*「島宇宙」・・・社会学用語 (引用URL)|___ 社会学学者宮台真司の作った語・若者文化の細分化、ディス・コミュニケーション状態を表わしたもの。
前期 月曜3限
「現代社会と世代」課題レポートこのレポート中の「若者」はおもに15才から20代前半までを指す。
けれどもその範囲はきわめて曖昧で、言語上「若者」としているが、
そこにいわゆる「子供」が含まれることもある。しかしそれについては、
その「子供」個々により状況に大きく差があるゆえに明言はしない。*レポートの冒頭と末尾は演出である
情報は常に溢れ流れ、状況は分断され細胞分裂をくり返す。
世界は広がり近くなる。
バーチャルはリアルになり、リアルがバーチャリティを持つ。
夢も希望も許される 「許されている」いるという圧力。
「君たちは自由だ。無限の可能性を秘めている。あとは君たち次第なんだ。」
「問題は山積みだ。責任なんてとれやしない。だってぼく等のせいじゃない。
あの日 ぼく等は子供だった。「今」を作ったのはぼく等じゃない。
「ぼく」を作ったのもぼくじゃない。科学の進歩は速すぎた。
科学から、得られるものは全て得た。
「料理が好き」、そりゃそうだろう、後片付けは考えない。
だけど今、残っているのは「後片付け」だ。
ぼく等は他人の料理の後始末をしなくちゃならない。」
自然保護、リサイクル、
累積赤字、高齢化、北朝鮮、安保体制、学級崩壊、自給率・・・etc。
膨大な膨大なそれら。確実に、我慢と犠牲を伴うものへの努力。
「個性」は尊重されねばならない。
「個性」は「個性的」であることが望ましい。
「個差」は「差異」に過ぎない。みんなが個性を主張する。
色とりどりの街の中、ウォーリーはどこ?
「自分」を受け入れねばならない。
受け入れるには「受け入れられる自分」でなくてはならない。
「“自分”は変えられる!」「かくされた“自分”を発見しよう」
「本当のあなたはもっと素敵」「自分らしく生きよう」
〈ぼくの世界〉を守る 〜島宇宙化の示すもの
今、若者の島宇宙化がすすんでいる。
それは、若者の趣味や私的人脈が細分化され、
各々の領域は互いにテリトリーを保ちあい、壁を作り、
自らも決して他の領域に踏みいることはしない。
各々の領域ではどのような社会ができ上がり、
どのような世界が繰り広げられているかは外からはわからない。
なぜ、このようなことになったのか、それを検証していきたい。
家庭、学校、塾、バイト、駅前の本屋、
繁華街のファッションビル、インターネット・・・。
交通機関や通信網、社会状況の変化によって現代人の日常は、
場面・状況ごとに分断され、
各々の場面・状況が全く関係性を持たないことも可能となった。
そしてそれは同時に、
全ての場面・状況を完全に接続させることを不可能にしたとも言える。
その予兆は労働の場にあった。
かつては農家や地元で小さな商店を営む家庭も多く、
また、そうでなくとも働き手はたいてい住んでいる町の中、もしくは付近に職場があった。
よって、各々の活動内容は異なっても、
一つの家庭の中で互いに共有する文化も多く、家庭外での各々の顔も見えやすかった。
ところが、交通網の発達、第3次産業の成長、土地の機能分業・集中化により、
労働者は電車に乗り住居とはなれた場所へと勤めに出ることになった。
場合によっては長距離・長時間通勤で家にはほとんど寝に帰るだけという人も現われた。
このような変化にともなって、居住地域と産業地域を結ぶ沿線や
それらの路線が集中する駅近郊に労働者をターゲットとした飲食店や映画館などの
アミューズメントが出現した。
「都市」の誕生である。
労働者は、仕事仲間と、あるいは単独で、それらの場所へ行くようになった。
そこは仕事場とも家庭とも異なる世界だった。
家庭環境や社会的地位、役割はほとんど問われないそこは、一種の解放区だったかもしれない。
そして家庭や地元地域を行動範囲とする者と労働者の共有範囲は小さくなって行ったのである。
前者は地元というプライバシーを完全に覆うことのできない世界のみに属しているのに対し、
後者は職場、家庭(地元)、都市という3つの世界を所有することになった。
しかし、労働者というのは大人である。
彼等は労働者になる以前はやはり地元地域のみにおいて活動していたのである。
けれども現在、地元地域以外の世界を所有しているのは労働者だけではない。
郊外から都心に通う大学生やバイトに精を出す高校生はもちろん、
お稽古事に通う小学生、いや幼児までもが複数の世界を所有し始めたのである。
世界、つまり状況・場面が異なれば、同じ個でもそれに応じて演じる役割も異なってくる。
たとえば女子高生。家庭では子供として保護され、学校では生徒として管理され、
バイト先ではあたかも大人と同じように雇用され、
お店では消費者として接客され、街では女として誘われる。
また、同じ学校内においても学級にいる時と部活動の時とでは
活動の内容やそこにいるメンバーによって、意識的・無意識的に、異なる顔を見せる、
あるいは異なる評価を受けることもある。
体育系の部活に所属している子であれば、クラスでは「元気な子」と言われていても
部内ではおとなしいほうかもしれない。
このように、異なる場面が増えるほどそれに応じて表出する自分も増えていく。
かつては子供や学生にとって、最も生活場面としての比重が大きかった家庭も
現在ではそうではなくなってきている。
両親も共働きなどで家にいなかったり、
子供も学校から帰れば夜遅くまで塾やコンビニなど、家以外の場所で過ごすことが多くなった。
また、学校もかつては地元地域に密着して
子供たちの放課後を「生徒」として管理することができたが、
学区の関係ない私立学校に遠くから通う人が増えた今ではそれもできない。
よって、かつて絶対的だった「子供」「生徒」という彼等の立場は、
現在では絶対的でなくなり、かわりにさまざまな立場・役割の比重が増えていったのである。
増えざるを得なくなったとも言ってよいかもしれない。
つまり現在の子供・若者は生まれたときから絶対的な自分の立場・役割をもっていないのである。
また、近年叫ばれていた「個性と自由の尊重」がようやく最近になって実を結んだということか、
世の中には圧倒的な流行というものはなくなり、
どんな服装でも趣味でも、批判されるようなことはほとんどない。
引用・・・「自由、個性が認められ、各々の「表現」「好み」によって格好、
趣味は開放的になった。
けれどもゆえに、各々の「個」は多くの「個性」の中に埋没してしまう。
どんな「個性」も必ずどこかに似たような「個性」がいる。
「皆同じ」ということもなければ、決して「自分だけ」ということはない。」
[逸脱行動論課題 yuki@ゆき『逸脱したがる現代人』]より
加えて、次々に与えられる情報。
自分自身が経験・体験する前に、
マスコミや普段接する大人の社会により様々な情報・知識を得てしまう。
それは「今自分が持っている思考」がもしかしたら
他人の受けうりなのかもしれない、という不安・非リアリティーをつく出だす。
そして、与えられる情報や知識は、
世の中の変化に従い追い立てるように次々に新たなものが追加される。
これらの社会状況により、
現在若者は絶対的な自己というものを持つことが困難となっている。
一つの自己により、増幅し、拡大し続ける全世界をカバーすることは不可能なのだ。
仮に全世界に自己を創出し露出させても、いつ、もっと強大な他者の、
あるいは社会の自己に浸食されてしまうかわからない。
そして、何者にも侵されない、絶対的な自己を確立するために行きついた手段が、
たった一つの小さな「自分だけの世界」をつくることであった。
若者はそれぞれにその「自分の世界」を所有している。
そして誰もまた、よほど自分に合うものでなければ
「他人の世界」に踏み入ることはしないし、批判することもない。
それが、互いに「自分の世界」を守るための暗黙のルールなのである。
このように、現在に見られる若者文化の島宇宙化は、
「自己」の防衛システムなのである。
そして、この島宇宙化はどんどん広まっており、
もはや若者だけのものではなくなりつつある。
中高年に圧倒的支持をうける「相田みつを」に代表される自己肯定的癒し系文化の陰には、
やはり「絶対的自己の揺らぎ」の存在が感じられる。
けれども、この島宇宙化がどんどん進んでいったとき、
「島」だらけになって「海」という共有部分が失われたり、
おろそかにされるようなことがあってはいけないと思う。
どんな「島」にも「海」から供給されるものが必要だし、
それ単独で完璧な「島」など在り得ないからだ。
めんどくさい、どうしようもない、しょうがない。
おどろかない、抗わない、泣きもしない。
知っています。争えば、傷つくことも、傷つけることも。
知っています。踏み込めば、壊れてしまうものがあること。知っています。
それがぼく等のやさしさなんだ。
だって 先生言ったじゃないか、
「みんなで仲良く遊びましょう、仲間はずれはいけません」。
「つくり物」みたいなオープンカフェで、たしかに青い、空を見た。