花登氏の「ゼニの花」に登場する老舗の旅館名をグループ名にした「山水館」は、大阪、神戸のハード・ロック史に新時代をつげた伝説のグループとして今も評価が高い。
山水館は、もともと神戸のグループである。1974年、彼らが産声をあげた頃、大阪では新旧ライヴ・バンドの激しいつば競い合いが始まろうとしていた。
当時大阪のライヴ・ハウスで客を動員していたのは「ジャック・ダニエル」。
ダーティなストロンズ調P&Rにグラム・ロックをブレンドしたバンドだった。
そのジャック・ダニエルを中心として大阪で活動していたグループたちのバンド・カラーは当時強力なもので、排他的な傾向さえあったらしいが、唯一山水館は、ジャック・ダニエルとの共演をきっかけに大阪進出を果たし、大阪における地盤を固めていった。
バハマ、サーカス、拾得などを根拠に人気を集めていった山水館は、78年の解散にいたるまでに数々の動員記録を樹立した。
彼らのポップでハードなサウンドは、当時マーシー(ES)やジョー(44マグナム)、そして大谷慶一、本宮ひとしなど、現役ロッカーたちさえ引きつけずにおかない魅力的なものだった。
なにしろ、山水館が活動していた74年〜78年にプロとして活動していたハード・ロックバンドといったらBOW WOWしかいなかったくらい。
だから山水館がうけたのは希少価値・・・かというととんでもなく、大阪にはアマチュア・ハード・ロック・バンドがひしめきあっていた。にもかかわらずその中から頭角を表した唯一のバンドが山水館だった。
この頃の人気を回想して、当時山水館のリーダーを務めていた高橋氏はこう語る。
「もともと化粧バンドというのは大キライやったけど、それを取り入れたことがけっこう影響してたと思う。
なぜそうしたかっていうと、あの頃まずBOW WOWの演奏レベルの高さにびっくりし、クィーンのコンサートで仰天し、友達に騙されて行ったキッスのコンサートで度胆を抜かれた。こういうことを立て続けに経験してショウというものの概念を変えさせられたんですよ。
演奏だけ良けりゃそれでいいってもんじゃない、と」 その結果、山水館は各メンバーのメイクとドレス・アップによってヴィジュアルなステージングとポップなハード・サウンドを融合させた独自のパフォーマンスで未知のロック・ゾーンを切り開きファンを獲得していったのだ。
一方、山水館にとって好運だったのは、当時大阪にあったロックの土壌が非常に意欲的だったこと。
「定期的にロック・バンドが出れるコンサートがあったんですよ。天王寺とかにね。アマチュアが育つ環境づくりに、バンド周辺の連中もみな熱心やったんです」(前出、高橋氏)
同時にアマチュアが出演できるTV番組もあった。通称ハロヤンといわれる「ハロー・ヤング」には恒例のコンテストもあり、山水館はここで決勝まで進出した。
ラウドネスの前身、レイジーもこの番組によって認められレコード・デビューを果たしている。
現在の関西ロック・シーンにダイレクトにつながる70年代後半の大阪ロック・シーンを第一線で活動し続けた山水館は、78年に解散。
しかしその後すぐにシェラザードとの合体によりノヴェラ、さらにアクション!新生ノヴェラ、そして彼らを範とするニュー・プログレッシヴ・ハード軍団の誕生をうながしたわけだ。
山水館は、だから今も伝説であり続けているのだ。
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