子どもが育つを支える
田部井三郎(手労研)
「子育て」といい、「教育」といい、一口に子どもを育てるというのは、主体は親であり教師であり、いわゆる大人であって、子どもは従の立場です。私はこれがおかしいと思うのです。子どもは「育つ」ものであって、「育てる」ものではないと思うからです。
民主主義と言いながら「主」が忘れられてしまっています。学校の主人公は子どもである、とはよく聞かされましたが、それを実感したのは僅かの間でした。現在ではその残りかすさえ見ることはできません。子どもが育つ上での心配は、ここにも大ありせす。
子どもが育つというのに、子どもが主体ではないのですから、子どもは自主的にも主体的にも行動はしにくいでしょう。自分たちで考えて遊ぶことなど出来ない道理です。子どもは正に飼われている動物の生き様に似てきているのではないでしょうか。
子どもの立場からはまっすぐな育ちも、大人の意向で曲げられたりします。子どもは大人が考え及ばないようなことも、想像したり創造したりするものですが、管理されているような自由のない状況ではそれはむずかしいでしょう。
子どもを賢く育てるという観点からも、子どもの自由な遊びは欠かせないと思うのですが、それも今や容認されていません。遊び以外に子どもは頭脳を発達させる経験がとても少ないと思われるからです。子どもはいろいろなことを経験し、試行錯誤する中で頭をつかい、考える力を発達させるのではないでしょうか。
「子どもは子どもたちの中で遊び育つ」とも言われるのですが、子どもが遊べる条件は悪くなる一方です。大人が意図的に余程の努力をしないと、子どもは遊べないのではないかと思われます。大人たちがその気でこどもをの遊びを精一ぱい応援してみてください。
大人は子どもを遊ばせるのではありません。子どもの遊びに大人は無用です。大人もいっしょに遊びたかったら、子どもと対等に自分の遊びをすればいいのです。子どもの遊びには、いかなる大人も干渉してはいけないのです。子どもの自由が保障されない遊びは、まちがった遊びです。
子どもには、“試行錯誤”の経験が欠かせません。まちがいが認められ、好奇心を伸ばしてやることが必要なのです。大人がそこで教えてしまったら、子どもは自分で考え、子どもなりに発見をすることができなくなるのです。子どもが賢くなるために必要な経験を、大人は保証してやることが大切です。
日本における、「遊び」の常識は、きわめて非科学的です。特に子どもの遊びについては、事実をきちんと見ていません。育ちゆく子どもを見て、「遊び」が見えなかったら、それこそ憂慮しなければなりません。子どもの育ちを見て、大人はその支えになりましょう。
群民研機関誌<ぐんまの教育>62 巻頭言 08年12月20日