理科実験を楽しむ会
もっぱら ものから まなぶ石井信也と赤城の仲間たち 

どうして物理の教員になったか                    2010年2月21日

 

 

  1930年生まれ, 軍国少年に育って,<西部戦線異常なし>の雰囲気の中で,海軍兵学校に入り,5ケ月後に敗戦.

 学校は集団赤痢蔓延の状態で解散,無蓋貨車で帰途につく.順繰り連結器の上での排便を繰り返している内に列車が止まり, 皆一斉に跳び降りて線路脇に並んで排便し終わると…,そこは広島駅であった!

 東京へ行くと殺されるという噂があって,母の実家の長野に滞在, やがて, 状況が落ち着いた半月後に実家へ帰る. 

 敗戦で世界は変わった.大人たちが変わり,先生たちも変わった.もう,学校からは教えを受ける何ものもない, と判断して4卒し(学制改革で中学の履修には幅があった), NHKに就職して千葉支局で仕事をしていると,本社から呼び出されて,職業軍人であるという理由で公職追放,早生まれの私は, 多分, 最年少のパージだったのだろう.

 自宅でブラブラしていると,隣町の小学校から声がかかった.召集された男先生が,まだ,帰国されないままに,学校の現場では男手が不足していたようだ.見も知らぬ校長さんは<思想穏健>云々という適格審査証を書いてくれて,パージされた人間が代用教員になった.

 16歳の教員は,高等小学校高等部の1314歳の生徒を教えた. 学校では, 教科書に墨を塗らせたり,甘薯や米を作ったり,理科の実験で遊んだり, 地域の工場見学をしたりした. アメリカ直輸入のコアカリキュラムが全盛であった. 自分が数年前に受けた小学校の教育に比べると, 何と自由で, 楽しい世界であることか. 

  しかし,やがて,男先生たちが復員してくると,代用教員はいらなくなるのだ.

 資格を取るためには大学へ行かねばならない.中学の同級生の大部分は5卒し,またその一部は,新制高校の3年に編入したりして,旧制や新制の大学に進学していた.

 4卒の私には大学への進路も閉ざされていた.そこで,新設されたばかりの<新制大学受験資格検定試験>, 今の大検を受けて,東京理科大の二部へ通うべく,総武線沿線の小学校へ転勤した.資格を取るための大学であり, 最も人間くさくない,ものの世界の物理を選んだのだ.

 はじめのうちは,そこそこに通学していたのだが, 当時, 世間では新制中学の評価が低く, 都市部の小学校では, 卒業生の多くが私立中学への進学を希望していて, 高学年担当で受験指導が多忙になると, 大学へ行く日数が減っていった.

 しかし, 「幸なこと」に, 大学には長期に亙る紛争があって,たまに学校へ行くと,一部(中間部)の学生が入り口をガードしていて,学内にも入れない状況であった.こうなると,後楽園で, プロ野球のダブルヘッダーの2戦目を見て帰る,なんていうことになるのだ.

 受講表を出した科目については,殆どがリポート提出で単位が取れた.友人から借りたものを,まる写しして提出すると,みんな合格で卒業ということになった.

 ところが, ここの大学は出ても,小学校の教員資格はとれなかった.得られたものは,中・高の理科・数学の免許証で, やむなく,私は小学校をやめ, 高校の物理の教員になったのだ.                                                                                                                                                                               S..                   

 

 横浜物理サークル(YPC)へ行ようようになって、2年目になりました。

 会員は、会報の巻頭に、教員になった理由を書くことになっています。

 今回、私の順になった(?)ので、上記の文章を書きました。                                 


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