おとなのための科学の話(その1) ものと もの派と 07年8月7日
1 原子論とエネルギー論
昔、ギリシャのデモクリトスという哲学者は、ものはアトムと真空からできている、と考えました。これは現在の自然科学の考え方に似ていて、その洞察力の素晴らしさには感動しますが、どちらかといえば、彼は詩人であったように、思われます。
現在の自然科学の二本柱は、原子論とエネルギー論だといわれています。そして「進歩的な」理科教育には、早めに原子を教えようという傾向がみえます。面白いことに、体制側ではエネルギーに重きを置いています。
日教組の全国教研旭川大会に、参加した時のことです。民宿を同じにした若い女性の先生は、子どもたちに原子を教えたリポートを持ってきた、というのです。4年生の生徒に…、と聞いたような気がします。
高校生でも
”原子と原子の間には何があるの”という質問に
”空気”という答えが返ってきたりします。マクロの物質は、すべてミクロの分子・原子からできていて、両者を対応させて見ることは必要なことですが、そのことで、ものの世界が深く理解されたことには、必ずしもなりません。それに、分子・原子を教えるには、それなりの準備が必要なのです。理科の学習では、生活オーダーのマクロの物質について十分教えたいのもです。
真空とアトムからなる秋刀魚かな
もう一つは、エネルギーに関することです。最近の理科の教科書には、日常生活で使うエネルギーという言葉が目立ちます。力や仕事を学ぶ前に、この「概念」が登場するのです。それどころか、ニュートンの法則を教えないまま、力学の学習が終わってしまって、正しい意味でのエネルギーを学ぶ機会さえ、与えられない場合があるのです。
人が運動で減量するのはエネルギーを消費するからですが、エネルギーには重さがありません。体重が減るのは、息や汗として、ものである水蒸気や二酸化炭素を吐き出すからです。エネルギーという言葉を見聞きしたときには、必ず<その時、ものはどうなったか>を考えないといけません。
理科の学習では五感を通して、ものを学ぶ、ものから直に学ぶ、のが大原則だ、ということを忘れないでください。
2 群馬理科サークルとの出会い
1969年の高校紛争で
”物理の授業はわからない”と生徒に突き上げられて以来、物理の授業は専ら実験を中心にして行うことに決めました。そうすることで、生徒は主体的に授業に参加するようになったし、実験を提案してくれるようにもなりました。それよりもなによりも、私自身、授業が楽しくなり、物理が「分かる」ようになってきたのです。それまで、分かったと思っていた事柄の理解が、何と浅かったことか!
その後間もなく、群馬理科サークルの仲間たちと出会うことになり、何となく気があって、かれこれ30年ものつきあいが続いています。<科学教育はものと子どもに拠る>というのが、私たちに共通した考えです。
授業には教材として、十分のものを用意します。それらで、おしゃべりえをしながら「遊び惚ける」と、ものとなかまに刺激されて、子どもたちの認識が広がっていきます。教師はその間、子どものつぶやきを拾い上げて<モノにする>のです。
ものの前では教師と子どもは同格です。教師には幅広い経験と、豊富な知識がありますが、子どもにはフレッシュな感性と、自由な発想があります。しかも、子どもの頭数が圧倒的に多いのですから。
3 電気はどこにもある
前回(05年冬)の群民研では、理科サークルが<夢中で遊べば自然が見えてくる>というテーマで、参加者に実験を楽しんでもらいました。みんな、キャーキャーいいながらの2時間でした。
ものとものを擦り合わせると電気が起きます。起きた電気のプラス・マイナスをチェッカーで検査しました。膨らましたゴム風船をウールの布で擦ると、風船はマイナスに帯電しましたが、布は帯電しませんでした。摩擦電気は流れやすい(電圧が高い)ので、起きた電気は 布ー身体ー床ー地球 と流れてしまいます。これを防ぐには、電気を通しにくいプラスチックの手袋をはめて実験します。こうすると、布にはプラスの電気がたまっているのがわかります。
そうなったらもう、手当たり次第に、二つのものを擦り合わせて、どちらがプラスでどちらがマイナスになるかを「総点検」することになるでしょう。
子どもにも、こんなことをさせながら、身の回りは電気だらけだ!と気づかせられれば、理科の授業は成功なのです。
静電気実験せんとや生まれけん
講座の後で
”なぜ電気が近づくとランプがつくの”
とか ”なぜ電気にはプラスとマイナスがあるんだろう”などの声が聞こえて来ました。
前者の<なぜ>の内容はhowで、その答えは ”群馬理科サークルがそのように作ったから”
です。携帯やコンピューターなど、便利な電気製品が日常生活に溢れています。技術者が、電気の性質をうまく利用して作ったもので、感心をすればよいのです。戦争に使われなれないようにマークしながら。
後者の<なぜ>はwhyで
”「神様」がそのように創られたから”が答えとなります。
昔々のお話です。琥珀の飾り物の欠点は、小さな埃がつきやすいことでした。衣服などで擦られると、静電気でそうなるのです。ギリシャ語では琥珀をエレクトリシティーといいます。その「エレキ」を日本では電気と呼びます。見えないものは<気>なのです。生活の中でそういうことを発見したのですが、それだけでは気(?)が済まないで
”なぜ電気なんていうものがあるの”
と続きます。
<どんな問題でも、なぜを数回続けると神様の出番になる>という命題を、<釘が磁石につく>という例題で確かめてみましょう。
なぜ釘は磁石につくの?
釘は鉄でできているいからサ。
なぜ鉄は磁石につくの?
磁石の近くにある鉄は磁石になるからサ。
なぜ鉄は磁石になるの? 鉄の原子には磁石の性質があってネ、…
原子に磁石の性質が? 原子には電流があって、鉄の場合にはそれが有効に働いてネ。
電流が磁石になるっ!
そういうことになっているんだヨ。
………
神様がそう創られたんだから。
こんな会話はではなくて、電流で磁石が作れるんだったら、電流をうんと流して強い磁石を作ろう、という方向へもっていきたいものです。
もう一つは、水素と酸素の爆発実験でした。
水素と酸素がが化合して水になるのはご承知の通りです。
水素は電子親和力が弱いので、電子を奪われてプラスのイオンになり、酸素は電子親和力が強いので、電子を奪ってマイナスのイオンになります。そして、このプラスイオンとマイナスイオンは、その電気力で結合して中性の水分子になります。この時、短時間にエネルギーが解き放されて、ドッキャーンと爆発するのです。
この電子のやりとりは、通常は両者の間で「こっそりと」行われているので、気がつきません。これを公の場所に引っ張り出すようにした装置が電池です。
水素が水素イオンになるには、電子を酸素に与えることになりますが、水素と酸素を離しておいて、金属を通して、水素の電子を「はるばる」酸素の所へ送り届けるようにします。この導線中の電子の運動が電流で、これを利用しようというのです。このセットは燃料電池です。電子は金属の中を徐々に移動して、少しずつ水ができるので、爆発は起きません。せいぜい温度が上がる程度です。
化学反応の世界は、生命現象をも含めて電子争奪戦です。体温もこの効果です。
4 科学でわからないこと
生徒から
”どうして”という質問が出るようになれば、授業は「成功」だといわれます(私たちはそうは思いませんが)。しかし、それに対して教師が適切な説明をすると、「学習」はそこで終わってしまいます。生徒たちは、先生という権威の答えを丸暗記して、試験の場でそれをは吐き出すと、後はもう忘れるだけです。答えの出所(シュッショ)が先生でなくて、教科書や参考書やコンピューターでも同じことです。本当の答えは、<もの>から直に聞き出さなくてはいけないのですが。
実験という形でものに尋ねると、ものは答えてくれます。ものの世界は民主的で、いつ、どこで、だれがやっても、ものは同じ答えを与えてくれます。これを実証可能といいます。科学とは<経験的に実証可能な知識の集まり>の謂(いい)なのです。そして、ものから得られる答えは、唯一ですが無尽蔵です。
それよりも何よりも、わからないことはものに聞けばわかる、という確信が持てること、が重要なのです。だから、子どもには、ものにはたらきかけることを、基本的習慣として、できるだけ早めに、身につけさせたいものです。
”世の中には科学でわからないことがある”という表現をよく耳にします。確かにそうともいえますが、この命題は科学の「埒外」で、議論になりません。
そこで
”ものの世界には科学でもわからないことがある”と言い換えてみましょう。これなら議論になりますが、わからないという消極的な把握ではなく、今わかっていないことでも、やがてわかるに違いない、と積極的な理解をしたいものです。丁寧に、順序を踏んでものに問いかければ、ものは答えてくれないことはありません。結論はこうです。
”ものの世界には科学でわからないことはない。現在分かっていないことでも、やがてはわかるようになる”これが唯物論です。
5 ものだけは信じられる
少々の私的履歴を。私は1930年生まれです。小学校の6年生の12月に太平洋戦争が始まり
”君たちが国を守るのだ”という先生の励ましで、やがて、海軍兵学校へ行くことになります。昭和20年4月に入校して8月に敗戦、もとの中学校に復帰すると、先生達は
”今までのことはなしにして…”と「無言発言」するので
”ここで学ぶことはもうない”と思って中学校を4卒(制度として可能でした)。かくして私の被教育期は終わったのでした。
NHKの千葉支局へ就職すると、4月に入社した翌月には本社へ呼びだされて、職業軍人であった、という理由で馘首(クビ)、「名誉ある」16歳のパージでした。
ご破算でねがいましては敗戦忌
当時、小学校の若い男先生たちは出征していて、学校の現場は手不足だったので、ぶらぶらしていた私に、近くの小学校から声がかかりました。前歴のことがあったからでしょうか。<この人物は思想的には危険性がない>という推薦状を、見も知らぬ校長さんが書いてくださって、「危険な」代用教員が誕生しました。人間世界への不信感から、信じることができるのはものだけだと思いつつ、生徒たちに教科書の墨塗りをさせたり、米つくりをさせたりしたのでした。
やがて、男先生たちが復員してくると、代用教員は要らなくなります。そこで、大学入試受験資格検定(現在の大検)を取り、東京理科大の二部に通って理科の免許を取りました。でも、ここでは、小学校教員の資格はとれないのでした。
6 反科学の代表者たち
ブッシュ大統領がイラク戦争は誤りであったと表明しました。イラクの大量破壊兵器を破壊する目的で行った戦争だったが、それがなかったというのです。オイオイ!大勢の子どもたちが死んでいるんだゾ。
万愚節(バングセツ)不義と正義は藪の中
(万愚節はエイプリルフール)
映画<羅生門>で知られる芥川龍之介の小説<藪の中>のテーマは、何が真実であるかわからない、ということです。この不可知論には問題がありますが、それはそれとして、現在の国際社会では、何が正しくて何が誤りであるかは ブッシュ(藪)が決める といった情勢です。最大のエネルギー消費国が京都議定書に背を向けているのも、その一つです。オイオイ!島国が沈んでいくんだゾ。
日本の首相は当時、この戦争について、次のような意味の発言を(正確な表現は失念)しました。”(大量破壊兵器が)ないということが証明されない限り、あるかもしれないではないか”
ものの存在の証明は、その片鱗(毛髪1本、分子1個)でもみつかれば済みですが、非存在の証明は、理論的にはできないのです。首相の言明の無意味さは次の例からも理解できるでしょう。
”河童はいないということが証明されない限り、いるかもしれないではないか。”
彼からは反省の言葉が聞かれませんでした。
ものの世界では科学が力を発揮しますが、情報の世界ではそうはいきません。簡単な「お題目」ひとつで、雪崩現象を起こすのですから。
改革の文字Tシャツの弟に(1票を) (この文章は06年1月に書きました)
言葉や文字には実体がないから怖いのです。
ものから離れるとヴァーチャルになります。ヴァーチャルはノン・リアリティーです。
7 自然科学を考える
私たちが属する科学教育研協議会(科教協)のメインテーマは<自然科学をすべての国民のものに>ですが、これには、ニュアンスの異なる2つの解釈があって、自然派と科学派に分かれるように思われます。
自然派は、ものの論理である科学を使って、自然、つまりものを教えるという立場ですが、
科学派は、自然、つまりものを使って、ものの論理である科学の法則を教えるという立場です。
自然派は<もの派>とも呼ばれ、群馬理科サークルはこちらの立場で、どちらかといえば、科教協では反主流です。
いずれにしても、ものの世界には嘘もないし紛れもありません。庶民的であり、機能的であり、明快で美しくて健康です。千変万化の内容があります。
しかし、一般には、説明と黒板(talk
and chalk)
で、ものなしの理科教育がなされていることが多いようです。特に、高校では、取りわけ受験高では。
マイケル・ファラデーは典型的なもの派です。彼に因んで私は、物理のもの派をファラディストと呼ぶことを提案しています。
ちなみに、化学のもの派の集まりには<アルケミストの会>があります。
曾て、イギリスでテーブル・ターニング(コックリさん)がはやった時、ファラデーは<教育制度が非常に重要な原則において、どこか大きな欠陥をもっているに相違ない>と指摘しました。
あるデータによると、日本の大学生が超常現象、心霊現象、占いなどを信じる割合は、平均5割を遙かに超える(事柄によっては8割も)といいます。*1 ファラデー的にいえば、日本の教育は大きな欠陥をもっているに違いない、ことになります。
ユリ・ゲラーが来日して超常現象をTVで出演したときに、その「理解者」の一人として、ノーベル物理学賞のR・E博士が登場しました。このことだけで、もう、彼の自然観がわかるというものです。
”いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝子に見合った教育をしていく形になる…”という言葉からは、彼の教育観・人間観が伺われます。博士は教育改革国民会議の座長として、日本の子どもの教育に重要な発言権を持っているです。*2
*1 安西育郎著<科学と非科学の間>
*2 斉藤貴男著<機会不平等>
この記録は<ぐんまの教育 57号>(06年7月22日発行)
に掲載されたものの一部を書き直したものです。