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JAZZ LIFE 1990年 10月号

佐藤允彦
〔総括〕“ランドゥーガの切り開いた世界”

表紙イメージ  

<特集記事表紙ページより>
右足を自分の頭の位置よりも高く蹴り上げたこのポーズを見よ!
これは佐藤允彦自らが全身を使って表現した“ランドゥーガ”だ。
高く蹴り上けた右足の先にあるものは、いったい何なのだろうか?
ついにその全貌を現わした“ランドゥーガ”は想像も及ぱない衝撃的なサウンドを聴かせてくれた。
それは「日本の伝統音楽とジャズ・イデイオムとの出会い」というコンセプトに基づいた新しいインプロヴァイズド・ミュージックを誕生させ、確実にジャズの世界を切り開いた瞬間でもあった。

 

未知のプロジェクト“ランドウーガ”のサウンドは驚きと新しい音楽を予感させるカにあふれていた。 これまで「ランドウーガを追う」と題し4回に渡って、その実像を解明してきたが、ランドゥーガの成果を佐藤允彦自身はどう考えているのだろうか?
取材:久保田晃弘

“ランドゥーガ”反省会

ぼくが専制君主に なることが目的じゃない

 

――今日はランドウーガの「反省会」ということで始めたいと思います。

佐藤:いっぱいあります(笑)。  いろいろと根本的な間題に気づきましたね。音楽をやるっていう行為を人がどう意識しているのかが見えておもしろかった。  いちばん最初にみんな集まって音を出した時の衝撃というか感激、これはみなさんに聴いていただきたかった。  初めはコンセプトだの何だのっていうディスカッションで1日が終わってしまうと思っていたんだけれど、とにかくみんなに譜面を渡して演奏してもらうことにしたら、いいんだよね、これが。  疑心暗鬼で譜面に書いてあることを「こんなのかな?あんなのかな?」と手探りして、音楽が自然発生的に“ワーッ”と出てきた。これをそのままステージでできたら、こんなにすごいことはないと思ったね。  ところが、だんだん練習を積んでくると、音楽がどんどんまとまってきて、ズレてるものが合ってきてしまう……。

――ライヴを聴いてまず最初に「あれ、意外とまとまってる」と思ったのは事実です。

佐藤:これは仕方ないんだね。  コンセプトはズレてくることだから、みんなにも「ズレてよ」とは言ったし、譜面にも「ズレてください」と書いていたんです。  たとえば1曲目の「磯浦網引き唄」の出だしは、ぼくのイメージでは――と言うかいちばん最初にやった時には、もっともっとズレていた。  ズレるとどういうことが起こるかというと、サウンドがものすごくラフな広がりをもってくる。  広い海のなか一面に地引網を仕掛けて、それを浜辺でズーッと引いている。そんなイメージがほんとうにあった。ところが誰かがフッと音を出すと、他の人はそれに本能的に合わしてしまうんだよね。  最初の混沌とした、ほんとうに自然にズレている状態。誰かが「あ、ここ吹いてるな、じゃあオレも吹こう」と追っかけて来たような状態をきちんと再現するのは簡単なんです。  それはぼくが専制君主になってしまって「あなたのズレ方はここでなきやいけない、きみはこういうふうにズレなさい」と譜面に書いてしまえば再現できる。  たとえぱ2曲目の「陵王伝」だけは、かなり専制君主風にズレた譜面を書いて渡してるんです。  譜面はメインのところとサブのところに分かれていて、全員が片方を同時に選んでしまわない限りは絶対ズレるようになっている。  これはもう専政君主なわけ。もう少し自由な方式で書きたかったんだけど、そうするとこの曲が成立しなくなってしまう。ほんとうはキュー出しをするのさえ専制君主のようでイヤなんだよね。  みんなが自然発生的に、たとえば[2]へ行こうじゃないかということで[2]ヘ行くとかね。トリオぐらいだったらそういうことができるけれども、7〜8人になったらそれはもう不可能になってしまう。  でも、そういうふうにやるのが目的じやないわけですからね。  自由な譜面を与えて、みんなが自由に吹いてくれるっていうのがコンセプトだから、逆に言えば“ピシッ”としたアンサンブルであっても、もちろんいいわけですよ。今回も結果として本質的にはまったく逆の、みんなが気持ちをひとつに合わせて“パシッ”とやりましょうということが起きてしまった。  それはそれでよしとしなきやならない。民主主義としては(笑)。

きわめてパワフルな 音楽ができあがった

――音楽は、ずっと「合わす」ということばかりをやって来ましたからね。

佐藤:何人かが集まったら、ひとつのものを作らなきやいけないってね。ある一点に向かって、ピラミッド状に組み立てていくということが音楽なんだと思っている。  だから「ズレるのがいいんだ」ということを頭でわかっていても、実際の行為としてはなかなか流れていかない。誰かがフッと吹いたら、やっぱリ息を合わせて吹いてしまうというのがある。  「ズレるのがいい」ということをいちばんよくわかってくれていたのは、梅津(和時)さんと峰(厚介)さんだよね。  レイ・アンダーソンともずいぶぶん話をして、結局「わかった。そうだね」って言ってくれたけれども、いざ吹くとどうしても合ってしまう。そのかわりに合ったところはものすごくパワーがある。  それともうひとつはソロの間題。  譜面にはまず日常的にみんながやらなきゃならない作業、つまり基本的なパターンというのが書いてある。  それから突出した状態でソロをやってもいいという部分があって、ソロは必ずひとりと書いてある。  そして別のところにはキューが出たらこれをやってというのが書いてあったんです。  その譜面でどういうことが起こったかというと、ソロと書いてあると「そこはオレの自由」というふうにみんな思ってしまい、誰かがソロを選ぶとそこはもうその人のものになってしまう。  ぼくが思っていたソロというのはそうではなくて、もっと短い大演説しないでひとこと何か言って、すぐ日常の作業に戻ってくださいよ、ということだったんだけれど……。  それもソロの長さは何秒とか何フレイズまでといった規制の仕方をすると専制君主になってしまうから、ぼくはそこも放棄していたわけなんですけど、そうしたら「この曲のソロはオレにしてくれ」と言ったり、「あの人はソロをとってないから、ここでソロをとったらどうか」とか、ある程度は読んでいたんだけれど、事前の読み以上にそういうことが起こってしまったんだよね。  ソロという字を見ると「あっ、オレのだ」ってなる。  それはなんというか、ジャズをやってきた人の悪い習性だよね。ジャズってソロを回すということで成り立ってるわけじゃない?  でも“ランドゥーガ”のコンセプトはそういうことではなくて、みんなでカンバセーションができたらいいなということ。  いろいろな「なまり」の人かカンバセイションをし合って、たまたまキューが来たら、ちょっと一緒に作業をして、そこでいろんなズレがでて来る。それを見たかったわけじゃない?  そうしたことをリハーサルの合い間で折に触れて言ったんだけれど、結局そうはならなかったのね。そのかわり何ができたかといえば、きわめてパワフルな音楽ができあがってしまった(笑)。

――すごく「音が重い」ですよね。

佐藤:すごいでしょ。みんなが熱くてもう頭がボーッとして“うじゃじゃけて”いる時に、意識がハッと集中するようなパンチのあるものができあがったのは、まあ、それはそれでめでたいなと思っている。あの場にいた人もみんな喜んでくれたし、アレックス(・アクーニャ)もナナ(・ヴァスコンセロス)も、「おもしろかった」って言ってくれたんだよね。その点はぼくとしてはすごく感動しているんだ。

――初めに「“ランドウーガ”は考えていた以上にまとまってるな」と言ってしまったんですが、それはこれまで長期に渡って佐藤さんにインタヴューしてきたからなんです。

佐藤:なるほど。その落差を差し引いてみてもかなり変わったものだったでしょう?

――やはりヘンな音楽だと思うんですよ(笑)。

佐藤:そうそう(笑)。

――たとえば「磯浦網引き唄」の出だしなどは、よく聴くとフレイズのお尻が合ってないんですよね。「井戸替え唄」のコール・アンド・レスポンスもけっこう無茶苦茶ですよね(笑)。  そのあたりは狙いどおりですか?

佐藤:そうね。  でも「鬱散・うっぽぽ」は、曲の終わりの方でメーター振り切ってしまって、それ以上いかないって状態だった。  だけれど、もし“ランドゥーガ’の考え方を完全に理解しているホーン奏者がいたら、あそこで何か突き抜けるものをやったはず。  「このままこの状態が続いていると100パーセントの連続になっちゃうから、オレはここでは押さえ目にしておいて、みんなのスキができたところで、“パーッ”とやってやろう」というフり一・インプロヴァイズの本当のおもしろいところをやっていたと思うのね。

――コンセプト的には日本人のミュージシャンがよかったと思います。

佐藤:そうですね。  とくに岡沢(章)さんは譜面のチョイスの仕方がいちばんよかったんじゃないかな。  “ランドゥーガ”はパターンの選択の積み重ねなんだよね。こういう状況になった時に、どういうチョイスをしたらいいかっていうことの積み重ねで成り立たせたかった。  “ランドゥーガ”はソロがごく一部の要素でしかないという音楽で、何に対してのインプロヴィゼイションかと言えば、物事をチョイスすることに対してのインプロヴィゼイションなんです。  どこでいつ乗り換えたらいいのかというチョイス。  すばらしいミュージシャンが集まってそういうチョイスの集合をやったらどうなるかっていうのが、いくつかある“ランドゥーガ”のコンセプトの中のひとつ。それをいちばんうまくやってくれたのが岡沢さんじゃないかな。

ドラムが入って サウンドがポップになった

――それと、まとまってインプロヴァイズしていくと、ひとつ間違えると単調になってしまうという危険性がありますよね。

佐藤:そうですね。なりかかっているところも、いっぱいあるし……。

――そのあたりが、テープを聴いて感じたことなんです。

佐藤:ぼくもやっていて、誰か突き抜けてくれないかなぁと思った部分がある。それでミックス・ダウンの時にスタジオでシンセの昔をちょっと足したんだけれど、足しきれないように思えるところもまだある。  ただ弁解がましく言えば、4日という短期間のリハーサルでまったくコンセプトの違うものを持ってきて、それを見せられてしまったら、やはり自分のコンセプトの範囲内でなんとかしてそれをまとめようと思うのが当然じゃないかな。  そうするのがミュージシャン・シップであるとみんな思ってるのね。そのように建設的に思っでくれてるところに「それ違うよ。もっと破壊的になってくれ」と言うのには、もう1週問ぐらい時間ないとなかなかできない。  それからリズムに関して、ぼくはアレックスに「ドラム・セットはいらない、全員パーカッションって感じにしてくれ」って言っていた。  ところがアレックスのドラムがあまりにいいので、いつの間にか彼がドラムということが定着しちゃった。  ドラム・セットというのは困ったもんなんですね、ひとリオーケストラでしょ?皮はある、木はある、金物はある。周波数の帯域でいえはボトムエンドからトップまでの全部をカヴァーしているから、シンバルとバス・ドラムを一緒に打っちゃうと周波数帯域をめいっぱい独占する。ものすごく危ない、それこそ専制君主の楽器になってしまう。  だから「オレはここではバスドラムだけしか使わない」みたいなパーカッション的な参加の仕方をして欲しかったのね。もう少し限定した状態で選んで欲しかった。それでも「おまえ、ここではこれやれ」とは言えないわけですよ、“ランドゥーガ”としては。  その点、(高田)みどりさんはもちろん、ナナはわりと限定していたでしょ?

――ナナのプレイはこの空間はぼくの空間って感しでしたね。でも結果としてはそういうドラムスとパーカッションのバランスがよかったんではないでしょうか?

佐藤:ドラムが入ったことで、ポップで聴きやすいものになったね。  メロディが今までにないような状態であることに加えて、リズムまで未知のものになっていたら、すごく異質な音楽になってたかもしれない。  もっとも異質というのはあくまで西洋音楽をずっとやってきた人から見た場合であって、ぼくは逆に「これだ」って思っているわけ。  だからなんとかして、リハーサルで一発目に音を出した取りたての状態で置いておきたいなと思うんだけど、そうした状態に対して彼らは未熟でまとまりがなくって、商品としては不完全なものであるという印象を持ってしまう。  やっぱり、腹わたを出しとかないと腐っちまうとか、冷蔵しなきゃとか、骨は骨、皮は皮で分けなきやダメとか思うわけじゃない。そうすると、もう一回やってみると違う方向にまとまってしまう。カッコよくなっちゃってる。

――考えてみるとこれはシビアな状態じゃないでしょうか。やる方も、それを突きつけられる聴き手も。

佐藤:うん、聴く方はシビアでしょうね。

――その人の音楽に対する考え方というのが出てくる。聴いて「まだ、不完全じゃないか」とか言って、切り捨ててしまうような人もいるでしょうし……。

佐藤:ぼくの理想としているものが100パーセント実現してしまったなら、コンサートの場では、もしかしたら拍手はもらえない状態になっていたかもしれない。みんな聴かないで、あっち行ったり、こっち行ったりして集中しなかったかもしれない。

――今のお話は、本質的な問題を含んでいるように思われますね。ハイラム・ブロッグが“ランドゥーガ”とかパット・メセニーを聴いて「ほー」っとうなったそうですけど、わかるような気がするんですよね。

佐藤:おかしかったのは、ディヴィッド・サンボーンが“ランドゥーガ”の前にリハーサルをやって、リハーサルが終わって“ランドゥーガ”が始まったら、彼はほんとうは涼しい部屋に戻って休むことになっていたんだけど、「これ、おもしろいから聴いていく」とか言ってマネージャーをイライラさせていたのね。  ずっとステージの袖で終わりまで聴いてた。そういうのがすごくうれしかったよね。ハービー・ハンコックも聴いてたしね。

――お客さんの反応は、どうだったんでしょう?

佐藤:難しいんだよね。ミュージシャンのところまでは、ぼくが考えていることはある程度伝わって、うまくいった面もうまくいかなかった面もあったんだけれど、聴く人は“ランドゥーガ”みたいなものを今まで聴いてないわけじゃないですか。  おもしろかったのは、日本人ではない人がものすごくストレートに反応してくれていた。  日本人は、ちょっとこっぱずかしいみたいな反応で、これをストレートに西洋音楽を聴いてるみたいに反応していいのかなという感じ。

――ぼくの後ろにいた人は「これ民謡じゃない?」なんて言っていました。

佐藤:民謡なんだよね(笑)。  「民謡だったら、やっぱり、もみ手の頭打ちの手拍子をしなきゃいけないのかなあ?でもリズムはなんかロックみたいなリズムだし、そっちはウラ打ちでのらなきやいけないのかな……」とかさ。  なんか、そう頭の中で引き裂かれるものがあったんじゃないのかな。

“ランドゥーガ”後遺症で コードを考えるのが……

――今の音楽というのはメディアが作ってしまうとか、逆に取り上げないと見向きもしないということがありますね。売れるものがおもしろい音楽だと思わせてしまったりとか。

佐藤:パッケージになって人の目につきやすい音楽って、やはりどうしても鮮度の落ちた音楽ですよ。  作って作って、何度も練り直して厚塗りしてね。そうしてきれいに作り上げた音楽っていうのは商品として流通に乗りやすいわけじゃない?  キュウリにしても、ちやんと形が揃って曲がってなくて、長さが同じものが流通に乗るでしょう。曲がったキュウリとかいうのは乗りにくい。  ほんとうは曲がったキュウリの方がたぶん味もいいと思うんだけどね。

――今回のハービーやメセ二ーにしても、そう意味で「曲がっている」ところがありましたよね。

佐藤:あまりよくでき上がり過ぎちやうと魅力っていうのがね。  中国で先祖代々象牙の玉を彫っている人たちがいて、まずいちばん外側に唐草模様みたいな透かし彫りを作る。次に彼の子供がその透かし彫りのすきまから内側にもうひとつ透かし彫りをする。今度は孫がまたその内側に……という具合に玉が4つか5つ重なってるのがある。  それは確かに驚くんだけど、じゃぁなんなんだって(笑)。  そういうのよりも、あの白隠禅師が筆に墨をつけて、ただの丸をひとつ書いたのを見てるほうが、人間の生命力とはどういうものなんだろうかみたいなものが伝わってくる。象牙の玉のほうからはあまり伝わってこない。

――なるはど。では、少し(話を)まとめようという意思を与えてですね……。

佐藤:それがいけない(笑)。

――つまり「合う」とか「ミスがない」ということは、いかに些末なことかということですね。

佐藤:そうなんですよね。  ただ大事なことは、合わせるとか合わせないとかいうのを無視した状態で、音楽を始めていいのかといえばそうではない。  これから音楽を始めようとか、音楽勉強してるという人がいるじゃない?そういう人が「合わせなくてもいいんだ」って思うと、これはまた違うんですよね。  ここがすごく大事なところで、商品として流通している音楽がなぜつまらないかといえば、合わせたりとか、アンサンブルとかいうものにあまりにもこだわっているからなんです。  だけど、そのことと音楽をこれから勉強したいという状態とは違った次元のことだから、そこを読んでる人は誤解しないで欲しい。

――これからジャズ研に入ってやろうって人が「合わなくていいんだ」って言っちやまずいですね。

佐藤:うん。合わせようと思ったらいつでもビシッと合わせられるんだけど、そこのところをあえて合わせないで、ぼかしてみるとかね。  定石としてはこういう定石なんだけど、それでは定石になってしまうから、ひとつはずして打つとか。それは定石の部分を完璧にしとかないとできない。

――たとえば、きっちり1拍半だけズラそうというのができなくなってくるとか。

佐藤:いつでも戻れるだけの心理的な余裕をもって、あえてズレる。そういう人が集まらないと、これはもう完璧にただ合ってないという(笑)。  オーソドックスに書かれた譜面でやる時でも、“ビッ”ってできるような人が集まってやっているというのがいいんじゃないですかね。

――みなさんもいろいろ考えてみてください、なんてね(笑)。  まぁともかく、今回の“ランドゥーガ”はいろいろあったと。

佐藤:もうほんとうに勉強になりましたよ。こんなに実りの多いプロジェクトはなかったですね。  でも困ったことにコードを考える仕事が、面倒くさくなっちゃった(笑)。

――後遺症(笑)で。

佐藤:後遺症。今かなり真剣に後遺症してる。  セレクト・ライヴ・アンダー・ザ・スカイのすぐあとも3曲くらいシンフォニー・オーケストラのアレンジの仕事があったんだけど、もう面倒だった。“ランドゥーガ”ならこんな譜面書かなくていいのにね、って(笑)。

■付録■
◎MAKING OF RANDOOGA〜リハーサル風景より〜
◎「鬱散・うっぽぽ」譜面1/2
◎「鬱散・うっぽぽ」譜面2/2
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