“ランドゥーガ”の源は、いったいどこにあるのだろうか?きっとそれは佐藤允彦という、ひとりのミュージシャンの音楽活動の中に隠れているはず。今回は、そのキャリアを遡ることで、”ランドゥーガ”に至までの過程を探ることにした。取材:久保田晃弘
――今回“ランドゥーガ”というプロジェクトをやるにあたって、伊藤多喜雄さんのアルバム作りの過程から、ある意味でインスパイアされたところもあると思うのですが、もっと佐藤さん自身のキャリアを遡ることで、いったい“ランドゥーガ”とどうつながっているかを聞かせてください。
佐藤:ぼくが日本音楽というのに興味を持ったのは……小さい頃ね、浪花節とか落語が好きで、柳家三亀松をよくきいていてね。新宿の末広亭や上野の鈴本演芸場に行って、いちばん前に座ったりしていた。三亀松が「三千世界のぉ〜」とかやってると、「こんなこと言ってるけど、そこのおぼっちゃんなんかわからないだろうねぇ。わからないような顔しているからいいけど、これが“お母さん、いいねぇ”なんて言うようになっちゃ、世の中おしまいだね」って、からかわれたりして(笑)聞いていた。これがだいたい日本音楽とぼくの出会いですね。
――その頃の全体的な音楽領域というのは?
佐藤:音楽領域は、FENでジャズをやっているのを心ある人たちは聴いていた。
――心ある人たちは(笑)。
佐藤:ジャズに関して言えば、ジョージ川口とビッグ4が日劇で・・・・・・という感じ。それと「トリス・ジャズ・ゲーム」というのもあったな。知らない?
――知らないですね。
佐藤:ロイ・ジェームスが司会していた「トリス・ジャズ・ゲーム」というのね。“有楽町ビデオホールからお送りします”っていうので、お客がリクエストしたものを何でも出演者がやっちゃうのね(笑)。
――それは怖い世界だな(笑)。
佐藤:そういう世界だったですね。まあ、歌謡曲はそこそこ流行していて……。
――FENで流れていたジャズというのは、どういうのがあったのですか?
佐藤:ぼくは全然わからなかったです。その頃どういうのが流れているか。中学に入るぐらいになって、やっとパット・ブーンとか、そういうアメリカン・ポップスが入ってきて、日本の歌手は全部そういうのか、歌謡曲を歌うかしていて、だんだんロカビリーとかになっていく時代ですよね。それはともかくとして、ぼくがボストンへ留学することになって、ちょっとは日本のこともいろいろ知らないといけないんじゃないかという気になった。その頃はアメリカ行くなんて、けっこう悲壮な決意があったんですよ。現在と違って1ドル360円だし、持ち出しの外貨も2000ドルに制限されていた……。ぼくは1966年の8月に行ったんだけど、その年の4月から法律が変わったかなんかで留学生試験を受けなくてもよくなった。それまでは英語の試験があって、その試験のために冬ごろから、会話とか文法をチェックするために、津田のスクール・オブ・ビジネスに通っていた。「ヤバイな、こんなんじゃ絶対受からない」なんて思いながら、ほとんど受験生のように勉強していたんだけど、ある日、一緒に行っていた友だちから「オイ、喜べ。受けなくてよくなったんだぜ」って言われて……。そんな時代でした。
――その前は、試験を受けないと海外に行けなかったんですか?
佐藤:観光の場合はよかったんだけど、留学するにはね。とにかくそういう時代で、ぼくは4年間の留学のつもりだったから「4年も日本を留守にすれば、日本も変わっちゃうだろうなぁ」と思って、京都や奈良に行ったりして、日本を味わおうとしていたら、ちょうど日生劇場で「オーケストラル・スペース」というイヴェントがあったんです。それは武満(徹)さんが中心になって、クセナキスや高橋悠治さんとかの大現代音楽連続コンサートで、武満さんの琵琶と尺八でやる……。
――あ、『エクリプス』かな。
佐藤:『エクリプス』か。それを日生劇場で聴いたんです。これはショックを受けたね。今まで自分がやってたマイルス・デイヴィスだ、ジョン・コルトレーンだなんてのより衝撃的なわけ。こっちの方がおもしろいじゃんってなって、一時は(アメリカに)行くのをやめようかなんて思った(笑)。でも、せっかく行くんだから、向こうでクセナキスとか、ポーランドのペンデレツキとか聴こうと。もうC7がどうのなんて世界じゃない。“ギョイーン”って世界だったから。その半年ぐらい前にソニー・ロリンズが来て……。
――あのモヒカン時代ですよね。ポール・ブレイがピアノで。
佐藤:そう。ポール・ブレイにはショックを受けたのね。でも、その比じゃないんです。今から考えると、現代音楽がものすごくうまく行ってた時期なんじゃないかと思う。
――そうですね。その頃から万博あたりまでが、おもしろかったですね。
佐藤:今、思えばね。ただ日本のものということじゃなくて、日本音楽というものにショックを受けた。伝統的な日本音楽ではないんだけどね。日本の楽器とか、そういうものは「すごいな」と思って、ハッとしたというのが初めてだった。それでアメリカに行って、バークリーでやってることは、だいたい自分で知っていることなのね。理屈はわからないんだけど、「こういう音の重ね方していたよ、日本で」という感じで(笑)、実際にやっていたことに理屈づけができただけという感じだった。学校の宿題とかもすごくやさしくて、それは適当にやっておいて、休みの日とかはアルバイトがなければ図書館に行って『コロッキー・アンド・レヴュース・オヴ・コンテンポラリー・ミュージック』という季刊の論文ばかり集めたような雑誌のバックナンバーをはじから、おもしろそうなところを拾い読みしていた。当時の先端のクセナキスがコンピュータと数学使ってやるのとかは、とてもわからないから、現代音楽あたりの、シェーンベルグか何かをフォローしておこうと思って頭に入れておいた。それでアメリカから帰ってきたのが68年で、万博は何年?
――70年です。
佐藤:帰ってきたら、けっこう日本のものに飢えていた。何かしなくちゃと思って、いろんな声明(★註1)のレコードを聴いたりしていた。そうしたら万博の時に、間宮芳生さん(★註2)が、
――間宮さんは留学する前からスタジオの仕事なんかで知っていたんだけど、怖い人で(笑)。何が怖いって、譜面が怖いんです。ジャズだからって言うから行くと、ジャズじゃない。全部“ビシー”と書いてあってさ。「これ、ちょっと待ってください」と言っても、「いいんだよ、だいたいで」と言うんだけど、書いてあるのに「だいたいで」というわけにはいかないじゃん。「すいません」とか言うと、「ああ、もう上等」とね。間宮さんは気に入ってくれたんだけど、こっちは行くたびに怖くて。「どんな譜面がくるんだろう」って……。そうしたら向こうから電話がかかってきて、「今度、万博のパビリオンの作曲をやるんで、一部を君に任せたいから、やってくれないか」と言われて、こっちは「えーッ」という気持ち。その後、間宮さんといろいろ話をするようになって、日本の音楽をずいぶん勉強できたと思う。その声明のこぶしをビッグ・バンドにしたのが『邪馬台賦』というニューハードに書いたもの。
――72年でしたよね、出たのは。
佐藤:録音は確か71年だったかな。その次に同じくコロンビアで、ツトム・ヤマシタが入って、これもニューハードで『ものみな壇の浦へ』。平家物語を1冊買ってきて、「耳なし芳一」に出てくる亡霊の気分で、ニューハードの人に、どこでもいいから適当に破ってもらって、それを自分の音程で、同じ音程で読む。「さーるーほーどーにー」って、お経みたいに読んでいくわけ。これが結構おもしろいんだよね(笑)。そんなことやったりとか。それから、日本音楽というわけではないんだけど、そういうものへの関心みたいなものとして、佐藤勝彦さんの書を見ながら演奏するという方法で作ったのが『観自在』。これもおもしろい経験だったね。自分の中の心構えが、ほんとうに日本風になっちゃう。西洋の臭いみたいなものが、どうしても自分のピアノから臭ってきちゃうのがあの頃イヤだったんだけど、それがまったく出てこない、というのがおもしろかった。それと芸術祭に参加するということで作らされた『六趣(りくしゅ)』というのがあるんです。これは義太夫(★註3)なら義太夫というものをイメージにして、音を作るとどうなるか。歌詞も義太夫というのは「あ」とか「お」とか、わりと腹の下の方から発する言葉が多いとかね、新内(★註4)だったら、「い」とか「え」とか、ダブル・リード楽器的なサウンドがいっぱい出てくる。不完全なものではあるけれども、そうやってアルバムを1枚作ったことがある。60年代の終わりから70年代の初めにかけて、日本風なものを続けて作っていますよ。
――『観自在』の後の『マルチ・スフェイロイド(多次元球面)』というのは、特に日本を意識したわけではないんですか?
佐藤:意識してないです。あれは3枚組のひとつなんだけど、いちばん最初が『観自在』で、2番目が『允(ゆん)』といってフリーを、とにかくスタジオにカンヅメになってガンガン弾いちゃう感じのヴァージョンで、3番目が『マルチ・スフェイロイド(多次元球面)』でフィード・バックを使うという…。あれは日本音楽に対する関心ではなくてフリーに対する関心。どういうものかというと、これはやっぱりぼくがバークリーにいた頃からの考えの延長なんだけど、音楽――インプロヴァイズとかパフォーマンスっていうものは、「考え」が入っちゃダメだと思ってたのね。自分のイメージと筋肉とを直結しなきゃダメなんだなと思った。たとえば、バークリーで初めに習うハーモニーの構造をピアノで弾くと、どういうわけだかサウンドがビル・エヴァンスになってしまう。それを発見した時はすごくうれしかったね、「おっ、これはエヴァンスじゃないか」って。じゃあ、これを自分の中に取り込むには、自分が変わるしか方法はない。自分の精神構造とか体質を変えるには、どうしたらいいかというと漢方薬みたいに飲み続けなきゃいけない。そうするとこれは練習しかないなってことで、そればっかり練習して1年ぐらいたって、やっとエヴァンスらしくなる。で、次の学期にやることでは何になるかというとマッコイ・タイナーなんだよね、これが(笑)。
――(笑)。
佐藤:やっぱりマッコイになろうとして練習する。もうちょっとして、ハーブ・ポメロイのライン・ライティングとかをやると、これがポール・ブレイなんですね。とっても乱暴な話だけど、色分けしてしまえばね。でも、やっぱりポール・ブレイするにはこれしかないなって感じで、その延長線上で、とにかく自分を変えるというのは、ぼくの場合には反復練習しかないんじゃないかなって思ったのね。つまり変わりたいと思ったら反復練習さえすれば変われるんじゃないかと。頭で考えたものを反復練習すれば、頭で考えなくてもできるようになるという非常に単純な、当たり前な結論に帰着したんだよね。ということは、フリーをやり続ければフリーになれるのではなかろうか(笑)。
――体から出てくるフリーをやりたい、と。
佐藤:そうなんです。それは山下洋輔さんとも同じ考えなんだろうけどね。彼の場合は徹底してるというか、もっと過激で……。とにかくぼくの考えた「やり続ける」っていのは、何年も何年もやり続けるってことで、彼の場合は一気に何時間も自分の中がカラになるまでやり続けて、そこから先に出てくるものが本当のフリーだよ、みたいな。でも、ぼくは考えないでやるといっても、事前に考えないのであって、やってる時はものすごく考えてる。考える極致をやらないといけない。彼とはコインの裏表みたいなもんなんだろうけど、最初に一歩踏み出す方向が正反対なんだよね。とにかく考える極致をやるというのは普通に考えていたら10秒かかるものを、極致までいくと何千分の1秒ぐらいで同じ結論に結びつけるようになって、これが自分の鍛錬にものすごく役立つことになる。それをそのまま5線紙に書けば
――たとえば詩人が普段しゃべってる言葉をそのまま書けば、全部詩になってしまうみたいな。そういう世界ってすごいじゃない。だから、ぼくもそうなれるんじゃないかと思っているけど、ぜんぜんならない(笑)。少しは近くなるかなという感じ。――そういう世界を作り出すというのは、立ち上がりの気合いなんですかね。
佐藤:うん、たとえば姜泰煥とやってるのは、囲碁・将棋の世界だよね。まず相手のだしてる音のピッチがどうなってるかとか、相手がやってることを全部把握するでしょう。それで、「どっちへ行きたいのかな」とかいうのを一瞬のハンドルを切る動作のように読む。その連続なんだよ、ぼくにとっては。日によって加速度のつきかたが、非常に遅くてかったるいってこともあるし、「どうなっちゃってるんだろうな」と、我ながら恐ろしく先が見えちゃう日もある。将棋をさす人で「見えない」とか「読めない」という時があるじゃない。それと同じなんじゃないかな。必ずしも体調じゃないっていうのもおかしくてね。徹夜あけで風邪っぽくて、ヨレヨレっていう時のほうがよかったりとか。よし、今日はやったろうじゃないかって行くと、もう空回りしちゃってダメとか(笑)。
――話は73年ぐらいまできましたね。
佐藤:73年ごろというと、がらん堂(★註5)とか。奇しくも“ランドゥーガ”の反対ですが……。
――『インスピレーション・アンド・パワー』(★註6)もこの頃ですよね。
佐藤:そう。
――ジャケットがよかったんですよね。
佐藤:フリーをやってたんだけど、(ちょっと年表を見ながら)『天秤座の詩』は70年ですよ。あれ『4つのジャズコンポジション』も方があと?70年ってなんでこんなに出してるんだろう?
――すごいですね、もう1ヶ月に1枚という感じで……。『パラディウム』で賞をとった次の年だからじゃないでしょうか?
佐藤:そうなのかしら。『センセイショナル・ジャズ』でしょ……。
――ヘレン・メリルの『シングス・ビートルズ』ってのもありましたね。
佐藤:うん、そうです。69年には何枚出てるのかな?気が狂ってるね。リーダー・アルバムじゃなくて関係したの全部含めると(と言ってひとつひとつ数え始める)19枚。
――スタジオに寝泊まりしてたんじゃないですか。
佐藤:ほんとうに信じられないな。ヘレン・メリルのアルバム(『スポージン』)は全曲アレンジしてるし、『サン・ホセへの道』ではストリングスとか入れて時間かけて書いているはずなんだよね。これじゃレコード売れなくなるわけだよな。70年は(と、また数え始める)19、20なんだこれ、21枚(笑)。何やっているんだろうね。
――すごい。2年間で40枚関係している。これなんか(年表を指さして)すごそうですね。
佐藤:これは富樫雅彦さんので『時』という。それで『スポージン』というのはヘレン・メリルとゲイリー・ピーコックとやったもので、これですっかりゲイリーに気に入られて『サマディ』を作ったんですよ。ヘンにフリーみたいなのになって、そこでぼくがどんどんゲイリーについていったら、「どうなってるんだ、オマエは」という話になって(笑)。それでトコちゃん(日野元彦)も入れて作りたいねということで、この『サマディ』ができた。ぼくはいまでも好きなアルバムですね。
――ぼくも好きです。
佐藤:やっぱりゲイリーさんって、すごいなと思ったね。『邪馬台賦』は1972年ですね。
――『六趣』では6曲書いたんですか?
佐藤:そう。日本の古典音楽と現代音楽。これを作るのに1箱LP聴いたの、日本の。それで何でフリーをしなくなったか、いちばんの大きな要因は富樫さんの事故だよね。富樫さんが確かこの頃でしょう?
――そうですね。『パラディウム』(69年)が、ドラムとしての富樫さんが聴ける最後ぐらいですね。73年からパーカッションとして再び活動を始めたんですよね。『スピリチュアル・ネイチャー』は75年でしたか。
佐藤:『スピリチュアル・ネイチャー』は75年です。その前に『インスピレーション・アンド・パワー』が73年。
――富樫さんの事故がきっかけでフリーをしなくなったというのは……。
佐藤:フリーをやらなくなったんじゃなくて何かきっかけがあったのかな、フリーをやらなくなったのは。73年あたりはフリーをやっているんですよね。富樫さんが復帰してきて『スピリチュアル・ネイチャー』とかやっているでしょう。『允』『観自在』とか『那由佗現成(なゆたげんじょう)』が76年ですから、やってるんだよね。だから、フリーをやっていないとは言えないんだよな、やっぱりずっとやっているんだ。
――非常にメンタルな問題ですね、やっていないと思ったりするのは。
佐藤:77年に『マグノリアの木』というのがあるんです。これは日本音楽という意識ではいっさい作っていない。宮沢賢治の本を1冊読んで、日本音楽をまったく意識しないで作ったら、結構日本風になっちゃった。自分ではすごくおもしろかった。人はどう思うかわからないけどね。その次に続編みたいな形で『涙のパヴァーヌ』という、すごくシンプルな17世紀ぐらいのフランスの流行歌みたいなものを自分流にやってる。これも西洋風なんだけど、自分で聴いてみるとすごく日本風に感じる。それでまた「あれ」って思ったんでしょう、きっと。その頃から「日本」というのを忘れたところで、わりと「日本」になれるかな?っていう考えがあって、あんまり「日本」を意識しなくていいんじゃないかという方向になってきたみたい。それが78年。それでちょっと話は飛んで、83年にナンシー・ウィルソンのレコーディングをやりました。その時はふたつぐらいナンシーのレコーディングをやっていて、どちらか忘れちゃったけど譜面を持って行って向こうで音を出したら、ぼくはニューヨーク風だと思って書いたんだけど、向こうが「すばらしい、イーストのサウンドがする」って(笑)。ぼくは逆にそれがうれしくて、やっと少し何かが実ったかなって思った。
――足掛け20年の反復練習ですね。
佐藤:そうですね。これからもずっと反復練習しますけどね。だから、そのバック・ボーンみたいなのは、自分で日本をどういうふうに感じているかを表現するというのは、伊藤多喜雄さんといろんなことをやる前に、かなりでき上がってたっていうか、そういう状態にはなってたのね。熟していたというかね。それまでは、日本というものをシャット・アウトしてたわけでしょう。70年の初めに『ものみな壇の浦へ』とかやっていた頃というのは「日本、日本」って騒ぎ回っていたんだけど、『マグノリアの木』とかナンシー・ウィルソンとかで、そんなことしないでいいんじゃないかと考えたわけ。1回そういうのから離れてみて、多喜雄さんのアレンジをする段階になって、日本の民謡ということに限定して考えてみると、民謡の中に西洋音楽を持ち込むことの危うさみたいなのを感じた。非常にデリケートな、たとえば尾瀬沼のような食物連鎖の生態系が成立しているところへ、ずかずかとブルドーザーで踏み込んじゃうみたいな感じがした。非常に安易に西洋の概念を持ち込むことがね。じゃあ、どうしたらいいのかっていう、自分に対するひとつの問いかけが、“ランドゥーガ”のコンセプトにある。こういう手段もあるんだという。もちろん徹底的なハーモニーの語法とか方法論を追究して日本に到達するという方法もあるし、それもひとつの道として、ぼくはやらなきゃいけないと思っているんだけどね。だから、“ランドゥーガ”が唯一絶対の道じゃなくて、ぼくがたまたまそこに通りかかった、ひとつの可能性であるという。
――こうやって経歴を見た時に、ジャズという音楽自体とてもフレキシブルだからこそ、日本音楽へのアプローチができたというふうには考えないんですか?
佐藤:ジャズって、ある種「ノリ」の世界じゃないですか。いろんな人との演奏を通して、頭じゃなくて耳から筋肉に直接フィード・バックしている間にできあがった自分のリズム感みたいなものっていうのは、たぶん別の経歴を経てきた他の人とは違ったものがあると思うのね。その点は。ジャズというものに感謝していますよ。
――結局ジャズ自体がR&Bとか、別の音楽のエッセンスを吸収してきてるから、そういうことをしやすい音楽であるという感じは持っていますか?
佐藤:持ってます。要するにジャズからみれば、いろんなものを自分の中に取り込んだというような感じだろうけど、ぼくは、どちらかというと今でもジャズのインサイドに入ったという意識はまったくない。常に心理的には、ジャズと一定の距離を保っています。どこかでこれは自分が心底踏み込んでいく音楽ではないなというか、踏み込んでもダメだなというか。たとえずっとアメリカに行っていても、インサイドに踏み込んだという意識には、ぼくはなれないな。うん。
――ナンシー・ウィルソンをやった時は、本当に日本をインサイドに感じたと。
佐藤:うん、だからこれでいいんだと思った。もう徹底的にローカルになることだと。徹底的にイーストのローカルになってしまえば、ある日突然、普遍的なところへ“パッ”と出られるかと思ったのね。
――アート・アンサンブル・オブ・シカゴも、そういうインサイド感覚で自分の音楽をやってますよね。
佐藤:うん、彼らはインサイド感覚ですよ。インサイド感覚になれる人はたくさんいると思う。パーソナルな問題ですよね。ぼくはなれない、どういうわけか。
――ジャズはほんとになんでも吸収して、その裾野を広げてきたわけですよね。“ランドゥーガ”は日本から初めてそういう意志を持ってやろうじゃないかと。
佐藤:そんな意気込んだものじゃないよ。いろんな感じ方する人がいて、その感じ方をひとつの方向に、なるべく狭いところへ閉じ込めて重ねちゃったらどうなるのか。また、それをしないとどうなるのかと考えてね。たとえば、共同体みたいなところで、みんなが何かしようと規則を決めて、「あんたこれしちゃいけない、これしなさい」という“ビシッ”とやる共同体と、「あんた別に働きたくなかったら、別に動かなくてもいいんだけど、ちょっと手があいたらそのへんの草1本抜いてよ」という、ゆるい、ルーズな関係の方が、気楽だし、お互い楽しいじゃない。そんなようなものなんですよ。だから、肩肘張って大上段に構えるつもりはないんです。ただ、結果としてこういう連帯の仕方もあったのかとか、こういう音楽のコントロールの仕方もあったのかということで、誰かがまたそういうことをやってくれるとか、そうなったらおもしろいだろうって思っている。ぼくはこの形態だったらいつでもできるし、曲だって簡単に書けると思うのね。
★註1:聲明(しょうみょう)=仏教の儀式で、僧侶が経文を歌唱して仏徳をたたえる音楽のこと。
★註2:間宮芳生(まみやみちお)=作曲家。1929年北海道生まれ。東京芸術大学、桐朋学園大学教授。民族音楽の視点から多くの作品を発表している。近著『現代音楽の冒険』(岩波新書)はプロのミュージシャンが読んでも、楽しみながらとてもためになる。
★註3:義太夫(ぎだゆう)=江戸時代、竹本義太夫が創設し、人形芝居と三味線の伴奏(浄瑠璃)が結びついて発展した日本の伝統音楽のひとつ。
★註4:新内(しんない)=浄瑠璃のひとつで、悲哀のこもった語りが特徴。江戸時代の二世鶴賀新内以降の呼び名で、吉原を中心とする街頭芸能[新内流し]として確立した。
★註5:がらん堂=佐藤允彦が主宰したフリー・インプロヴァイズ・グループ。1971〜73年。田中穂積(perc)、翠川敬基(b,cello)。1972年、モントルー・ジャズ・フェスティバル出演。後に加藤久鎮が加わる。
★註6:インスピレーション・アンド・パワー=1973年6月30日〜7月12日、新宿アート・シアターで催されたフリー・ジャズ連続コンサート。高柳昌行ニューディレクション、ナウ・ミュージック・アンサンブルなど、最も先鋭的なミュージシャンを網羅した。富樫雅彦の復帰後初コンサートでもあった。『時』はこの時のライヴ・レコーティング。