理科実験を楽しむ会
もっぱら ものから まなぶ石井信也と赤城の仲間たち 

サイタ サイタ サクラガ サイタ        2010年3月21日

 

 

 19456, 当時16歳の私は, 海軍兵学校予科生徒として大村湾の一角にいました. 4月に入学して間もなく, 空襲が始まりました. 夜中の空襲で,裏山に退避するとき, 山の端の赤い空を見て“あの方角は長崎だ”と誰かがいいました. そこから長崎までは直線距離で約30kmでした.

  7月に入ると突然, 生徒数4000余名のこの学校は, そこから山口県の防府へ移転しました.しかし,ここでも空襲が烈しく, そのため睡眠不足に加えて, 食料の質の低さと, 衛生状態の悪さのためか, 学校に集団赤痢が発生しました.ビア樽をこもで囲った架設便所のまえにも行列ができていました.“広島に一発の強烈な爆弾が落とされた.強い熱と光を出す爆弾だ.後日,白と黒の布を配るので,命令に従って布を被れば,それを防ぐことができる.恐れることはない” その直後,ここの生徒館(兵舎)は,艦載機の空襲を受けて, その大半が焼失しました.“長崎にも同じ爆弾が落ちたそうだ” という噂が(情報管制が敷かれていたのですが),焼跡の後始末をしている私たちの間に流れていきました. 白と黒の布は配られませんでした.

  よく聞き取れないラヂオ放送で<終戦>を知らされた後,学校の内部にはいささかの混乱はありましたが,やがて復員命令が出て,私たち生徒の帰郷がはじまりました. わずかな食料と金銭,それに毛布一枚を携えて,無蓋の貨車に乗り込んだ私たち全員が赤痢患者でした. 赤痢という病気はひっきりなしに便意を催すので,走っている貨車の外に出て連結器を足場にし,両側の貨車にぶらさがってウンコをしました. 順番待ちで貨車の中で, ぐったりと横になっていても,汽車が停まる気配を感じると,みんな跳び起きて貨車から跳び降り,線路横に並んでウンコをしました. 汽笛が鳴ると, みんな貨車に跳び乗るのです. そんなあるとき, 用をたし終えてから, 回りをみわたすと…  そこはヒロシマだったのです. “恐れることはない” という爆弾の落ちたヒロシマだったのです.

  “軍人は東京へ帰ると<アメリカ>に殺される”という噂が流れていました.この無蓋貨車の復員列車は, 東京を経由して更に北へ行くことになていたようです.全国から集まった生徒を, それぞれの出身地へ, 送り返すためのものなのです.千葉中からは, この学校に数名のものがきていたのですが, みんなばらばらになってしまっていました.私は母の故郷である長野へ, ひとまず落ち着くことにしました.

 どこかの町で,もっていたお金の全部を渡して, にぎりめしをつくってもらったこと,どこかの駅で窓から乗り込んだら,それが二等車であったこと(当時の列車には一等, 二等, 三等の等級がありましたが,勿論,この時は無賃でした),などの記憶が断片的に残っています.小学校4年のとき,母方の祖母の葬儀で来たことのある記憶を辿って,岡谷の伯母の家に転がり込んだときには,身体はすっかり衰弱していたようです.気が張り詰めていたので,それほどに感じていませんでしたが,後日,伯母がそのときのことを話してくれました.

 千葉の実家が無事であること,東京は安全であることがわかったので,病気がよくなってから千葉へ帰りました.千葉中に復帰したのは十月だったと思います, あの美しかった校舎が, すっかり荒れ果ててしまっていたのが悲しいことでした.<変身>した先生への不信と不満が生徒の中にくすぶっていました.

 航空機関係の仕事をしていた父は,戦後失業していました.祖母,両親,兄弟4人の家族の家計がピンチでした.母は, 近くの農家で仕入れた野菜を行商していましたが,私も手伝いました.始発の電車で新橋まで荷を運び,駅前広場の<闇市>で荷を解くと,にんじん,ほうれんそう,さつまいもなどの野菜は, またたくまに売れてゆきました.それからでも,学校の授業には間に合いました.そして,三月には,何の感動もなく千葉中を卒業しました.

 卒業後,NHKに就職しましたが,すぐに,職業軍人ということで<公職追放>にあいました.<お国の為>ということは,そういうことだったのです.職が探せないまま,暫くはぶらぶらしていました.同じく兵学校帰りで, 佐倉中に復帰していたHさんという2年上級の友人が近所にいました.松本高校(旧制)の一次試験に合格していましたが,どうせ二次に通る筈がないと決めて,夏休みに入る直前,代用教員になっていたのですが,休みあけに合格通知がきました. その後釜に,私は収まることになったのでした. (このものには)思想に危険性がない>ことを証明する学校長のハンコ一つで,16歳の小学校代用教員ができあがりました. すぐに,生徒にやらせたことは,教科書に墨をぬらせることでした. Hさんは,翌年,帰宅していた自家に忍び込んだ泥棒をとり押さえて,逆に刺されて死にました. 

  私は1930年の生まれです.15年戦争が始まった年です.小学校に入学すると,すぐ,<サイタ サイタ サクラガ サイタ><ススメ ススメ ヘイタイ ススメ>を習いました. 一年の担任は,途中で出征していきました. 中学年では,退役上等兵の先生が担任でした. 軍隊の話をよくしました. アカという人間が樺太(当時, 樺太は日本の「領土」でした)にやってきて,女,子供をつかみ殺す, というオドロオドロシイ話を,お化けより怖いものと思ったものです.

  128日は良い天気で,明るい二階の教室でF1(C1だったかもしれない)というグライダーができあがりつつありました. そんなとき,先生が教室に入ってきていいました. “日本はアメリカやイギリスを相手に戦争をすることになった. みんなも一層頑張らねばならない” 窓から飛ばした私のグライダーは初冬の空を校庭を横切って飛んでいきました.

  軍国主義教育一色の中にあっても,子供たちは大人から離れたところで,自分たちの世界を持っていました. いわゆる,ギャング集団です. 羽田の島は子供たちにとっては天国でした. 葦に侵略された休耕田の湿地は, 子供たちのよい遊び場所でした. そこは, ヤンマ, フナ, ウシガエルと, ケケチ(オオヨシキリ)の世界でした. 周囲の海と川(多摩川)は潮干狩と釣りと水泳の場でした. ハゼとノリとオオノガイは佃煮屋で高く売れました. ベーゴマと, メンコと, ビーダマなどの博打(と呼ばれていた)は先生とお巡りさんの目を盗んでやりました.

 中学に入学すると同時に, そのギャグ集団からも卒業します.中学生はもう「大人」なのです.父は日立で航空機のエンジンの整備をしていたので,職場が羽田から蘇我へ変わったのを機会に, 家族も千葉へ移住しました.もっとも,千葉は本籍地でした.私は3年の春, 千葉中に転校しました.初めて登校した日, 転校生たちは, 上級生に呼び出されて「洗礼」を受けました.転校生の誰かが,因縁をつけれられるようなことしでかして, こういうことになった(なることになっていた)のです.要するに,“新参者はデッケーツラスルンジャネーゾ ” ということのようでした. 「この学校」の校門の坂を, 私はきついと感じたものです.ただ,東京のど真ん中の, ごみごみしたところにあった学校と比べて, この緑の中の学校は, すっかり気にいりました.校門脇の桜が美しく咲いていました. 

 If one askes me what is soul of Japan, I will say nothing but point at the cherryblossoms blooming to the sun in the morn.

  これは千葉中に転入して, すぐに習ったリーダーの一部で, 短歌 <敷島の大和心を人とはば,朝日に匂う山桜花> の英訳です.(英文は, 当時の記憶によるものなので, 誤りがあるかもしれません)

 千葉中での生活が二,三ケ月すると,動員が始まりました.動員というのは,授業を休んで奉仕作業に出ることです.県営球場を耕して芋畑にしたり,下志津原を飛行場用に整地したり,補給廠で物品の整理をしたりしたものです.やがて,通年動員に入りました.私たちの学年は,船橋の日本建鉄に決まりました.私の所属は<原図>というところで,飛行機の部品を原寸で製図する仕事でした.毎日,床にへばりついて,烏口でベニア板に線を引いていました.鐘旭(0戦,隼,鐘旭などは日本の戦闘機の名称です)のエンジン・カヴァーや隔壁などを描いたりしました.そんな生活の中の楽しみの一つは, 週に一回の化学の授業でした.食堂で先生の話を聞くだけのことでしたが,私たちは学問に飢えていたのです.勿論,食い物にも飢えていました.動員に出ていても, 学校には授業料を払っていました.仕事の報酬をもらった記憶はありません.ただ,昼食の食券は支給されました.おかずには,よくイナゴの佃煮などがでました.だいたいそんな程度の昼食でした.たまに,乾燥バナナが特配されたりしました.

  当時こんな歌が歌われていました.<貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため> そんなある日,海軍兵学校の生徒募集の知らせがあったのです.広島まで受験に行って,その結果この学校に入りました.

 15年戦争の15年を子供の時代として成長してきた私が,その間に社会から学んできたことは,敗戦の時点で全面否定されたのです.“本当はそうではなかったんだが…”なんて言われてもどうにもなりません. “ご破算で願いましては…”といわれても,そろばんのように,さっとクリアーできないのですよ,人間は.

  大人の言うことを鵜呑みにしてはいけない,判断は自分でしなければいけない,子供の私が学んだ唯一のことが,このことでした. もはや,学校から学ぶものは何もないと判断して,私は千葉中を4年で卒業してしまったのです.

  軍国主義教育の「成果」を払拭する戦いが, 大袈裟にいえば, その時点から始まりました.例えば,些細なことですが, <サイタ サイタ>から始まって<soul of Japan>から<同期の桜>へと続く流れの中で, 私の内に定着した≪桜観≫を変えるのに, どれだけの時間がかかったことか.

  そして, この期に及んでも, まだ, 軍国主義教育の後遺症が, ある日, ひょっこり首を持ち上げたりして, ギクッとすることがあるのです.                                                                        

                                                

 

  この年, 私は県立千葉高分会の分会長をしていました.

  "学校平和宣言を出そう" という提案は実を結びませんでしたが, それに代わって, 年配者が,<十代の時に戦争があった>というテーマでその経験を書いて,生徒諸君に読んでもらおうということになりました.

  学校長を始め九人の教員が本文を書いて,36ページの冊子を作ったのです.

 前文を誰が書いたか,費用がどこから出たか,これがどのように使われたか,などは記憶にありません.

  毎年,桜が咲くと,この文章を思い出します.

  以下は前書です. 

 

  

  平和への思いを

 

 戦争体験が風化しつつあると言われています.私たちの千葉高においても,あと三年もしないうちに,戦争の悲惨さを, 鮮明な記憶とともに体験した先生方のほとんどが, 教室を去ってしまわれます.

 戦争を知らぬ世代は, とかく, 体験者の話を, 自分とは関わりないと遠い過去のできごとととらえたり,あるいは「くどい,もうわかっている」といった, 不遜な態度で受け止めがちです.

 しかし,42年前までのことは,その後も、 一本の棒のように時代を超えてつらぬき,今なお暗い影を落としている現実があり,死をみつめた体験者の極限状況は, 私たちにはどうしたって「わかる」ことのできないものだと思います.

 私たちはまずそのことを謙虚に受けとめ,あの理不尽きわまりない時代を生きた人のことばに, 静かに耳を傾けるべきでしょう.

 このたび,そのような,時代を経験された先生方が, 誘い合い励まし合って,思い出すのも忌まわしい戦争体験の手記を, 君たちのために綴ってくださいました.みぢかな先生方が, 君たちと同じ青春時代をどう生きたのか,その悲しみと痛みを,憤りと絶望感を,そしてわずかではあってもきらめくような希望の心を,できる限り感じ取ってほしいと願うものです.

 なぜなら,私たち戦争を知らぬ者は,そのような心の共感を可能な限り高め,人間らしく生きたいと,切望する以外には,やがて訪れるかもしれぬ戦争の動きに,全世界を破滅に導く「核」の脅威に,立ち向かうことはできないからです.

 静かな秋の日のひととき,「平和」についてじっくり考えてほしいと思います.                                                                                                                  1987930

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