Last Update:15th,Feb,'99(Mon)
音楽ホール
やられました。Windows95を再インストールしたら見事にマシンがイカれました。<~("ロ゙)~>
今回は泣きながらの更新です。(Y_Y)
今回のテーマは「音楽におけるライヴという芸術に付いて」

 ジョン=ケージという人の作った「2分34秒」という曲がある。

「ナニを今更」と笑われてしまうかもしれないが、一応説明して置こう。

 まず、演奏者が舞台に出てきてピアノのフタを「パタン」と開ける。

 そして、ただ、座って何もしないのだ。観客はひそひそと声を交わすようになる。

 やがてどこかから「ナニやってんだ! さっさとやれ!!」というヤジが飛ぶ。

 その声をきっかけに会場は騒然となる。

 演奏者はおもむろに時計を見て、ピアノのふたを開けてから「2分34秒」が経ったことを確かめると、

「パタン」とピアノのふたを閉めてお辞儀をして舞台の袖に引っ込む。

 観客は一瞬呆気に取られ、そしてぱらぱらぱらと釈然としない拍手をする。

 近現代のあらゆる曲の中で一番有名な曲の一つである。

 この曲にはいろいろな意味を付与されて語られることが多い。

 今回は、ライヴの空気を考える意味でこの曲を見て行きたい。

 この曲は少々強引であるキライはあるが、「ライヴにおける観客の役割」という物を鮮明に見せた音楽である。

 異論はあるだろうが、この曲はライヴでしか演奏できない曲である。

 ホールの中に巻き起こる喧燥を以って音楽という性格上それは致し方のないことではある。

 つまり、少々はしょって言うと、この曲以降、ライヴコンサートに来る観客に、アーティストの音楽に相対するアーティストとしての性格を付与することになったのだ。

 もっと噛み砕いて言うと、アーティストと共にライヴを作り、アーティストの音楽性に負けないくらいの音楽性を持ってライヴを作ることを観客に求めることであるからだ。 

 これはある意味すごいことではある。

 「美の共演」という言葉がある。

 この言葉は、普通良く使われる用法では、アートとそのアートを設置する環境や自然との調和に対しての言葉である。

 しかし、ライヴにおいては、単に音楽とホールの調和だけでなくそこに存在するオーディエンスとの調和をも含む言葉になってしまったのである。

 しかし、これは私個人の意見を言うと、とても残酷である。

 観客に、静かに聞くにしても、アーティストに歓声を上げながらエールを送るにしても、

 自分の音楽性に裏打ちされた自由意志にしたがって能動的に選択しなければならないことを表すからだ。

 つまり、そこにはギリギリのところでアーティストと共演する緊張が支配する。

 例えば、「クラシックのコンサートでは咳一つしてはならない」だとか、

「ロックのライヴではアーティストと一緒になってはしゃがなくてはならない」とかいう不文律の数々である。

 個人的にはそういうライヴの方が好きではあるが、それを押し付けている限り、音楽は「音楽」ではありえない。

 音楽の根元は「出てきた音を純粋に本能的に楽しむ」事である。

 ただ単に音が出てくることだけで感動できるにもかかわらずそういうのとは離れた次元で音楽を押し売りするのははっきり言って問題だ。

「付いて来れる人だけ付いてきて下さい」というのはここまで来ると思い上がりである。

 作曲をしていたら、自分の音楽が他人の趣味と必ずしも合わない、

 つまり自分の曲が万人受けしないことぐらいは分かる。

 誰も真に万人受けする曲なぞありえないことぐらいは分かっている。

 しかし、できるだけ多くの人の共感を呼ぼうという「無駄な」努力無くして音楽の発展はありえない。

 これは音楽だけでなく色んな事に言えることだろうが。

 現代の音楽は、余りにも細分化、専門化され過ぎた。

 その上、またそれを情報の受け手にも求めすぎている。

 現在のライヴではそういうアーティストの一人よがりが我が物顔で歩いている。

 一度、アーティストも「アーティスト」の衣装を脱いでバカになってライヴをやっても良いのではないか。

 純粋に音が出てくるのを観客と一緒に楽しめるようなライヴである。

 そこに至ってやっとポスト「2分34秒」といえるライヴが完成するのではないかと思う。

 あるライヴを見てふと思った。

あなたの夢が紡がれますように
 
 

Rand\にMAILを送る
バックナンバーへ

玄関ホールに戻る