巻頭言 (ぐんまの教育67 2011年7月発行)
ある日,突然 “巻頭を書くように”
と石橋さんが言うのです. エエッ <おとなのための科学の話>を書くのに精一杯なのに?
でもこれは,
もう先が永くはない私に,老いの繰り言を呟く最後の機会を与えようという「配慮」かと思い,石井節の最後の一席を撃(ぶ)つことにしたのです.
群馬へは, 登山でよく来ていました.
1969年, 山岳部の生徒を連れて, 谷川へ<ぼっか訓練>に来た時です. 急に, 心臓の具合が悪くなり,
ぼっかは別の顧問にまかせて一人で下山しました.土合駅の500段の階段を下りながら,これで山は終わりか,と思ったのです.一昨年から始めた,関東地方の境界を,湯河原から勿来まで歩き通す旅が,ほぼ半ばの谷川の手前まで来ているのというのに…!
主治医に “山は止めたほうがいいね”
と言われて “♪ 山よさよなら…” です.
この年,高校紛争で学校は大荒れでした.日ごろ, 授業中に居眠りをしている生徒から “お前(めえ)の話はわかんねーんだよ.わかるような授業やれよ!” とつるし上げられて, 私の授業は変わったのです. 生徒たちと一緒に実験装置を工夫したりして, 専らものを使って授業を進めるようにしたのです. 生徒たちはみんな,授業に参加し,協力してくれました. 私は<子どもたち と ものたち>から多くのことを学びました. そして, 物理がわかってきたのです. それまで,「理解していた」と思っていたことの,何とお粗末であったことか!
多くの実験が工夫され, 教材が増えていきました.
クラブから授業へ, 山から物理へ, とフィールドが変わったのです.
この高校は当時,千葉の県北では「抜群の」困難校とされていましたが,ある年,突然,千葉市の「屈指の」受験校へ転勤が決まりました. もちろん,そこでも, 授業の形式は変わりませんでしたが…. いやいや, そこはもので教えるタイプの学校だったから, 私は引き抜かれたのでしょう.
そんな頃, 科教協の中原さんに薦められて,<利根沼田教師と父母と子どものための自然科学講座>へ参加したのです. 1975年頃のことだったでしょうか.
ところが, 群馬理科サークルの連中とは,
何故かウマが合って,それ以来,月例会へは毎回参加,長い永いつきあいになったのです.
何と35年もの。
1995年, ぐんまの教育の巻頭に<自然科学で戦う>を書きました. 2011年の今回,
2度目の巻頭<あなたも科学者です>を書くことで, 言いたいことは, ほぼ言い終えたことになって “♪
群馬よさよなら…” となるのでしょう.
理科の授業は, 生徒の, 年(よわい)・質(たち)・性(さが)などに関係しません(日本語は表現に幅がありますネ). 幼・保,小・中・高, 多分,
障害児でも,大学生でも,基本的には変わりはありません.理科教育での教師の仕事は<もので学ぶ雰囲気を作ること>です. 敢えて言えば, あとは生徒にお任せです.
人間は生理的に, ものへのはたらきかけを心得ています.乳飲み子でも,認知症の老人でも…,みなそれなりの仕方でものへ係わります.
前回の群民研の全体集会は理科サークルの担当でした. みんなで実験をしたあの賑わいを思い出してください. 一人一人が, それぞれの姿で, しかし,
自ら進んで, みんなと一緒に…,
ミスして失笑し, 発見して歓喜し,
意見やアイデアを交換ながら, もう,
時間なんぞそっちのけで, …,これが学習なのです.
私たちはこれを<遊び>といいます. 遊びは自由で闊達で, 発展的で創造的で,非目的的で, …,このようなフリーな行動は, ゆくゆくは各自の生活習慣ともなるのです.
群馬理科サークルの月例会には,毎回,誰かが,何かを,
持ち込みます.そして,みんなでもの作りをして遊びます.理科は手で,時には足で,
更に云えば,からだのあちこちを動かして学ぶのです. 五感をフルにはたらかせて遊ぶのです.
ヨモギ餅五感で遊ぶ小半日
こんな「俳句」を詠んだことがあります.朝,近くの河原へよもぎを摘みに行きます.若草の色(いろどり)と香(かおり)と触(さわり),餅に搗かれるあの音(とよみ)と,とどのつまりのあの味(うまみ)と! (ちなみに,電気餅つき機は優れた道具ですヨ)
でも, ウチノカミサンは言うのです. <ヨモギの粉, スーパーで売ってるんだよ>. やがてはこうです. <くさもち,和菓子どころに出てたよ>.
手製の実験器具は発展的です.いろいろ改良されて,変化していきます.材料からも刺激を受けます.
こうして, 生徒と一緒に,
しみじみと遊んでいるうちに, ものの本質と生徒の認識が見えてくるのです.
授業では,ものと係わっている生徒のつぶやきを, どれだけ聞き取れるか, が指導教師の力量です.
“客とどれだけ係わり合えるかが勝負だ”と.落語家の誰かが言っていました.
理科では,ものから,つまり自然から,じかに見聞きする習慣と技術を身につけることが学習です.者(権威)からではなく,
物(自然)からです.
時代は変わりました.情報はネットからいくらでも引き出せます.しかし,この種のデータは,誰かの頭を経てきた事柄(言柄?)なのです.
座ったままパソコンとケイタイで「勉強」することは, 文字通り,某(なにもの)かから,ツトメル(勉)コトヲ,シイ(強)ラレル ことになりかねません. 情報の怖さを, 戦中派は経験済みです.
考えることは, 考えさせられることと,
紙一重なのです.
理科の学習は,未知の世界を開拓する自然科学者の研究に似ています.最先端の世界では,研究者たちは,それまで,
誰もが見聞きしたことのないエトヴァスを,ものの中から掴み出そうとしています.そこには,論文やテキストはありません. あるのはものだけです.
ものを通して知る姿勢は, この意味で生き方なのです. 生活哲学なのです.
ものに尋(き)いてわからないことはない―現在わかっていないことも,
やがてはわかるようになるに違いない―という物質観・世界観の世界には,
不健康な観念論―科学にだってわからなことがある―が立ち入る余地もありません.
このような観点に立つ理科の教師は, 優れて,
自然科学者なのです.このことを体得した者は誰もが,子どもも,あなたも,科学者なのです.
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