おとなのための科学の話(その2) もっぱら ものから 学ぶ
07年9月1日
1 ホームページを立ち上げる
群馬理科サークルとおつきあいするようになってから、かれこれ30年になります。その間、私たちが学んできた事柄を、この辺で記録に残しておこうと思って、昨年末にホームページを立ち上げました。タイトルは<もっぱら ものから 学ぶ (MMM) 石井信也と赤城の仲間たち>(http://sound.jp/oze_isihi)です。久保隆志さんに手伝ってもらっています。
毎週木曜日が更新で、サークルの学習内容を主テーマとし、コーヒーブレイク的に理科や教育に関わる「俳句」を載せています。例えば
夏座敷団扇(ウチワ)で蝉を聞いており
夏座敷・団扇・蝉と、ダブルの季重なりで、俳句としては褒められたものではありませんが、夏の気分がムンムンしているところが気にいっています。
これは、或る物理学者の随想です(*1)。
読書中、庭から蝉が聞こえてくるので、手にしていた団扇を耳の近くで回してみると、よく聞こえる角度がみつかったのです。彼は団扇を手鏡に持ち替えて、最もよく聞こえた箇所で、鏡の中を覗き込んだら蝉が見えたというのです!音も光も同じ反射の法則に従うという物理的面白さは絶品です。
私の「俳句」は<ものそのもの、ことそのこと>を、短く記述することを狙っています。俳句の素晴らしさはその短さにあります。
2 星の王子さまのキーワード
<星の王子さま>は寓話や箴言に溢れています。
その一つとしてアプリボワゼというキーワードで表現される「ことども」があります。この単語は1つの章に16回も出てきたりして、17種の訳本の中で、15の異なった訳がつけられているといわれます(*2)。
著者はこの言葉に、人間関係の本質を示す新たな意味を与えています。
apprivoiser を辞書でひくと、[動詞]:動物を飼い馴らす、馴(ナジミ)になる、絆を結ぶ、懇(ネンゴロ)になる、こちらからはたらきかけて仲良くなる、(特に精神的に)良い関係を築く、などがありました。
王子さまが、自分の星のバラ(妻がモデル)と、地球のキツネと、作家のパイロットと、砂漠の井戸水と、アプリボアゼすることが重要なテーマになっています。それらは、植物であったり、動物であったり、人間であったり、時には非生物であったりもします。
次は、王子さまとキツネの会話の一部です。
”<飼いならす>って、それ、なんのことだい?”
”<仲良くなる>っていうことさ”
”仲良くなる?”
”うん、そうだとも、おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃほかの十万もの男の子と、べつに代わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくなったっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくなったっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいには、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ…”
3 アプリボアゼの私的解釈
筆者はこの「用語」を更に拡張して使用することを提案します。その例の一部を以下に示します。
○ 理科を学習する者や、物質を研究する者は、ものにアプリボワゼすることが、最も重要なことであると思われます。
”真理は誰でも、相手を愛を込めて「飼い慣らし」さえすれば手に入れられるものだ”とは、或る学者(英国)の言葉です(*3)。
一つのものと<全感覚でつき合い>ながら、ものの内なる<多彩な面を切り開いて>、更に内なる<エトヴァスに迫っていく>こと、これが、私のアプリボアゼの解釈です。
○ これをキツネは<心の目で見る>といいます。
”さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ、かんじんなことは、目に見えないんだよ”
○ 乳児、幼児はまさにこのような形で、ものにアプリボアゼしています。眺めて、聞いて、匂いを嗅いで、手で握って、口で嘗めて、<ものから直に学んで>、世界を自分のものにしていきます。
○ それが、です。人間は大人になると、手足を動かして<ものに迫る>ことを怠り、座ったままネットやケーターイで「わかった」と思って「済まして」しまいます。頭で、理解したと錯覚するのです。
ものからではなく、教科書などの文字や絵から「学ぶ」のも同じことです。一度、誰かの頭を通した情報は、ものの情報ではなく、ひとの情報なのです。そしてそれらは、時には、目的的に脚色された、政治的・経済的情報であったりもします。
○ 滴りに出会うて砂漠美しく
8日間の水がつきたぼく(パイロット)は、王子さまと一緒に井戸を探しあて
”井戸を目覚めさせて歌わせ”ます。砂漠の井戸水は二人にとって、かけがえのないものなのです。
彼はぼくにいいます。
”水は心にとっても、良いものかもしれない…(*4)”
ぼくは彼にいいます。
”家でも、星でも、砂漠でも、きれいに見えるのは何かを隠しているからなんだ!”
○ サリバン先生がヘレンに、水をアプリボアゼさせるときのことを、思い出してみましょう。片方の手に冷感と圧感を与えている<もの>と、先生の指が他方の手を「擽(クスグ)っている」<こと>との同一性(identitiy)を、ヘレンが<心の目>でつかみ取るときのシーンは感動的でした。温感、圧感、痛感、擽感(レキカン?)など、皮膚感覚を総動員して、ものを「見聞き」するのでした。
○
子どもや障害者の理科学習は、物質探求する科学者にとって、常に教訓的です。”ものの前では教師と子どもは対等である”というテーマはすぐれて教育的です。大人は、特に教師は、知的教養で目隠しされ、真実を見る「子どもの目」を失ってしまっているからです。
○ この辺のことから、著者のサン=テグジュペリは、友人レオン・ウェルトへの本書の献辞を、<子どもだったころのレオン・ウェルトに>と書き改めています。星の王子さまが「おとなのための童話」でもある所以です。
○ 以下は、王子さまが蛇に噛まれ(噛ませ)て昇天する時の描写です。
”王子さまの足指のそばには、黄いろい光が、キラッと光っただけでした。王子さまは、ちょっとのあいだ身動きもしないでいました。声ひとつ、立てませんでした。そして、一本の木が倒れでもするかのように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから”
ここを”あたりが、水だったものですから”と読み替えてみます。
彼は、1944年7月31日、敵軍の偵察に基地を飛び立ったまま消息を絶ったのです。
1998年9月、彼と彼女の名が記されたブレスレットがトロール船により、そして、
2000年5月には、飛行機(ロッキードF-5B
サンテックス機)の残骸がダイバーにより、地中海のマルセイユ沖から発見されました。
生涯にわたって、サン=テグジュペリがアプリボアゼしたものは、妻のコンスエロと飛行機でした。
4 卵を立てる
中学1年の時です。同級生の一人が私を科学博物館へ連れていってくれたのです。
ボタンを押すと、横になっていた卵がゆっくり回りだし、そして、やおら立ち上がるという実験装置の前で、足が止まりました。何度ボタンを押したことでしょうか。博物館を出て上野駅で彼と別れると、私は、とって返して、再び、その装置の前にいたのでした。
立春や卵立てるを業として
16歳で敗戦。”学校(ガッコ)の先生(センセ)は、いやいや、大人は、みんな嘘をつく”という人間不信から、<ものの世界>を仕事場にすることに決めたのです。ものの運動の一つとして、回転もその埒の内ということで、奇しくも回る卵が守備範囲になったのでした。
空の卵の中にスチール・ウールを詰めたものは、交流数アンペアのコイルの中で回り続けます。本来の実験では、スライダックというトランスで、100ボルトの交流電圧を数ボルトに下げ、数アンペアの電流をコイルに流して実験するのですが、スライダックなどというものは、「そんじょそこら」にはありません。そこで、どうしたかというと…、
家庭電源は100ボルトなので、700ワットの電動ポットには7アンペアの電流が流れることになります。
簡単には、数十回巻いた針金の中に薄いせとものの皿を置き、丸めたスチールたわしを乗せて、チョット回してやると、見事に回り続けました。特別な装置は何もいりません。
これなら、いつでも、どこでも、誰にでも、実験できるでしょう。実験の費用は3〜400円で…、ウウッ?! 突然、それは止まってしまいました。ポットが加熱から保温に変わって、電流が弱くなったのです!
丸めたスチール・ウールを回すと、隣のトトロの<まっくろくろすけ>を彷彿させて楽しいのですが、卵の殻に入れた方がより面白いのは
”コロンブスとは別の原理で卵を立てる”という視点があるからです。
モノは動くと「世界」が変わります。卵は回ると立ち上がる(運動の多様性)し、電場は磁場に変貌する(電磁気学)し、音は高さが、光は色が変化する(ドップラー効果)し、時間や空間は測度が変わる(相対論)のです。
「立春の卵が立つ」という情報は、中国の古書<秘密の万華鏡>由来だそうですが、長い間、本気で信じられてきたのですから驚きです。落ちついてやれば、卵はいつでも立つので、”立春でなくても立った”が必要だったのです。何しろ、やってみることです。頭で、ではなく、手と足で、わかることです。
物理の主題は<ものの運動>です。その運動には直線運動と回転運動とがあります。この数年来、私たちが扱ってきたジャンルは、主に回転に関するものでした。
それは、べーごまから竹トンボまで、観覧車からメリーゴーランドまで、轆轤(ロクロ)から石臼まで、水車から風車まで、エンジンからタービンまで、…、物理のrotationという分野です。
教壇を離れてからは、十分な実験装置がなくて、研究対象が限定されます。常に<手元>にあるのもとして、この数年、モーターからダイナモまで、の一点張りで、いくつかの発見をしてきました。アプリボアゼ効果です。
5 苺大福は好きですか
大福に苺を入れるアイデアには感服しています。味のマッチングもさることながら、白くて柔らかい餅肌を通して、ピンクの苺が透けて見える美的風景からは、幸福感が掻き立てられます。それ以後、苺カレーとか、チーズ大福とか、新分野の開拓(?)がなされてきましたが、どれも、二番煎じの謗りを免れません。
思わぬものの組み合わせとして、コラボレイトの呼び名がフィットしています。
collaborate の本来の意味は、味方を裏切って敵に協力する(*5)、といことで(小早川[秀秋]に語呂が似ている!)、思ってもみないものや、予測もできないことの、組み合わせを、面白がってこう呼ぶのでしょうが、これは実験の方法としても有用であることを、記憶に止めておきたいものです。私としては、コラボレイトというより、苺大福とか小早川とか呼びたいところです。
2月のサークルの帰りに、富士見村の座禅草を見てきました。時期的には少々早めでしたが、驚いたことに、座禅草の多くが、円形に立ち上がった霜柱の真ん中から芽を出しているのでした。
霜柱の針の筵に座禅草
この日のサークルでは、コイルの電流と磁石の関係を実験したのです。コイルの近くで磁石を回す実験では、逆に、磁石の近くではコイルを回せるということを、確かめたのでした。そして、このセットを<作用反作用ごま>と呼ぶことにしました。これは”回るもの(ローター)は、回すもの(ステイター)を、回す”という法則の発見につながりました。
この日は、また、別に、参加した子どもたちには、息を吹きかけて回す<吹きごま>を遊んで貰いました。
霜柱の上の座禅草を見て、フッと、吹きごまと磁石をコラボさせることに思い至ったのです。帰るとさっそく、この実験をしてみました。磁石を乗せた吹きごまは、ローターにもステイターにもなったのです!吹きごまと磁石が<苺大福した>のです。
6 科学は物学(モノガク)なのです
”ものとこどもに拠って危うからず”というのが、理科教育に対する私たちの主張です。しかし、この命題が妥当するのは理科教育だけではない筈です。
”すべての教科・科目を、ものに拠って再構成する”ことを、ここに提案します。
割り算が菓子だとや早い4年生 万能川柳 毎日新聞社編
算数は数学である前に量学であった筈です。時空や物質の、量的関係を記述する<学び>であったのです。それは具体的であって、ここに基礎を置いてはじめて抽象的な数学の世界が展開されることになるのでしょう。
新しい物理学が創られる時には、新しい数学が創られたり、使われたりするのです。ニュートン力学には微積分が、量子力学には複素数や行列が、というように。
最近、算数・数学に教具が持ち込まれるようになったことは嬉しいことです。
昔の歴史は、英雄の物語であったり、公(体制)の記録の紹介(というより、押しつけ)であったりしたものです。私が小学校で学んだ国史では、天皇の祖先のニニギノミコト集団が空から降りてくる絵があったりしたもので、少年の私は、映画で見た孫悟空の世界を「理解した」ものでした。
最近では、史料や遺跡の新発見や、知見の開拓などで、歴史の常識が変わりつつあります。大化改新についてさえ、その定説(日本書記によるもの)を覆すような遺跡(蘇我入鹿の「豪邸」があったとされる甘樫丘)の発掘が行われたといわれています(*6)。
歴史の教科書も様変わりしています。歴史は科学でなくてはなりません。”物的証拠以外は証拠にならない”のは犯罪でも学問でも同じことです。科学はものの学、つまり物学、いい換えれば唯物学なのです。
語学、芸術、家庭、保健体育など、他の教科・科目にしても、同じことがいえると信じて疑いません。
*1
<教師のための体験の物理> 中村清二著
*2 「星の王子さ」まと私 ETV特集 NHK
*3 <図書>07年3月号 岩波
*4 王子さまは生理的には水を必要としません
*5 <最新コンサイス英和辞典> 三省堂
*6 その時歴史が動いた NHK
この文章は<ぐんまの教育 59>(07年7月21日発行)に掲載されたものの一部を改訂したものです。