝鮮戦争において北朝鮮の軍隊は、
少なく見積もっても二百万名の損害を出したといわれますが、
この数字は当時の北の人口の一割以上にも及びました。
国内における労働力不足を補うために、戦争中には南から韓国人十五万名を北に連行し、
戦争終了後も北朝鮮国内に抑留して労働に従事させましたが、
在日朝鮮人が帰国受け入れを金日成にお願いしたからというよりも、
北朝鮮の復興に必要な技術者、労働力不足から北朝鮮が
それを望んでいた為に、在日を受け入れたのでした。
つまり帰国事業とは、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、
用意周到に練リあげられた計画の下におこなわれました。
その為にはありもしない北朝鮮での豊かな生活や、「完全就職」、「生活保障」などの甘言による
地上の楽園の虚構を作り上げて、帰国希望者を説得し、かき集める必要があったのでした。
なぜ在日朝鮮人は、二度と帰れない凍土の北朝鮮へ続々と帰国していったのでしょうか。
その理由は朝鮮総連だけでなく左翼主義者や朝日を中心とする大新聞が、盛んに
「北朝鮮よいところ」という虚報を流し、帰国熱を「あおった」からでした。
帰国運動に合わせて出版された北朝鮮礼賛本によれば、
五ヵ年計画が完了した暁には、北朝鮮の一人当たり生産額は、鉄鋼を除くすべての分野で日本の
1957年(昭和32年)の水準を追い抜き、「日本が東洋一の工業国を自負していられるのは、
せいぜい今年か来年のうちだけである」、
「ソ連はアメリカを追い越し、中国は英国を追い越し、朝鮮はその北半部( つまり北朝鮮
)だけで
目本を追い越すとしたら、世界はどう変わるであろうか」、
「千里の駒が走りだし」「万馬が一斉に奔走しはじめた」というわけである。
「解放後、北半部( 北朝鮮 )は穀倉地帯に変わった」、「労働は趣味になり、たのしみになる」、
「たまに休むと苦しくて息がつまりそうです、
(労働者の発言を紹介して)」、「もしこの夜となく昼となき労働に次ぐ労働が、
なんらかの強制や圧力によるものであるとすれば、これは1ヵ月と続くまい」
注:)
労働が楽しみになり、たまに休むと息がつまりそうになると書いた寺尾五郎という左翼作家兼、扇動家(アジテーター、Agitator
)の
顔を見てみたい、と思ったのは私だけでしょうか?。
ところが 関 貴星著 楽園の夢破れて、全貌社(1962年出版)、の記事によれば、
「われわれ一行が(北朝鮮の)清津に向かう(列車)車中のことであった。一行のメンバーである寺尾五郎氏が、三人ばかりの(在日の帰国した)青年につかまり、激しい口調で抗議されているのを目撃した。青年達の言い分を要約すると 「僕達は貴方の著書を読み、信用してこの国にやってきたのだ。北朝鮮の事情は、あなたが書いたのとは全然反対ではないか。
だまされて一生を棒に振った僕達をどうしてくれる・・・」
というものであった。
このような経緯が戦後には、軍国主義との闘争勲章と考えられ岩波書店の出版物は好評を続けた。
だが岩波社長の刑事被告経験の反動からであろうか、自虐偏向・共産社会主義嗜好の書物が目立つ。例えば
38度線の北 (1959年) / 寺尾 五郎
朝鮮・その北と南 (1961年) / 寺尾 五郎といった岩波新書は、朝鮮戦争後の再建ができて天国のようであると北朝鮮を報告し、それを鵜呑みに釣られた在日朝鮮人9万3千人が(本来の故郷でもないのに)「北」へ帰還した。
ところが実態は貧困で「地獄」状況であった。
(この人たちは再び出国できないままで苦しんでいる。)
著者の寺尾五郎も出版した岩波書店も道義上の責任は重い。
別の出版社から出た
凍土の共和国―北朝鮮幻滅紀行 (1984年) / 金 元祚
という書物には、帰還した親族に面会のため朝鮮を訪問した人たちのナマの見聞が記述されている。
そこは「地獄」だったのである。
岩波の著書にあった認識の誤りを訂正したものであった。
参考
第1部 ソ連邦の崩壊・中国の変質
中国の国家と革命・党の変質−天安門事件、私はこうみている(1989・7) 寺尾五郎
東欧の激変−私はこう考える(1990・1) 寺尾五郎
激変するソ連の本質について(1991・9) 寺尾五郎
時代と党(1990・9)
個人的に思うこと
犯罪の張本人
1、基本的に帰国事業での責任は北朝鮮政府(金日成・金正日政権&朝鮮総連)が負うものと考える。
場合によっては「人道に対する罪」という観点に発展する事にもなりうる。
ただし、確信犯的(内情を知りながら)に協力した組織・団体・個人は最低限、道義的責任があるものと考える。
朝鮮総連 寺尾五郎 朝日新聞のことである。
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共犯である
朝日新聞はこういう記事を書いた。
北朝鮮には戦争の荒廃と貧乏のどん底から立ち上がって、前途に希望を持った喜びが感じられる。
衣食住がどうにか安定し、働けば食えるようになった朝鮮に、他国で苦労している同胞を引き取って、
いっしょに働こうという気持ちが今度の帰還問題の底に流れている。
もう一つ、千里の馬のけん引者はもちろん金日成首相。
三日前、帰還者代表百五十人と向かいあった金首相はちっとも飾りけがなく、
親切な町会長が隣近所の人と笑いながら世間話をしているようだった。
首相はざっくばらんにこういう意味のことをいった。「われわれは以前は奴隷だったが、解放で貧農程度になった。
もっと早く皆さんを迎えたかったが、ああ貧乏ではどうにもならない。
しかし皆よく働いて今やっと中農までこぎつけた。だが富んだ中農ではない。
ぜいたくはできない、が、心配するな。住むこと、食うこと、着ることは大丈夫だ。
力を合わせてやろう。もっともっと良くなる」と微笑して話しかける。
この調子で(金日成首相)が工場や農業協同組合にも出かけ何日も一緒にアパートに泊ってくるそうだ。
「金将軍は我々の偉大なダムだ。遅れ、落ちぶれた民族を組織して、
たくましい民族エネルギーを蓄えてくれたダムだ」とある人はこういった。
深夜の町で酔っぱらいなど一人もみることができない。
真夜中雪の道を行くのは交代の労働者だ、
寒さしのぎに「金日成の歌」を歌いながら工場へ歩いていく。
注:)
厳冬の北朝鮮で真夜中の寒さしのぎに、酒にも酔わずに歌など歌う者がいるのでしょうか?。
偏向報道を得意とする朝日の記者ともなると、
こんな北朝鮮礼賛記事を、恥ずかしげもなく平気で書いたのです。
しかし朝鮮総連が日本で宣伝した地上の楽園(天国)とはひどく様子が違うことにやっと気が付き、さすがの特派員も
今度は感情に訴える情緒的な記事にして、貧しさを補うことにしました。
帰国事業開始から三ヶ月後には、「希望者ふえる一方」との大見出しで、
(北朝鮮への)「帰還希望者がふえたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。
各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、
二度と戻れぬ日本を去って"未知の故国"へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。
ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、
完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、
などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ」
注:)
帰国事業開始から三ヶ月も経つとそれまでの「である」の断定的表現に代わり、「伝えられた」、「らしい」、「ようだ」の推定、
推測の表現が多用されるようになりましたが、北の現実が宣伝とは違う事にようやく気付き、
地上の楽園報道に対する、後日の責任逃れを意図していたのかも知れません。
こんなことを、日本で最も「信頼」されている天下の大朝日新聞が書いたのである。
しかも、これは特殊な例ではなく、この論調の記事は何度も書かれている。
こういう記事を読み、自らの迷いに「フンギリ」をつけ「祖国」に渡って行き、過酷な弾圧と労働で死んでいった人々も大勢いるはずである。
朝日は、一体こういう人々に、どう責任を取るつもりなのか。
これは誤報ではない。明らかな虚報である。
というのは朝日は戦後一貫して、共産圏の国々の真の姿を決して伝えようとはしなかったからである。
そして、最も肝心なことは、こういう虚報が現在に至るまで
一度も公式に訂正されたことはなく、
しかも責任を取ってやめさせられた記者も一人もいないことだ。
「虚報の構造オオカミ少年の系譜」、 井沢元彦 1995年 小学館
考えてみて下さい。北朝鮮全土が戦場となった朝鮮戦争により、
北では数百万の死傷者を出し焦土と化しましたが、
その朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたのが、昭和28年(1953年)7月27日でした。
それから僅か六年しか経っていないのに、資源が乏しく輸出で稼ぐ産業も無かった北朝鮮について、
冷静に考えれば地上の楽園などは、
産業的に、経済的に作れるはずが無いと判断するのが当然でした。
ところがその当時、左翼主義者に非ざれば人に非ずの状態でしたマスコミ界では、社内における自己保身から、
地上の楽園(天国)
の宣伝に誰も疑問の声を挙げる者もなく、朝鮮総連の宣伝文句をそのまま垂れ流し、
北への帰国勧誘運動にこぞって協力しました。
戦後の復興に関して実例を挙げますと、日本でさえも敗戦から六年後の昭和26年(1951年)当時の
上野駅の地下道には、戦災孤児や浮浪者が寝泊まりしていたのを私はこの眼ではっきり見ていましたし、
経済企画庁の経済白書に、もはや戦後ではない
という有名な言葉が書かれたのは、敗戦から十一年も経った昭和31年(1956年)のことでした。
ソ連から借りた帰国船 2隻
帰国事業による北朝鮮への集団帰国は昭和34年(1959年)12月14日から、
昭和59年(1984年)7月25日まで行われましたが、
これにより総計九万三千三百四十名が北朝鮮に帰国しました。
帰国事業開始直後の二年間で約七万五千名が帰国しましたが、
その中には在日朝鮮人の夫と共に帰国した日本人妻が約千八百名と子供や日本人の夫を含めると
六千三百名の日本人が含まれていました。
写真は新潟港から出港する、第一次帰国船の様子ですが、赤十字の旗に注目。
北朝鮮がチャーターした二隻のソ連船を使用し、後方に見える船も帰国船です。
脱北者の中に第一次帰国船に乗船した人がいて手記を書いていましたが、
清津(チョンジン)港に着いてみると、地上の楽園のはずが現地の人々の薄汚れた貧しい服装と生気の無い顔を見た途端、
帰国者全員が一斉に感じたことは
こんなずではなかった、朝鮮総連にだまされたということでした。
ここではっきり言いますが社会主義、共産主義の下で、人々が地上の楽園どころか、
豊かになり幸せになった国など、その当時から現在に至るまで、
世界中にひとつも無かったことを思い出してください。
注:)
参考までに中国はケ小平(とう しょうへい)が共産主義経済の行き詰まりから、昭和54年(1979年)にやむなく改革開放路線を採り
、ソ連ではゴルバチョフが昭和60年(1985年)にペレストロイカ(政治体制改革)をおこない、
ソ連邦や共産党を解体すると共に、マルクス・レーニン主義の計画経済を放棄して、
両国とも実質的な資本主義経済に転換しました。
北朝鮮の社会は階層社会といわれていますが、その構成は出身成分により決められます。
北朝鮮政府が全人民を先祖からの革命に対する貢献度に応じて、革命核心階層、監視の対象とされる動揺階層、
特別監視対象とされる敵対階層の三階層に大別して、それを更に細分して合計六十四種類に分類したものです。
それは余程の事情がない限り上位の分類には移動できない、革命的身分階級制度です。
日本から帰国した在日は、当初はこの階層に属しました。しかし地上の楽園のはずの北朝鮮が、
実際には日本よりはるかに貧しく、地元の住民からも差別され、期待と現実の落差に失望し、
社会主義国では決して口に出してはいけない政治に対する不平不満を口にしたため密告され、
反革命分子として生きては出られない強制収容所送りとなり、
あるいは敵対階層に格下げされ公安当局の厳しい監視対象とされました。
帰国したら数年後には日本に里帰りできるなどとする、朝鮮総連の甘言にだまされて
北朝鮮に渡った千八百人の日本人妻たちからは、
帰国後ほとんど便りが来ませんでした。
在日朝鮮人の留守宅にしばらく経って届いた手紙には、
生活が苦しく衣料品やお金を送って欲しいという内容が書いてありました。
帰国当初は日本からの送金もありましたが、その後際限のない仕送りを強いられ、
時には投獄された肉親の釈放のために送金を強要されることもありました。
次第に送金する留守宅も減り、四十年以上経った現在では送金がある帰国者数は激減し、
ごく一部になっています。送金の途絶えた帰国者たちの生活は悲惨で、
帰国者 九万三千名中、すでに約三万人が餓死、または、
敵対階層のレッテルを貼られて強制収容所送りとなり、死亡したとの情報もあります。
日本に残った在日朝鮮人たちの中には、北朝鮮に渡った親族たちの消息を知ろうと北朝鮮に行ったものの、
向こうの担当者から「あなたの親族の消息は、こちらでも分からない」などと言われた人もいました。
断片的に得られた情報をつなぎ合わせてみると、消息不明になった人々は日本への里帰りを願いでた為に
強制収容所に入れられたり、貧しい生活を送る中で日本での習慣からつい政府を批判した言動を密告されて、
処刑された可能性が強いといわれています。
ところで「日本人妻」に関しては、平成9年(1997年)、平成10年(1998年)、
平成12年(2000年)にそれぞれ十数名ずつ日本への里帰りが実現しましたが、
いずれも平壌附近に住む恵まれた階層に属する人達でした。
しかも日本に行く一ヶ月前と帰国後一ヶ月間は思想教育をされ、
日本のことを決して褒めてはいけない、北朝鮮について聞かれたら良いことしか言うな、
帰国後も北朝鮮を褒めろと指導されたのだそうです。
しかし日本人妻の総数からすれば、里帰りはほんの一部にすぎませんでした。
帰国事業に賛成、反対する朝鮮総連と韓国民団との間で帰国者の綱引きを演じ、
世相が騒然としていた昭和34年(1959年)12月のこと、
当時私は青森県八戸市にある海上自衛隊八戸基地で、対潜水艦哨戒機( P2V−7
)の第三操縦士(航法士)をしていましたが、
忠臣蔵の討ち入りと同じ12月14日に、日本海への哨戒飛行の任務を命じられました。
在日朝鮮人の帰国希望者を北朝鮮に帰国させる第一次帰国船が、昭和34年(1959年)12月14日に新潟港を出航し、
北朝鮮の中国との国境に近い日本海側にある港町、清津(チョンジン)に向かうものと予想されました。
前述した無法者の李承晩(リ・ショウバン)が、在日朝鮮人を北朝鮮へ帰国させることに強く反対した為に、
帰国船の運航を妨害し、拿捕するかも知れないという危険が予想されました。
そこで政府が海上自衛隊の飛行機に帰国船の前路哨戒を命じた為に、
出航の三日前から帰国船の予定コースに沿って主に韓国側(西側)を重点に、
北側は南北朝鮮を分ける北緯三十八度線を越えた、
咸興(ハムフン)を通る北緯四十度線まで哨戒飛行をおこない、韓国の軍艦を捜索しました。
その当時の韓国は貧しく海軍の軍艦といえば米軍から払い下げられた古い小型艦艇を数隻持つだけでした。
冬の日本海はシベリアからの季節風が強く吹き、海も荒れて一面に白波が立ち、
時化(シケ)のため沖で操業する漁船もなく、高度 千フィート(三百メートル)の低高度で飛びながら、
捜索 レーダーに映る中型、大型の船舶を一隻づつ目視で確認しながらパトロール飛行を続けました。
韓国海軍の軍艦は予定 コース付近には遂に現れず、北朝鮮が チャーターしたソ連の帰国船を哨戒機から見ると、
時化(シケ)の海をかなり ピッチング( Pitching 、縦揺れ)しながら、清津(チョンジン)に向けて航行していました。
帰国者たちを待ち受けていた地上の楽園(凍土)における苛酷な運命については、
当時は神のみぞ知ることでしたが、今から四十八年前に私も少しだけ、それに係わりを持ちました。
参考 この記事の著者は
元海上自衛隊 後 民間機パイロットの方です。
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北韓の国家的犯罪を斬る
北送事業(17)・乗船拒否された李洋秀さんに聞く
救済の思い強く
「帰国」を拒否された本当の理由は、母親が日本人で、「汚い日本人の血が流れている」というものだった。
当時、10歳の少年は一人で海を泳いででも北に行きたいと焦がれたが、
母の血を恨み、母を責め、3日間泣き通すしかなかった。
「帰国」したかつての同級生からの暗号の手紙で、「北はどうもひどいらしい」と間接的に知るようになったが、
それよりも夢と希望の方がまさっていた。
当時、寺尾五郎の「38度線の北」という北を礼賛する本のほかに、大手新聞でも同じ様な連載が掲載されていた。
そこには、北では1年のうちに一週間は誰もが温泉に行くことができると書いてあった。
「今でも新聞の一言一句をおぼえている」と洋秀さん。
しかし、母と一緒に夢見た温泉地への旅は、夢のままで終わった。
「帰国船」中止の波紋
朝鮮学校に復学した洋秀さんに、送り出した先生や同級生は「なぜ帰らなかった」と罵詈雑言を浴びせ、
時計や文房具などの餞別品を返せと迫った。
いじめがきつくなった。
高校2年の時、「帰国船」が中止になるという話が持ち上がった。
担任の先生はクラス全員に「帰国はしなくていいから全員申請書だけは書け」と命じた。
「帰国」事業が途絶えるということは、日朝を結ぶ唯一のパイプがなくなることを意味する。
「それを避けるために、「帰国申請書」の数による既成事実で
日本当局に「帰国」事業の継続を要求するものにほかならなかった。
それでも、誰も申請書を書かなかった。洋秀さんは運動に協力する意味で書いたが後日、
先生から呼び出され、「申請しながらなぜ帰らないのか」となじられた。
北では16歳になると選挙権も与えられ、一人前に扱われると知っていた洋秀さんは、一計を案じた。
周囲にも16歳で単独帰国した者も多かったので、「社会人として私が実の母親を連れて行く」と要求したのである。
ところが、またもや「お前はいいが、母の血が卑しい。母を捨てて一人で来い」と拒否された。
二重の民族差別に絶望
日本社会の民族差別に加え、母の出自によって祖国からも捨てられたとの絶望感は、洋秀さんを打ちのめした。
その苦悩を誰にも言えずに悶々とした日々を送った。
「帰国事業は在日同胞にとって致命的だった。
騙された同胞も騙した総連も、それを煽った日本の『進歩的な』人間や在日を追い出したかった
連中にも責任がある」と洋秀さんは指摘する。
その上で、「北朝鮮が帰国者には地獄の片道切符ではなかったということを証明するために、
年に1回でも日本に里帰りさせるくらいの自由があれば、
何の問題もなかった」との思いもある。それが50年以上もできていない。
中学3年の時、朝鮮青年同盟の幹部養成講座で一週間ほとんど不眠不休の「総括」に参加し、
急性肺炎から結核を患った。国が指定した大病だから、結核と判断されれば、治療費は国の負担になるはずだった。
しかし、レントゲンの結果、自然に治癒していたため、検査費用も本人負担となった。
生活保護も打ち切られた母子家庭では払えない大金を、
同級生らが学校を休んで肉体労働でお金を工面してくれた。
「自分自身がこの時代を生きる歴史の主人公として、北朝鮮で苦しんでいる同胞を救うために何かできることをしたい」。
それが、かつて窮地を救ってくれた同胞の愛、恩に報いることだと思っている。
(2000.03.15 民団新聞)
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夢にまで見た桃源郷の祖国(殆どが南鮮出身のはずだが、北鮮を祖国と思い込んでいる)
へ自らの判断で帰還できたのだから、結果がどうなろうとそれで良いのではないか。
もし米ソの冷戦でソ連が勝利していれば、北朝鮮は本当に働かなくても贅沢できる白丁の桃源郷になっていたかもしれない。
まず有り得ないが絶対に無いとは言い切れない。
帰還事業で北朝鮮へ渡ったものが、続々日本へ戻りたがっているようだが、これは将来の為に阻止した方がよい。
1年ほど前だと思うが、朝鮮総連の大阪支部長?が息子2人を帰還事業で北朝鮮へ送り、
セッセと仕送りをしているとか言うのが同じNHKであった。情報提供と語り手は残った娘。
>1959年から84年まで続いた帰国事業で、9万3千人余りの在日朝鮮人とその家族が北朝鮮へと帰国した。
ここ数年、北朝鮮に渡った人々が脱北し、日本へ戻ってくる例が急増しているが、
素顔を明かして体験を語った例はほとんどない。
今回、日本への帰還を果たした一人の男性が、その体験の詳細を初めて明らかにした。
NHKは、世界各国からおよそ1万5千ページにおよぶ帰国事業に関する秘密文書を入手した。
帰国者が北朝鮮でどのような運命をたどったのか、そして、
帰国船は北朝鮮によってどのような目的に使われたのか、
関係当局が注視した知られざる動向が記されている。
関係者の証言と膨大な秘密文書をもとに、北朝鮮帰国船の知られざる半世紀の軌跡をたどる。