エイコ
chapter 01
「あー、つまんねぇ」
「あいつら、またやる気だぜ」
「ほんとだ。全然懲りてねぇよ」
耳を塞いでもなおかつ、体中を震わせている。音というよりは震え。薄暗い地下室の壁という壁を真っ黒に塗りたくったライブハウスで、ひたすら、とにかくひたすらに限界に挑戦しているかのようなスピードで、少しだけ高くなったステージでドラムを叩いているバンドに背を向けながら、エイコは店の隅でタバコを吹かしながらミクと床にしゃがみこんでいた。横に立っている客がステージ脇を指差して何やら喋っているのが聞こえた。何気なく視線をその指差した先に向けると、まだ刺激が足りないといった風な顔をした皮ジャンに鋲を隙間無く打ちつけた、見るからに「やったるでぇ」って顔をした一団がステージをすっ飛んだ眼でニヤニヤ笑いながら見ていた。
バンドは1曲が1分にも満たない曲を、それこそ2秒にも満たない間隔で次から次へと演奏している。ボーカリストははっきりとした社会的な矛盾を口にはしているのらしいのだが、リズムが性急すぎるのと、外への防音だけを考えた店の作りが災いして、何を歌ってるやら分からなくなってしまっている。そこへきて蒸し風呂様なこの暑さだ。いつもクールにかまえているエイコまでもが少々いらだっている。50人も入れば満員の店だが、今日はその半分も入っていない。にもかかわらず、この暑さだ。
「あ、やった!」
ミクが嬉しそうに叫んだ。
「やったるでぇ」の一団がピョンピョン飛び跳ねながら、かつまたブンブン回りながら、ステージに上がって、バンドと無理矢理一体化してしまったのだ。5人も上がれば立錐の余地さえないステージに4人のメンバーの倍以上の人間が上がってしまったのだから、ただでさえ暑苦しいステージはますます暑苦しくなり、ギターやらベースやらは演奏するスペースの確保もままならず、そのうちドラムセットは「やったるでぇ」とバンドメンバーの圧力で徐々に後退し始め、ギターアンプやベースアンプはたちどころに壁に追いやられ、マイクスタンドやマイクコードは逃げ場を失った蛇のようにのたうち回り、もう誰が演奏者なのか分からない状況に陥り始めた。そしてステージの外にいた人間誰もが予想していたように、機材はゴロゴロと音を立ててその狭いステージに倒れたのだった。この間およそ30秒。
もともと大した機材ではなかったが、それらは全て店の所有物であるがために、機材がゴロゴロころがった時と、店内の照明が一斉につけられ、PAのスイッチが落とされるのにたいした間隔はなかった。
「中止!」
店のスタッフが怒鳴り声を上げた。
「やってらんねぇよ。出るとこがないってゆうからブッキング組んだのに。え? どうしてこうなっちゃうわけ? え、度が過ぎてない? こういうの」
しかし「やったるでぇ」の一団はすでに姿をくらましていた。
バンドのメンバーはこの30秒間に何が起きたのかよく分かっていなかった。「やったるでぇ」の一団とは面識がなかったのだ。ボーカリストは何故責任が自分に押しつけられているかも理解できないといった顔をして、店員と言い争っていた。
すっかりと明るくなってしまった店内をエイコが見渡すと、カズミがニコニコしながらカメラのシャッターを切っているのを見つけた。
「カズミ」
エイコは声をかけた。
「今の見てた?」
「今の写してた?」
ミクがカズミに声をかけるのとほとんど同時だった。
「うんうん」
カズミはうなづきながら、パシャパシャとシャッターを押しながら答えた。
「いつもそうなのよね。必ず最後のバンドでこうなっちゃうのよね。あいつらきっと狙ってるのよ」
「狙ってるって?」
ミクが訝しげに聞くと、
「だって、チャージ代もったいないじゃない? 最初の方でやっちゃうと何も観れないじゃない?」
カズミは平坦に、それこそ平坦に答えた。
「それにあのバンドの事、あいつらきっと嫌いなのよ」
「?」
「言ってる事が」
「??」
「難しいからじゃない?」
ミクとカズミの会話はそこで途絶えた。店のマネージャーが声を荒げてボーカリストにまくしたてていた。
「今日のライブは終了! さあ、ノルマの20人分のチケットを払ってとっとと帰んな!」
「ねえ、カズミ。ここ最近、面白いライブあった?」
エイコは冷めてしまった珈琲にスプーンをつっこみ、グルグルかきまぜながら尋ねた。
カズミはいましがたのライブの様子をレポートにまとめている手を休め、
「ないねぇ。いや、バンドが面白いとかじゃなくて、今日みたいな付録が面白いってのはよくあるけど。企画自体増えてはいるけどさ、大体出演するバンドは決まっちゃってるし、客の顔ぶれも大して変わらないし。広がらないのよね、この手のシーンは。雑誌もバンドの音や企画の面白さじゃなくってさ、客やバンドの乱闘ばっかあおるしさ」
「アンタのとこのミニコミはどうなの? 結構その乱闘を面白がってるんじゃないの?」
ミクの質問にカズミは笑いながら、
「そうね、結局そうかもしれないね。やっぱ、全然つまんないもん。全部が」
「全部? 全部って?」
「エイコだってそうでしょ? 学校辞めて家を出てあの部屋借りるまでは、少しはワクワクしたでしょうが。でも半年もするとワクワクって色あせちゃわない? 私もそう。なんかさ、期待してんのよ、ミニコミでもやれば何か人生変わるんじゃないかって。具体的に何って事はわかんないけど」
エイコは冷めてスっぱくなった珈琲を口に含ませながら頷くでもなく頷いた。
「私らもバンドやらない?」
唐突にミクが言った。
「やれば……」
エイコは投げやりに答えた。
「バンドじゃなくってさ、そういうんじゃなくってさ、もっと違う事がいいな」
「違う事って?」
「カズミみたいな事。ううん、ミニコミとかじゃなくってさ。アンタ知ってるでしょ? 私が文章なんてまどろっこしいもの嫌いって事」
「じゃあ何よ」
「何かなぁ? 何やりたいんだろ? 私」
「こういうシーンにいて、バンドでもなく、ミニコミでもなく、一体何があるっていうの?」
カズミはまたレポートに向かいながら不満げに尋ねた。
「分かってりゃ苦労しないよ。なによ、アンタが人生全部がつまんないって言ったんじゃないの」
「分かった、分かった。お互い、人生まだ20年とちょっとだもんね。ゆっくり探してくださいな。ああ、忙しい」
カズミの手元にあるレポートはまだ、5行も埋まっていなかった。
駅のそばの24時間営業の、この喫茶店の時計が午後11時になろうとしていた。
「やばい! 風呂屋が!」
エイコはそう叫ぶと
「帰ろ」
そう言い、席を立った。
「待ってよ、私も帰るからさ。カズミは?」
「私はこれまとめてから、歩いて帰る」
カズミは顔を上げずに答えた。
「今度のはいつできるの?」
「来月の予定」
「特集は?」
「お祭り好きのおバカなパンク!」
「?」
「うそだよ。まだ決まってない。じゃあね」
エイコはミクをうながすと店から出ていった。ミクはあわててエイコの後を追いかけた。8月の肥満した空気が彼女達の背中で喘ぎながら笑っていた。