2002年7月4日私は碎入院しました。短い入院生活をふくむと私は入院が3回目でした。
けれど今回の入院は少し違っていました。
私はその2カ月くらい前から食欲が落ちどんどん痩せてきていました。私は自分から入院したいと主治医に申し出ました。
入院しても状況はどんどん悪くなる一方で今年の7月の暑い夏病室は冷房が朝は8時半からで夜は9時には切られてしまいとても暑い夜を過ごさなければなりませんでした。
それに4人部屋だったのでストレスも抱え込んでしまったのでしょう。私はどんどん食欲を無くしていきました。
 しばらくして主治医の先生は私のCTを撮りましたが、私の恐れていたとおり転移が広がり肝臓にも腹膜にも皮膚転移も数が増していました。
実は私は食欲をなくす前ハーセプチンとタキソールの治療を受けていました。
でもタキソールが合わず吐き気、脱毛、食欲不振でタキソールを中断しました。しかしハーセプチンだけは続けてほしいと主治医に頼みつづけましたがハーセプチンのみでは効いていないと言われました。でもやはりいちるの望みを抱いて私はハーセプチンを続けてもらいました。



 
 肝臓に転移した写真を見ながら先生は他の抗癌剤をするかホルモン療法をするか自分で決めなさいといいましたがホルモン療法を選ぶとこの病院では治療が終わりという事になります。
そして他の病院へ転院するっことになるのです。私は決断をさまられますます食欲を落としていきました。その頃足は象さんのようにむくんで一ヶ月もの間毎日利尿剤の入った点滴をしていましたが、抗癌剤で堅くなった血管はなかなか針が針が通りませんでした。でも転院先のS先生はすぐに3時間もかかっていた点滴を止めすべて錠剤に変えてくれました。そのときのうれしかった事こ踊りしたいくらいでした。
その間も痛みはましていき食欲も細くなり夜中の暑さが体にこたえ食べられる物がかぎられてしまったのです。
 私には2人の姉がいます。姉たちは代わる代わる私が食べられる物を買ってきてくれました。
それでも私が食べられる物は減り続け果物とふやかしたパンとスープくらいしかのどをとおらなくなりました。



 初めにえんげ障害がおきました、このために薬屋さんピーターパンさんの薬が飲めませんでした。
この薬さえ飲めればという気持ちでいっぱいでした。えんげ障害はオブラートはでも飲めないのです。
「健康のお手伝い トップドラック 」http://www.hi-ho.ne.jp/yasuo-tomita/top4_000.htm
 次に味覚障害がおきました。これに9は私自信おどろきました。
 果物は腐った味がしましたバナナはいもの味でした。ヤクルトはまるで水でした。
こlの時最低の45キロになり立って歩けなくなりました。
栄養失調だといわれ舌に白いおりものがびっしり付きました。
この間も痛み止めのMSコンチンは増えつづけました。
ボーっとする頭の中之では行けないと思い、いもの味のするまずバナナを決死の覚悟でなぜか泣きながら食べました。
そして食べられた時のうれしかった事、それからは赤ちゃんのミルクを一缶のみ少しずつ体重が増えてきました。
 
 転院は突然やってきました。

    

白川先生
特技は歌が上手い

 私の担当の看護師さん

 誰にでも同じ態度で看護できる看護師さん

 とてもとても優しく話す看護さん師

 私をお風呂から一ひとりで持ち上げた看護師さん

 誰にでも同じ態度で看護できる看護師さん

 誰にでも同じ態度で看護できる看護師さん

 夜勤の時コンタクトレンズが合わず目が赤くなる看護師さん

まんまるとして可愛い看護師さん

乳癌崖っぷちのステージW