KZAK報告(第15回) 付5 2012年6月28日(木)
第47日
清水へ(1971/7/30)
缶ビールを一気に呑み干すとまたまた汗が吹き出して来た. 気温の高いのはしかたないにしても, 湿度の高さが気にいらない. 冷めたかった南アの雨を思い出す.
もどり梅雨とやらで,夏山合宿はすっかり雨にたたられ,二日前に南アを抜け出して来た私は,昼日中から大宮駅のホームで一人いらいらしている.それは始めようとしている長い旅への不安からかも知れない.6月に巻機を下った時, トトンボの頭から尾瀬への稜線を見た時, そこからの再出発は来年の残雪期と決めていた.
その時に備えて稜線を印した写真上で残雪を確認してもいた. 五万図上に道も少なく, それは利根源流を大きくつつみこむ長い, 山深い道程であったから. それをこの時期に歩くことにしたのは「山と渓谷」7月号の松本清氏の上越国境単独全山縦走の記録に勇気づけられたからだ.
昨年7月21日に尾瀬を出た彼は, 私たちと逆コースで27日に巻機へ着いている. 急行佐渡3号は,
清水さん, 石居さん, 伊藤さん, そして初対面の堀口さんを加えて予定時刻にホームに入った.
行きの列車での山の友との会話は一段と趣を異にするものがある.
いつの間にか谷川をくぐり抜けると, 上越沿線はゲレンデだらけである. 清水さんの説明に暑さを忘れるべく, 強引に周囲の山肌に雪を被せ, スロープを楽しむとき, 私は名スキーヤーとなる.
六日町発の最終バスで着いた清水は6月に較べバスを待つ都会の人もあり,
林間学校らしい生徒もいて案外にぎやかだった. 暮れかかった山道を30分ほど歩くと, 全身汗が流れ,
肩の荷は腕をしびれさせる. 米子沢(まいごさわ)橋を渡った右岸の林道わきに丁度良い場所をみつけ設営と決める.
毎回持参の3人用のテントに加えて今回は2人用のツエルトで計5名が収まる.
薄雲が5日位の月に照らし出され,
ホタルが舞う暑い,暑い一夜であった.
第48日
巻機山(1971/7/31)
4時起床. 薄曇り.
互いに朝の仕事を心得ると出発までになすべきことはスムーズに運ぶ.
KZAKのメンバーは常に愉快で頼もしい. 5時40分発. 各自かなり重量である.
1週間あまりの4人の山行を満たすには,
たとえば伊藤さんのボッカが, 巻機までであるとはいえ,
仕方のないことか. 松本氏が20キロ余りの荷であったことがチラッと思い出され羨ましい.
道はすぐに林道と分かれて右の登山道へ. そして井戸の清水は近い.
ここからいよいよ本格的登りである. ワンピッチ30分を二度歩くと, 晴れてきたが高度はかせげない. 2時間30分を要して六合目.
天狗岩が見えて幾分安堵感を覚える. ガッポリと発汗した.
歩き出して5分で顔全面汗. 10分で5歩に1滴の割りで落下し,
15分後には一歩一滴. この調子でゆくと数時間後にはミイラになりかねない. 巻機山コース7/10を示す鉄板標識のある小屋跡で昼食とする. ラーメンは残った. 10人と15人のパーティが下山, いずれも大学らしい. 山頂付近にはガスがからみついているが上空は晴れ. 谷川が見える. 暑さと睡眠不足のせいか, 気だるく,
足が重い. 目を閉じると意識が消えてゆく.
心地よい.
「オーイ」と呼ぶ声にハット気がつき,先の仲間を追う.この旅は始まったばかりだと言い聞かせる.偽巻機に手の届きそうな草つきの肩にはニッコウキスゲが迎えてくれた.ザックと共に身体を静めると肩に血が走った.清水さんの柔らかな表情の顔が飛び込んで来る.「あと2年位でKZAKを終らせて欲しい」と彼はいう.そうしたいと思う.種々の面で良い先輩を得, 仲間を得たと思う.
再びこの旅は始まったばかりだと言い聞かせ歩を進める.
柄沢からの稜線が巻機へゆるやかに続き, 残雪を押し下げた大きな山肌は緑を増していた. 再び偽巻機へ立てる日は意外に早くやって来た. 残雪を踏んだ6月の様相はなく, 小屋の前はワタスゲの白い原となり5〜6張のテントからは明るい声が伝わって来た. 山旅の始まりが実感として認識できた. 12時10分であった. 考えていたよりは簡単に登って来られた. のんびりと広いテント場に設営し, 夕方, 多少小雨があったが12時にはシュラフにもぐった.
第49日
巻機山-小沢山(1971/8/1)
2時10分起床. 尾瀬までの長い旅への不安そのままに, それはガスに包まれた. 起きるにファイトの沸かぬ朝であった. 清水さんとツエルト内で朝食の支度にかかる.
それでも上空は晴れているらしく気分は随分楽である, 東海大スキー山の会は下山らしい. 出発の支度に忙しい頃, 群馬大学WV女子隊(以後GWVとする)より玉ねぎ数個の提供の申し出あり. 巻機へ出発した.
懐かしい広い山稜の池塘は夏にはやはり水をなくしていたが, ガスに濡れて底は黒く光っていた. 残雪がなくなって消えるのが当然と思われる稜線の池塘である.
沢山の登山者が来て, 荒らして欲しくないものではある.
巻機の山頂は広くどこがピークといいにくい. 私たちのKZAKプレートNo52は,千ケ岳と柄沢〜谷川への分岐を示すポールに打ちつけた.6月と同じガスの中での再開となった. この傍らに, これは水の残った池塘があるが,
その北側に図の如きプレートを打った.
KZAK
KUNI ZAKAI O
ARUKU KAI
1971.8.1
重量約3kg, 鉄板にアークビード置き印字.
アングル60cm付.
ライトブルー地に黒文字ラッカー仕上げ. 305×205×6ミリ.
かって,何処の山でも見たことがないくらい, 耐用年数の長そうな,
簡潔なモニュメントたり得ると自負する. きちんと統制のとれたGWVの列がやって来る. 伊藤さんの荷物をキスリングから交換して, 石居さんがパッキングする頃, 彼女たちは先行した. 実に丹後まで同じコースである.
この山行に同一方向のパーティがあろうなどとは考えもしなかった.
13名の頼もしい女性たちの露払いである.
トトンボの頭との鞍部−風這は牛ケ岳のどこら辺りから尾根がつながっているのか,広くて分からない.ガスということもあり,一応牛ケ岳三角点まで行く.ところが,丁度この高さ位がガスの上限である.関東内において製造されたガスが,利根源流よりあふれてこぼれ落ちている.堀口さんが「ナイヤガラの滝」と言い表したがまさにそんな感じで,鞍部からこぼれ落ちた(風がほとんどないので,吹き出されるといった感じはない)ガスは越後の谷に消散してゆく.青空が広がっている.喜びを隠し切れず適当にカンで勇み下ると,そこは薄い踏み跡があり,6月に清水,飯島さんと休憩した場所であった. 低い, 広い笹の中を,足を濡らしながらも, 踏み跡を頼りに下る. 転ばぬように必死である. ガスの中を一つ一つの木々やピークを思い出しながら登る.
小さなピークを3つばかり越える.
トトンボの頭である. 石と桜の木に巻き付けておいた赤いビニールテープでそこを確認できた. 国境線がよく見える. ピークに立つとガスの上で, 太陽は夏山を感じさせるに充分な照射である. 7時前である. 伊藤さんの手の温もりを妙に明確に意識して分かれる.
幾度振り返ってが,近眼の私にはすぐに見えない点となった. ダラダラと下って直登少々, 清水さんが速い. 永松山頂ではGWVが食事中であった. 後で気がついたことだが,彼女たちはテント2張2班に分かれ,
班長2名とリーダー1人, 食事も班毎とのこと,
とにかく統率の良さと全員の強さに驚きっぱなしであった. 我々もリンゴをかじり, GWVのリーダーと地図見. ガスは薄くなり, 道は明瞭である. 求めても得られぬであろう女性の出現と, 好天に勇気百倍ではあった.
尾瀬への稜線は,
五万図巾では永松山にて「越後湯沢」より分かれ「藤原」に入り,「八海山」の大利根岳より南下して再び「藤原」に平ケ岳から入ることになる.切図は北緯37度丁度, これより北は全くの寄り道である. 切線直南の下津川山, 白砂山間は直線距離にすると11km余, 一日の行程であろうか,
利根はそれを許さぬ. そして,
私たちはこの「藤原」に向かって急下降を始める. 道は明瞭,
お花畑とくま笹の下りは, 4人合計31回の転倒を生んだ. 約1450mの鞍部から振り返り見る永松山は立派であった.
岸壁を有し大きくそそり立っている.
松本氏が「ガッカリするようなデカさで屹立し,行く手を阻む」と記しているのがうなずける.最早快晴である.単独行がテント撤収中であった.丹後から来たという彼は越後側に5分ばかりヤブを下がって水を得たとのこと,
赤ビニールテープが突っ込んでいた. 8時30分というのに昼食を開始した.
堀口さんのパッキングの良さは特筆すべきもので, 食パンは入山後5日目においても, その形を維持していて,
信じられぬくらいであった. GWVが先行した.
小ピークを一つ越えると鞍部から利根川へ下る道があった. お花畑のそこにGWVが周囲に負けぬ明るさと美しさを保って休息している.
私たちもザックを下ろした. エゾニュー,
ギボシ, ヤナギラン そして赤トンボまでいる.
寝転ぶと風が汗を運び去り, 静かな山深い天国に,
何の不安も忘れさせる. しかし,
目指す三番手山への突き上げは, かなりありそうである.
先行した女性たちに負けじと, 三ツ石山を一気に越えて,
次の最低鞍部で休む彼女たちを抜いて,
ねらいをつけておいた小さな雪渓まで, ハイピッチでとばすと, 私一人となってしまった.
約1時間, 長さ30m位の雪田に, 17人の山男・山女たちは, 夏山の暑さと雪のうまさに浸った. 大休止後の3番手への登りはかなりこたえる. 背丈位の笹を払いのけ, すがりつき, よじ登る.
平泳ぎスタイルである. 猛烈な暑さと疲労は全員同じだが,
後から登り来る女性たちに負けたくない. 三番手山へは道がないが,
強引に突っ込んで, 三等三角点を確認した.
朝日岳から巻機に至る尾根が良く見える. 大利根湖へ全ての派生尾根が落ちている. 笹やぶの中にマルバノタケブキが大きな一輪を咲かせていた.
それはGWVを思わせた.
二重山稜を成す四番手山を越えると小ピークが続く. そんな一つでサンダルのかなり新しいものを拾う.
小沢岳直下の南西, 利根側斜面は,超素晴らしい草付の,テント場に最適の場所である. 小沢岳を越える予定は, 未だ2時20分という時間など問題にもならず変更された. GWVも勿論一緒である. 雪渓は近く2分, 風も止み,
山々が全てみえる. 私の山行経験の中では,かってない別天地であった. 草原に身を投げ出すと, 幸せが身体中を駆け巡る. 夕食後, 私と清水さんは小沢岳へ散歩した. 沈む夕陽は私たちの目指す稜線を真横から照らし出し, 赤い至仏, 燧は脳裏に焼き付けられた. 石居さんは,
GWV2名と昼間遊んだ小雪田まで忘れたカメラを探しに出掛ける.
山の友の良さを12分に行動で示す彼の良さに,
彼の体力に対する私の不安など, 全く問題外でしょう.
貴重な人のつながりがまた一つ生まれた. 清水さんという人の素晴らしさを, 再確認させられる思いでもあった.
清水さんの切って来たダケカンバの木に, 小沢岳山頂用のプレートを打ち付け, シュラフにもぐると外へ出るのはおっくうになる.
清水さんは石居さんの帰りを稜線上で待っていた.
明日の晴天を約す月は日ごとに大きくなってくる. カメラは見つからなかったものの, 石居さんは充分その使命を果たして帰って来た.
第50日
小沢岳-越後沢山(1971/8/2)
関東国境を歩くと当然のことながら,富士が見える.今朝のそれは一段と良い形をしている.4時30分に出発したGWVを追って, ブヨの大群にせかされ必死で小沢岳へ登り, 立正大WVの指導評傍にKZAK53をくくりつけ, くま笹の山頂を下津川との鞍部へ下る頃, 快晴の空の下, 利根源流にはかすみがかかり, 墨絵の様である.
それは湖の水面の如く一線をなして静かに消えるべき時を待っている.
下津川山の肩まで細くなった尾根を一気に登り,
太陽に照らされると,さしものブヨも少なくなった. 利根側の沢に残雪が多量に見られるが, テント場になりそうな場所は見当たらない.
昨日の判断は良かったようだ. 下津川山でGWVに追いつき, 一緒に記念写真を撮り,
彼女たちの焼板に白字の標識を見た. 今回三国峠から入ったとのこと. 私たちのプレートも見て来たようだ.
ここには日本山岳会越後支部の新潟県境全縦走踏破のプレート, 立正大WVは1927.7と標示.
本谷山への長い尾根が気持ち良さそうに続く.GWVは快調に,アリの列の如く忠実に尾根上を進む.道に対する不安は全くない.清水さんは少し遅れて写真を撮る余裕を見せている.考えもしなかった楽しい山行である.30分ほどで, 少し広まった尾根の上に池があった. オタマジャクシとゲンゴロウガ泳いではいたが, 傍らにテント3張は可能である. 小ピークが続くが道は良く, ブッシュなどない. 快調に歩いていつの間にかGWVを追い越して, 37度線を越える.
私の「藤原」は新しく,「八海山」は古い.多色刷と単色の他に経度の切図位置が0分10秒4違う.
そして等高線が所によりかなりずれ, 全く重ならぬ場所もある.
空中写真と図化機により自動的に引かれた等高線と,
平板測量と高級スケッチのそれとの差なのであろうか.
本谷山へはその手前の小ピークへかなりな直登である.一気に登ると,
そこはお花畑をカール式に擁した, 絶対に休みたい場所であったが,
眼前の本谷山に早く着きたく少し先へ進み, 皆に遠慮して少々休憩はしたものの, 登り始めた. しかし,
右下の池を備えたU字状の沢の源頭へは,
文句なく滑り降りて昼食とした. 風の流れ方がかなり面白い.
水も充分きれいである. GWVが花畑の中を登って行く.
本谷山頂へは20分を要しなかった.
立正大WVと, 真新しいGWVは1971・8が木につるされている. 黄アゲハが舞っていた. くま笹を下ると広い鞍部は立正大WVの標識により, ブヨ平と記されていた.
南面は草つきでつい最近まで残雪のあった様子がまだ黒く,
昨夏の草々が押しつぶされた周囲を小さなコバイケイソウの芽生えで包んでいて面白い.
南面に降りて見ると, 右にGWV, 左にKZAKメンバーが, 青い空にワイドな鞍部の中で, なんとも小さく見えて楽しい.
越後沢山は2〜3のピークを越え難なく着いた.
三等三角点にしておくのは惜しいような立派な山であることは, ここに立った時のみならず, 藤原山を過ぎる頃には, もっと強烈に感じた. 平ケ岳に至る稜線は,ほんの谷一つ向こうに,
手の届きそうな位置にある. 立正大WVにGWVとKZAK54をまとめて2本の木につける. 笹と花の中を下り,
潅木をくぐると, 二重山稜の底に出る.
畳2枚位の残雪と設営可能な場所である.
GWVに付き合って設営に決める. 彼女たちは男子隊2パーティと丹後山で集中とのこと. 1時20分である. 3人用のテントに4人入るのがこの場に適したテントの張り方であった. 夕方よりガスり, 遠雷もあったが, 久々に聞く黄色い歌声にこちらも同調し, そのうち夢路へ着いた.
第51日利根最源流を廻る(1971/8/3)
利根の雲海が風に吹かれてガスの中の朝を迎えたが, のんびりはしていられない.昨日,偵察に行ったGWVの報告ではこの先は道極めて薄く, 笹やぶである. 松本氏も泳ぐように通ったと云う.
二重山稜を這い出てブッシュに突っ込み,踏み跡らしきところを伝うとやがてそれも消えた.
広い尾根はガスで視界がきかずお手上げである.
ガスの中に瞬間見える左手の尾根を目指して,潅木の下のブッシュをトラバース, 踏み跡発見. 左右に何本も薄く出ているが,何とか尾根上を行く. しかし, これも利根側から入り込んだ沢の源頭にて断える.
全身ズブヌレである. そして,
私の左膝は破れ, 右も生地が薄くなっていて時間の問題であろう.
GWVが二手に分かれ, 声を掛け合いながらやってくる.
左の広い尾根に出,身長位の笹平をGWVの後から進む.
13名のウーマンパワーは私たちにできたての山道, 散歩道を提供してくれる.
リーダーは最後尾で,赤布切れをつけてゆく用意の良さである.
私たちのパーティが「順不同間隔自由,出発いいかげん」と自称するのとはいかにも対比的である.それでいてKZAKもちゃんと,まとまっているのだ.50分後, 道に出た. ガスも次第に薄らぎ,
登るとそこは, 昨日遠望できた丹後山の前のピーク(1800m)の肩で, 雪田があった.
水豊富で設営も可能である. ニッカにて応急修理をして丹後山へ急ぐ. 1808.6mの丹後山山頂は,くま笹が一面低く被い広い長い平らな所であった.
ガスはすでに消え, 越後三山の中岳がものすごく近い.
木板塗装なしの憬稜山岳会の標識があった. GWVに手紙を残し,
北に下るとテントが見えた. 女子隊の存在を教えると,
礼を云うのも惜しそうに走り去った. 笹の広い原をよぎり,
直登するとそこはもう利根最源流の一角だった. 私の足にまつわりついて, ここへ近づくことを妨げたかのごとき笹は,
ゆるやかに弧を描いて利根源流を包む. 大水上山北峰と南峰をカール状に, 利根側は草原で飾り, その仕上げは残雪だった. そして
「ついに来た!!」というのが実感でした.
石居さんが「山はまほろば」と言う.無条件で賛成したい.そして更にGWVの2名の登場はまさしく花を添えた. タバコ2箱持参に禁煙して11ケ月になる私にも大いなる感激であった. 南会津の山を歩いているという群大に,尾瀬〜那須に至る資料の提供を依頼した.
それにしても, 山深いこの地で交わされた人の心の触れ合いは,
私の中に子供のような純真さを呼び戻し,この地に立つにふさわしい私になれたようであった.
KZAK 4人になった感じが, 彼女たちの去った後の静けさと共に増大していったが,
再び私たちは歩き始めた. 強引に鬼岳往復を提案し,
そこに立つと, 越後三山が極めて近く,
ぜひ登りたいと思わせ, 荒沢山の大きさに目を見晴らされた.
大水上山北峰は主図根の石柱があるが, その傍らの導標にKZAK55を打ち, 利根最源流に別れを告げた. いつの間にか, また来たい場所の一つとなる.
1592mのピークまで長い下りである. 東西に大きく羽を広げた威風堂々たる山容の荒沢岳は益々大きくなってゆき,
利根最源流の雪田も高くなってゆく.
北上から南下へ.私たちの今回の計画の半分が終わったといえよう.高度を下げると同時にブナ林のブッシュとなり,時折道が薄いが充分歩ける.しかし,午後の暑い日射と気温の上昇に体調はおもわしくない.1709m峰へは意外に時間がかかった. そこには今年5月24日付で高崎経済大が藤原山を示し,
39年2月付で大持山の会は平ガ岳までを約束してくれる.
それにしても矢張, 真夏のこのコースは暑さとの闘いをせねばならぬものらしい. 全員かなりな疲労である. 頼みはGWVリーダーの,藤原山の手前で三年前幕営したテント場があるという言葉だけである.
越後側に下る道がついていたが,TRWVの赤布が尾根道を示してくれ鞍部に出ると,そこは2〜3張りは可能な場所であった.越後側へかすかに残る踏み跡を頼りに強引に下ると5分で小さな残雪を貯えた沢の源頭に出た.
幕営に必要な水を得られたが,不覚にもこの登りで6m位転落.
幸い雪渓に背を当てて負傷はしなかった.
その夜, 堀口, 石居両氏はGWVとライト交信の為1709m峰へでかけ, 私と清水さんは明日の行動予定研究と食事計画検討を行った.
入念な入山準備は行ったが,
それでもなお五万図巾に道のない稜線を歩く重みはかなりな負担である. どうやら予定より1日余計にみなくてはなるまい.
松本氏の記録が五万図に詳細に書き込まれた. 日没後,
ガスが発生, GWVとの交信は不可能であったらしいが,
誠実な両氏は7時30分までねばって帰って来た.
巻機以来どんなにか彼女たちとの同道が私たちの励みであったか. その夜の寂しさは, 明日からの不安な道へとつながるような気がしてならなかった.
第52日 藤原山-平ガ岳(1971/8/4)
稜線に日の出の朝を迎えた―4時50分―快晴である.
ブナの樹林を抜け, 小ピークへ上がると視界は開け,
昨日戯れた山々は明日に少し赤い. 薄いブロッケンを確認して空を仰げば積雲が利根より越後へ, 絹雲も多くNWへ流れている.
そろそろ天候の変化が現れるのであろうか. 道は明瞭である.
藤原山は丁度ガスの越える対象にある. 今日で6日目, 初期疲労のとれぬままである.
この縦走はやはり大変なことである. 幹の太いはい松をよじ登ると最早藤原山は近かった. 展望良好である. 巻機で同じテント場に一夜を過ごした
東海大スキー山の会は1971・7・28と記してあった. 彼らは何処からこのコースに入ったのであろうか. 今さらながら, 話をしなかったことが悔やまれる. 稜線は小気味良く平ガ岳へ続き,
細い尾根上には明瞭な道がついている. ガスも次第に少なくなってきている. 二つ目の大きなピークに着くと, 眼前に, 越後側に切り立った壁を見せた岩峰が, 沢から立ち上がっている. 大水上山から丹後山, 越後沢山への長い尾根が朝陽に映える. 丹後山はどこが山頂か分からない平らな山容である. 越後沢山の北, 一昨日の夜を過ごした小さな残雪も見られる.
痩せ尾根がやがて潅木のブッシュとなり, オオシラビソの樹林帯になると剣ケ倉はもう近い. 清水さんが立枯れにマジックで何やら書き始める. 静かな山である. この後の小ピークは背丈位の笹やぶに道が消えかかるが,
その中で突然, ほんとに突然人が現れた.
「どちらからですか」
「至仏からです」
「池は近いですか」
「ええ,このすぐ先です」
都会育ちらしい顔つきの単独山行氏は,私たちに問いかけることなく,すぐに笹の中に消えた.
踏み跡が現れると低いくま笹の尾根の右下,二重山稜の中に周囲10m余の池があった.
あまりきれいとはいえないが,水は意外と多い.昨夕以来水の補給ができなかった私たちには天の恵みである.昼食をとるころ雲が厚くなって来た.いよいよ剣ヶ倉の登りにかかる.道は越後側に巻き上がっているがその草つきの付近,左下にこれまた小さな池が見られる.再び尾根に出て巾の広いオオシラビソの樹林の中,暗い急登をしばし続けると突如天が抜け,風が体を押し包み,汗の乾くそこが頂上であった.右へ長い山頂の三角点に立つと,今や平ガ岳はもう近い.アルペン調の露岩の痩せ尾根を風にバランスを失いながら,鞍部へ下り利根側のくま笹を巻上がる.小ピークに立ち二重山稜の竹やぶのくぼみに突っ込むと湿った土が,そこが水路となることを教えてくれる.登り切ると草つきでお花畑に踏み跡が散り消える.ザックを下ろして転ぶと身体中に安らぎの時が流れる.風に逆らうことなく向きを変える草々.剣ヶ倉の岸壁が大きくて良い.その向う,藤原山への稜線は意外に低く,その上に越後三山が大きい.大水上の横には八海山が小さくのぞいている.灰ノ又を擁した荒沢はここからも大きい.昼寝したいような気分に,草に身を沈めると絹雲が数条流れ,北々東に積雲が飛んでいる.猛烈に速い.この空の太陽がある限り.私たちを包む自然があり,私たちの行為がある.生への欲求は常に飽くことなく繰り返されている.石居さんはすぐに裸になる.太陽を100%吸収する欲張りである. 清水さんはカメラを持ち遊ぶ. 堀口さんは静かに周囲を見ている.
メモを取る私はいささかの疲労気味だが気分は良い.
背丈位の笹に突っ込み右に登りきると, 利根源流―上越側の低い笹の中,しっかりした道を直登.
右手後方に巻機〜柄沢山〜朝日岳への稜線が薄く見えている.風に追われて登ると,草原と笹が交互につらなる.左手尾根にとりつき,樹間を登りきり視界が開けた.それは平ガ岳へゆっくりと,実にのんびりと,笹と草原を配置したすばらしい広い尾根のつながりであった.アルプスのお花畑に負けぬ良さがあった.ナンキンコザクラが紅紫色に美しく,長らく思い続けた平ガ岳に一気に登るのは惜しい気がして休みもした.どうしようもなく広い笹平に, それでも道はその真ん中あたりをゆっくりと登っている.
そしてそれを抜けると,広い,広い草原は果てのない砂漠の如く前方に開けている.
「どこを歩けばよいのでしょう」道は登山者の気持のように方々に消え, 定かでない. 私はこの訪れる人の少ないであろう草原を,
ゆっくり歩きたいと思う気持ちとは裏腹に, 山頂へ足を急いだ.
加速度的に速まり, いつか3人をはるか後方にした. 石居さんが,
チングルマが終わったのを聞いているのがもどかしい. 一気に高そうなところ目指して登った. 池があるとやがて景鶴が見え, 到着を知らせてくれた. 南面の大きな雪田はこの山の高さを教えてくれるが,
ワタスゲのある草原に水をたたえた池塘は不思議に思えた.
東のシラビソの中に二等三角点が保護されていた.
台風の影響か風が強い. 三角点の傍らに張ったテントはその北のシラビソの中に張り直した. 水長沢をつめたという一パーティがこの広い山頂の一角に,やはり風に吹かれて設営している.
三角点傍の古い指導標にKZAK56を打った.
テントにパラつく雨と,シラビソをゆする風の音, 真夏とういえ2000mの山頂はいくぶん寒く,
疲れた割には寝つかれない夜であった.
それは明日からの道が薄い尾根歩きへの不安であったかも知れない. だが, 山深く隠された秘境の如き湿原に抱かれて眠るとき,
大自然の懐に帰り来たとき, 何の不安があろう.
私の山への愛着は飽和状態であった.
第53日
平ガ岳-大白沢山(1971/8/5)
今日は尾瀬ケ原を見なければ―皆にこの気持はある.2時15分起床すれど,ガスで視界短く風も強い. 朝食後しばし朝寝. 明るくなった6時40分,
やっと出発した. 昨日までの好天気とはうって変わった寒さで,
頬をガスが冷たくさす. 風は益々強く,
視界は20〜30m位か. 越後側の草つきの斜面を下ると, 昨日認識できた雪田が二つあった. ポリタンに水を満たし, 笹の尾根に踏み跡を求めて歩いた. ブッシュと草地と三回繰り返すと東面の巻道が合した.
時折ある赤布切れ, テープ,
古い布切れ等は, 見つける度に喜びと安堵感があった.
そしてかなり懐かしい物の一つ, 明大WVのM型のブリキ板が「白沢山―平ガ岳」を示すと,一ピッチで白沢山に出た.この頃には小雨を交えてガスが流れる. 風は林間のためか, それほど強くない.
東海大は46・7・27, GWVは46・5・22であった. 航空測量用発泡スチロールの板が妙に俗世界を思わせた.
湿原を二つ横切り, 1888m峰までは薄いながらもなんとか踏み跡があり,
赤布切れもあって確認できたが, この下りでそれ等をなくした.
どうやら左に下り過ぎたらしい. 大きな岩の傍に出,
薄くなったガスが見せてくれる稜線の鞍部はどうやら右らしい.
太い根曲り竹の背丈もある中のトラバースは相当な体力消耗である.15分もトラバースすると林間を抜けて草地へ出, 右に枝尾根を見た. 右へ巻過ぎである.
途中のギンリョウソウのあたりが道らしかったということで引き返し,
上下を探すとタバコの吸い殻を清水さんが見つけたと言ってくる. 皆でその方向に行ったが, 吸い殻の位置へ再び出ることはなかった. それでも, オオシラビソに赤いテープがあったのと,
薄い踏み跡らしいところを頼りに, 竹やぶを押し分け進む.
ワイドザックでのやぶこぎはどだい無茶, それを承知で強引に進めば, 慣れは恐ろしいもので, なんとかなるから面白い. そろそろ全身びしょぬれになってくる.
広い鞍部も登りになってくると, 不思議に踏み跡が集まってくる.
私たちにも上りより下りが難しいということが実感として分かって来た. 見下ろす時, 尾根はその背を容易に判定し難いが, 見上げる時, その背は一つに高く判るものなのである. 案の定, 赤テープが, 布切れが登場した.
そして, 私の驚きはその中の一つに,千葉高の字を見出したことであった.
小ピークに出ると明大WVの青いブリキ板がうれしかった. 通過して10分, 次のピークが予想通り1918m峰であった. 東海大は46・7・27と記し,
大白沢―白沢を示している.枯木にある赤ペンキが背の届かぬ高い位置にあるのは,冬季残雪期につけられたことを意味するのであろう.風が強く,雨は少し大粒となり,ガスも多い.気分的に暗くなっては何もできそうにない.メモ用紙は書いている間に雨に濡れ,ボールペンのインクははじいて載らない.10分も止まっていると全身が冷えた.
今度の下りは尾根が細く迷わず踏み跡に従ったがそれでも消えた.
少し登ってススケ分岐かと探したが, それらしくない.
だが二本向かい合った樹にマルマンと刻まれている場所で昼食とした.
ホエーブスの熱が頼もしくありがたかった. 雨は収まり, 霧となったが, それも薄い. ポンチョを被るようにしてラーメンを腹に満たすと, 再び竹やぶに道を求めた. 時折日がさしてきもした. 5分ほどで少しく竹やぶの薄いところがススケ分岐であった.
それは赤布切れにマジックインキで明瞭に記されていた.
そしてその方面へは踏み跡が続いていた. そちらへ行きたい気がちらっとした.
大白沢方面へは突っ込んだ跡らしきものがない. 広い尾根への下りである. 地図と磁石を頼りに尾根をさがす. やはり間違った. 右へ寄り過ぎである.
最低鞍部に近くなると判明する. 左へ登り気味に,鞍部へ取着き,
登り出すとどうやらまた踏み跡らしきところへ出る.
一安心してザックを下ろし振り返ると雲は高くなってガスも薄く, ススケ方面が見える. 平ガ岳も見える. ピーク目指して直登を開始する. 時折日もさし, 後方へ稜線がグングン下ってゆく. 少しばかりの岩もよじ登り, 潅木を抜けるとそこは別世界だった.
大白沢山頂に関して予備知識は松本氏によってもたらされていた. しかしここは全く平ガ岳とはまた別な天上の楽園であった. 標高1900mの高層湿原はワタスゲの白い乱舞で始まり, 一面の黄色い花(残念ながら名称を知らない)が湿原全体を黄緑色に染めている. それは尾瀬側から吹きつける強風に散々に乱れ,
その中を歩く私たちは感激の極に達した. 雲はちぎれて流れ太陽が顔をみせると, やはり夏の暑さが瞬間よみがえる. 言葉は風に飛ばされる. 外田代が足下に広がり, 楽しさでじっとしておれない. 石居さんが両手を広げてとび回る. 清水さんも戯れかかる. 広い草原の片隅に池塘を見つけ, もはや歩き気はしなくなった. その近くのシラビソで風が割れる場所に設営した.
北側はくま笹に覆われているが, 遥か下方に大白沢池を見た.
食事の残りはすくない. インスタント製品はありがたい. 焼飯,
鳥飯, α米とかなり昔のものだが,
ここまで軽くザックの中に収まっていた。
第54日
大白沢山-尾瀬ヶ原(1971/8/6)
再び, 強風とガスの朝(3時)を迎えた.
昨夕は巻機方面が夕焼けに染まったがやはり回復には未だ時間が必要らしい. 3人用テントに4人収まるのは平ガ岳に続いてであるが,
今朝も折り重なるようにして朝食と決めた.
6時20分, 明るくなったのを頼りに風とガスの中を行動開始. 腰位の高さの笹の尾根は最初細く道もある.
下りは充分慎重に考えているつもりだが, 薄い踏み跡が更に薄くなる頃, 左に沢らしいものが始まった. またもや失敗である. ガスで視界の不自由なのを言い訳にして, 左にトラバースする. 動き始めの根曲り竹こぎは全く疲れる.
オオシラビソの下は幸い枝に守られて何もないので入り込むこととする.
どちらを見ても尾根のように見えてサッパリ判らない. オオシラビソの木を伝わりながら, 進むことが一番賢明であるらしい.
するとその一本に古いナタ目があった. この喜びは大きい.
ススケ分岐以来赤布切れ, テープ等はなかったから,
尚更である. そして,
やぶの中で五万図巾「藤原」が落ちていたのに驚いた.横浜の誰それと名が記されていた.帰宅後,郵送したが返事はない.やっと登りになるとなんとかなるので,1900m峰に登ると最近らしい踏み跡が少々あり, 赤布も少しあった.
尾根広く道など一切ない. それでもシラビソ伝いに下ると,
時折ナタ目があって今度はそんなに尾根を外れていないらしい.
最低鞍部から少し登ったところでは, もう一休みである.
五万図上次のピークまでは直線1cm(500m), 標高差10m,
最低鞍部まで30m余しかない.
50分歩いて未だ到達できないのである. 登山道のありがたさを感ずる. 本当に身に染みて.
東白沢池と湿原を垣間見て, 相変わらずシラビソ伝いに高いところ(広いのと傾斜が緩やかなので, あまりはっきりしない)を目指して,
やぶをこぐこと30分. どうやら1890mのピークへ出た. 勿論,
地図とカンのみで判定しているに過ぎない. 石居さんが石油入りポリタンクを見つけた. こんなものが無性に嬉しい. ここからの下りがまた大変である. 進もうと思った方が広い尾根に感じられる. 磁石で地図を定め, その上に記された県境の線が東北に向かっているので,
その方向に下ることにする. 考えてみれば不思議な存在の私たちである. 地図上に記された1本の細い線が私たち4人の生を預かっている.
更に細い線が等高線という簡単な約束のもとに尾根を, 沢を,
頂きを示している. そしてそれを頼りに人がここに来.
私たちも今ここに居る. 自然の中で人間がそれに逆らわない小さな知恵で生きている.なんと素晴らしいことであろう.
シラビソの下で昼食と決める. もう食糧は底をついた. インスタントスープは腹にしみた. 下りは40m位でよいのだが,
笹の中は時間がかかる. 笹の背丈が次第に高くなり,
身長位になると, 時々倒木にでも乗らねば,
どこを歩いているのかさっぱり判らない.
登り気味になって来たところで,季節を外れたミズバショウの葉がすこし薄くなって来た笹やぶにあった.そのすぐ上,尾根上に,松本氏の設営した湿地と池に出た.この時の喜びはやはり大きい.赤布が散乱し,1本の踏み跡は確実に続いている.55分,
最後はよじ登って景鶴の西の一峰に出た. 尾瀬ヶ原へはピヨンとはねると落ちていける. 至仏も燧も極めて近い. 天気もよくなって来た.
求め続けてきたそれは絵であった. しみじみと幸せな時を感じる.
清水さんと交わす握手が何故か恥ずかしかった.
日本大学探検部の小さな板切れは大水上山のそれを思い出させ,
長かった行程のその途中が断続的に次から次へ浮かび来て,眼下の明るい静かな黄色味がかった尾瀬ヶ原に重なり消えていった. 東端のピークに移動しKZAK57をシラビソに打つとその向こうには平ガ岳があった.
大水上山〜越後沢山に至る稜線がよく見える. 1時間ここで遊んだ.
国境にはこれから松ー(イワ)高山〜笹山に尾根を通し,
東電小屋の西で只見川に下る. この只見川は新潟県と福島県境であるので, 沼尻川沿いの国境はここから南会津の山々となるわけである.
尾根を忠実に下ることを私たちはあきらめて標高差600mの尾瀬ヶ原へは景鶴への旧登山道を下った. 勿論, 旧とつくのは,今は入山禁止で登れない道だからである.
松ーへの分岐は薄いが踏み跡があり確認できた.
廃道は笹をかぶっていたがそれでも明瞭で能率よくどんどん高度を捨てた.
尾瀬ヶ原の木道に座ると全身に疲労感が走り, 動く気がしなくなった. 濡れたロングスパッツをはずし, くつ下を脱いでしぼるとふやけた足は久々に空気に触れ息を始めた.
4時30分,
尾瀬を行くハイカーには私たちの汚さは不思議であろう. そんなに人はいない. 景鶴を見上げると, あそこから来たなどと, いいたくないような気がしてくる.
静かな時の流れに風にゆれた大白沢の湿原が何度も浮かんでは消えた.
一番近い東電小屋は泊まれた. 久々の缶ビールと他人のつくった夕食に,
腹はとどまることなく欲求をくり返した. 石居,
堀口両氏と酒を交わした月は十五夜に近かった. 思えば清水を発った時は五日月位であったのに. 雲一つない空に輝々と照る月は尾瀬ヶ原をくっきりと写し出し,
周囲の山々を黒く形づけている.
5年前の8月29日,
新卒で清水高に入った私は, 清水さんにこの尾瀬の十字路で初めて会った. 人それぞれに巡り来る時間が,
こうして彼との間に同じ時を過ごしている不思議に, 思考を停止する夜であった.
第55日
下山(1971/8/7)
こんな人くさいところにいるのに早く帰りたい. 三平峠へ回って帰るのも, あの長い林道歩きが嫌である.
結局鳩待峠には,車が上がっていて良かろうと決めた. 朝食早々と小屋を出た. 木道を歩くのが妙に難しい. 花は終わったものが多い. 山の鼻が近づくと沢山の人とすれ違う. 挨拶が面倒臭い. 若者のグループ, 家族連,
服装もさまざまである. 昨日までのあの静かな山はどこに行ったかと, 景鶴を見上げると, 意外に低く見えるその稜線は, 朝日を受けてひっそりとしている. あの上の良さを忘れまい. この人達に, そこへ至った感激を毒されまい, と必至で歩いた.
山の鼻小屋は数を増し, 入り口には教育委員会の設置したカウンターが, 人の出入りを知るほどになっていた.
鳩待から来るボッカのおじさん, おばさんが多量の荷を背負い,
ハイカーは手ぶらでやって来る. こんなところから早くぬけだそうと急いだ. 峠のマイクロバスは人が集まれば出るという.
上がって来たタクシーに沼田まで4000円で運んでもらった.
焼けつく暑さの沼田へは1時間30分であった.
堤茂雄
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