理科実験を楽しむ会
もっぱら ものから まなぶ石井信也と赤城の仲間たち 
稲葉正さんへの通夜の弔辞                                       2010年11月10日

 
 私は稲葉さんから物理を教えていただいた、元県立千葉高校の教員で石井信也といいます。
 稲葉さんには唯、一つのエラーがありました。それは、朝生さんに、石井に弔辞を頼んで欲しいと言われたことです。石井は生き方として、考え方として、亡くなった人に話しかけることには馴染めないのです。(唯物論者なのです) 稲葉さんもこのことはご存知だったと思います。それで、ここでは、皆さんに、稲葉さんの思い出を聞いていただこうと思うのです。(参加者の方を向いて話をする)
 
 稲葉物理は千葉県の、というより日本の宝なのです。稲葉の作用反作用論は世界の宝なのです。これは大げさな話ではありません。このことは通夜をよっぴいて話したい程のことなのです。このことを、より多くの人に、そして後世に語り継ぐことが、私のライフワークなのです。
 具体的な話をします。この5、6、7日と長野の教育研究集会、いわゆる教研へ行ってきました。これは、教員組合員が集まって、教育に関することどもを話し合う会なのです。2日に亘るこの会は、地元の父母も含めた1000人規模の集会のなです。私はこの会には35年も通っているのですが、最近、少々頭がぼけてきたので、今年で止めさせて貰おうと思っていたところです。そうしたら、地元のみなさんが二次会を設けてくれたのです。その会へは、嘗ての教研のスタッフの何人かも来てくれて、昔の思い出などを話してくれました。
 一人は、自分の学校にもフーコー振子を作ったという話です。千葉高では、創立100周年を記念して、稲葉さんたちがフーコー振子を作りました。振子は全国にも数えるほどしかありません。振らせた振子の振動面は、一定で変わることはありません。ところが、地球が自転するので、千葉高も生徒諸君も教員たちも、地球と一緒に回ってしまうので、それに気がつかないのです。ところが、フーコー振子は宇宙空間に対して一定方向の振動をしているので、これを見た者たちは、振子が動いていると錯覚するのです。この振子に触れさせ、動かして見せることで、この原理を実感させることができるのです。
 一人は、千葉高の物理の授業を聞いて、上田から千葉まで出てきたのです。そして、生徒と一緒に物理の授業を受けてくれました。そのときの感激を、この会でも、感動的に話してくれました。彼は、退職後の今日でも、物理実験に取りつかれています。
 この教研の仲間たちには、稲葉さんを知って貰うべく、今回、まとめられたこの冊子(<自然の理法 究めんと>―稲葉正 不屈の人生―)を差し上げ、
 ”稲葉さんは、今、ご病気で…”、とお話して、7日の夜遅く帰宅すると、稲葉さんが亡くなった旨電話があった、と聞かされたのでした。
 69年の高校紛争のとき、千葉高には機動隊が導入され、稲葉さんたちは、対峙している生徒と機動隊の間を、機動隊へ向かって両手を拡げてはだかったという話を聞きました。当時、私が勤務していた学校は、世間的に評価の低く、生徒たちは授業中でも眠そうにしていたものです。その生徒に言われたのです。 ”お前の話はわからねーんだよ。 分かるような授業をやれよ”(笑) 彼らはわからないから、寝ていたのです。私は物理の教科書を、たとえ話やトピックなどを織り交ぜて解説していたのですが、そんなのは、物理の授業ではなかったのです。それからは専ら、実験を中心にした授業に変えたのです。自然科学は<もっぱらものから学ぶ>のが本来なのです。生徒諸君と一緒に、実験の方法や装置を考えたりしました。それによて、私自身が物理が分かってきたのです。生徒諸君からも多くのことを教えられたものです。
 このことが評価されたのでしょうか、他県の教研に呼ばれるようになったのはその後です。稲葉さんもこのことをご存知だったのでしょう。
 当時、稲葉さんは千葉高教組・千葉南支部の支部長でした。私は東葛支部長でした。高教組の戦術会議には支部長も出席するのでした。ということで、稲葉さんとは毎月、あるいは隔月に、お会いしていたのです。ある時、稲葉さんから ”千葉高へ来ませんか”という話があったのです。稲葉さんは公害闘争で多忙だったのです。停年前に退職して、闘争に専心したいというのです。
 以下は、私の想像です。”私の代わりに、石井を採れば、私はやめてもいい” ぐらいのことを、管理職に言ったのではないかと思うのです。学校長にしてみれば、稲葉さんは煙むたい存在だったに違いありません。そんなことで、とどのつまりは、石井が千葉高へ来ることになったのです。転勤したとき、分会長さんがいいました。”石井さん、あんたは稲葉さんの後釜なんだからね。そのつもりで…”(笑)
 蘇我の、稲葉さんのお宅で、窒素酸化物測定用のカプセルを作ったことがあります。当時、この辺は大気汚染が激しく、どなたかが、稲葉さんに尋ねたのだそうです。”引っ越すことを考えませんか”稲葉さんの答えは”川鉄がですか”でした。(笑) 稲葉さんを紹介するときには、私はこの話をしたものです。この闘争が、そして訴訟が、あのように有利に決着したことは、皆さんご存知の通りです。
 物理の話に戻ります。私は戦後のごたごたの頃、旧制の千葉中を4卒してしまいました。当時は4年でも卒業ができたのです。後で気がついたのですが、その頃の集合写真に、若い稲葉さんが写っていました。稲葉さんとは、千葉中では入れ違いだったのです。
 それから30年もたってから、私は稲葉さんから物理を学んだのです。教研集会やサークルなどで…。この会には、喪主のつゆさん(稲葉さんのお嬢さん)や、共産党の志位和夫さんも参加されたことがあります。稲葉さんは私にとって先生だったのです。先生と呼ばれることを稲葉さんはお嫌いでしたが…、そして、はじめに申し上げたことと矛盾しますが…、最後に、(遺影に向かって)
 ”稲葉先生、ありがとうございました。そして、長いことお疲れさまでした。どうか、ごゆっくり、お休みください”
 
 
 この日、私は参加者の顔を見ながら、授業のときのように、(原稿なしに)この話をしました。ところが、酒の席では、面白かった、という印象を聞かされたのです。そんなつもりは、微塵もなかったのですが。
 葬儀は無宗教的に行なわれ、ご本人からのご挨拶がありました! 死後、みなさんに聞いて貰おうということで、誰もいないときに、稲葉さんがご自分で録音された言葉でした。“人は死ぬものなのだから、葬儀も楽しくやって欲しい”という言葉もありました。もちろん、私もこの席で初めて耳にした話ですが…。
 面白かった、というのは、形式的でなくて、話し言葉での語りが、解りやすかった、という意味だと思ったものです。
 弔辞は、その原稿を喪主にお渡しするものだそうで、後日、つゆさんには、失礼をお詫びしました。
  ( )は些かのコメント、(笑)は聴衆の顔がほころびたときです。通夜ですから、笑い声は起きませんが…。
理科実験についてのお問い合わせ等はメール・掲示板にてお願いいたします。
掲示板 石井信也