KZAK報告(第13回) 付3
2012年6月14日(木)
第41日 野反湖-堂石山(1971/5/1)
4月29日から降り出した雪は, 国境稜線にもかなりな量をもたらした. 長野原下車の万座スキー客は,
昨日まで止まっていたというバスに,期待に胸をはずませて乗車して行った.
予想もしなかった新雪に描くシュプールは素晴らしいであろう. 野反湖へのバスは6月21日からであった.
花敷温泉行のバスには私たち5人の他に5人の登山客がいた. 原は吹雪で1m20cmの積雪とのこと.
車窓からは草津白根方面の白い稜線上に澄み切った青空へ,白い雲が乗越し,
相当の速さで飛翔してゆく. 天候回復の兆であろう.
常に乗り物にはついている私たちは, 今回も野反湖までトラックをチャーターできた. 見覚えのある道を, 野反湖周辺でスキーの予定という4人のパーティーを加えて,
中古のトラックはT,U速で高いエンジン音を発して登る.ぐんぐん気温が下がり,風が冷たく強くなる.高度計の針が上がる.
関東国境線は分水嶺としての尾根でもあるが,ここは例外である.分水嶺は,大高山〜高沢山〜弁天山〜富士見峠〜八間山〜堂岩山〜白砂山を結ぶ尾根であるが,国境線は,大高山〜高沢山の肩より東進し,野反湖北側の中津川に下り,堂岩山〜白砂山への尾根に上がっている.つまり,関東地方の水が,ここに限って,日本海へ流れているのである.
富士見峠から先は路上の残雪で車はストップ,野反湖は四囲に残雪を多量に配して,折からの強風に冷たく波立っている.昭和44年8月6日, 大高山に, プレートNo39を打って下った野反湖は, バンガロに多数のハイカーと, 芸術家の玉子たちを収容し, 湖面には,
夏の日が落ち, ボートが浮かんでいた.
海抜1514mの人造湖は, 避暑に最適, 景色の良さは, スケッチにも好材料を提供してくれる.
今回の山行は,白砂山までは佐武流,苗場山に至るルートが明瞭だが,上ノ間山〜稲包山〜三国峠は,情報を全く入手していない.加えて昨年,三国峠から稲包方面へ少し突っ込んだときに見た笹やぶは,この間の困難さを感じさせて不安であった.ただ,晴天でさえあれば,稜線を五万図で確認して,残雪上を歩けるだろうという気はある.
風は強く吹き,雲は猛烈なスピードで頭上を通過し,飛散してゆく.手を伸ばせば届きそうなくらい近い.国境稜線はガスかも知れない.いつもそうであるが,私は登る山を前にして,ザックの重みを肩に感じて初めて―山に来た―と云う実感と,―さて登ろう―という心の用意ができる.
ダムまでの道路上にも,新しい雪がある.振り返ると,浅間山がその勇姿を大きく誇っており,草津白根,志賀の山々は,まだまだ白い.たいしてうまくもないスキーを無性にやりたいと思う.
ハンノキ沢への下りは,北面のせいか残雪が深い.左岸の指導標は,白砂山を示している。ロングスパッツを着けて県境尾根へ登る.道はすぐ雪に隠れる.地蔵峠は確認できなかったが,残雪30〜40cmの広いダケカンバの尾根を,赤布切を頼りに登る. 野反湖が下がり, 白根,
浅間が上がってくる. 最初の一ピークでは,
雪の稜線と, 湖と, 山とが, 写真になる配置となった. 今回は,
直径6cm, 厚さ3cmのアネロイド式簡易高度計をポケットに持参.
単調な登りに時折出して見ては満足感を味わえる.
もっとも時としては悲愴感を抱くことになりはするが….割合精度良く,最大誤差±50mというところか.
1800mのピークからは, 堂岩山, 八十三山(五万図巾岩菅山の八十三山には2040峰を示しているが, これは間違いで, この北方2121m峰が八十三山, 2040峰は堂岩山である)白砂山から佐武流への稜線, そして稲包らしき山が見える. 雪の稜線が続き, 歩き易そうである.
ガスの通過も私たちが尾根に出ると同時に終わり, 快晴となった.
堂岩山への登りは標高差250m位であるが,
途中で天気図を取っていたり, 初日の疲労もあったりして,
2時間余を要した. 野反湖を12時に出発して, 5時間余のアルバイトであった. ステップカットの連続に私の足は幾分疲労を覚える.
夕日は高層雲に隠れ, シラビソの山頂は,
1m余の残雪がクラストしかかり寒かったが, 清水さんと握手した手は互いに暖かかった. 白砂は三峰を重ねて見え, 佐武流は大きい.
ガイドブックによると池塘もあるらしい鞍部へ下り, 南面の笹平をテント場と決める. 笹と同じ高さに新雪がクラストしていて設営に少々工夫を要する. 5〜6人用の新しい夏テントは, 背が高く,
快適である. 今回は清水さんの同僚の伊藤さん,
石居さんが新たなメンバーとなり, 飯島さんを加えて5人である. 飯島さんはショッキ(食器)長,
石居さんはスイトウ(水筒)長となった. 組合的用語と解釈しての面白さに笑いがつきまとった. 夕食は, 栄養豊富なブタ汁で,
ニンニクの臭気の臭気に嗅覚は麻痺寸前であった. 風が冷たく吹き降りていたが, 月のきれいな夜であった. 昼間取った天気図を仕上げ, 明日の好天を期待してシュラフにもぐった.
身体中を疲労感がかけめぐり熱い血の流れを認識させられた.
第42日
堂岩山-笹平(1971/5/2)
3時30分起床. 気温8度.
快晴. 稲包山の向こうに雲海が沈んでいる.
2000mの国境稜線はどこでも歩けそうな残雪と視界の良さに, 何ら不安はない. 朝食も進む.
テント場とした笹平より, トラバース気味に稜線上へ出る.
クラストした雪面のステップカットは容易でない.
石居さんが×アイゼンで頑張る.今回は予備日を含めて5日間,
6人分の食糧を持っている. その割には各自の荷物が軽い.
5人という人数の能率のよさなのかも知れない. 次第に登りが急になる.
五万図の裏面に,ブルーガイド「東京付近の山」よりこの付近の案内を抜き書きしてきた.それによると,「幾度か山頂を思わせるコブにだまされ白砂山頂に飛び出す.小さなピーク3つ. 三角点はいちばん手前(西峰), 芝草で覆われ360度の展望…」とある.青空に突き上げ,そこから,明瞭に純白に分けたピークに何度か期待を裏切られ,気を取り直して登る.後方4人は次第に遅れる.
白砂山は白雪山と言いたいほどの全面雪化粧であった. 南面は広く沢へ落ち, 北に佐武流〜苗場への尾根を従えている.360度の展望は全く欲しいままである.
心配していた上ノ間山方面も稜線上は雪で,快適に歩けそうである. こうなると雪様々である. 29日に降った新雪は我々の為であったようなもの.
東風谷さんが急に参加できなくなったので今回プレート無し.頂上直下のダケカンバを切り,KZAK40とマジックで記して,頂上のナナカマドに紐とビニールテープでくくりつける.
ここより長野県とお分かれである.
新潟はこの先長い。上越国境に新たなるファイトが湧いてくる.
上の間(カミノアイ)山へは,
白砂から確認された通り簡単に到達できた. そこには予想だにしなかった指導標があり, 赤沢の頭へ50分,
大空掘の頭へ25分と示されている.
そして,
蓬峠で見た「新潟県境全縦走踏査 日本山岳会越後支部…」の鉄板もある.太陽は惜し気もなくそのエネルギーを振舞い, 気温22度, 最早何の危惧があろうか.
よしんばこの瞬間, ガスに包まれようとも停滞すればよい.
自然の機嫌の良くなるまで….
北の広い雪原を一気に下って一登りで赤沢の頭であった. 所要時間35分というハイペースである. そしてここにも導標があり, 上ノ岡山へ1時間,
忠治郎山へ1時間とある.この頃から越後側よりガスが上がり始める.
30分位下がった広い鞍部で昼食とする. 樹間の雪は,
独特の凹凸を形作っている. 自然の節理に叶っているのであろうか.
その形はナイーブで造形の妙を感じさせる. 越後より乗越したガスが成長してくる. 風に雪が混じっている.
忠次郎山は導標を発見できず通過. 下って登るとそこには船窪地形の後に2107.8mのピークがあった. この先,
東に下る尾根が広く, 難しいと案じていたら幸いなことにガスが晴れ, 確認できた. 全くついている.
ブナの大木にKZAK41, その下方に46・5・2と全員の名前をマジックで書く. 300m下ると広い鞍部である.(ここはムジナ平という.これは山と渓谷今年7月号の「上越国境単独全山縦走 尾瀬−大水上山−谷川岳−白砂山 1970年夏の記録」という記事より得た.
この記録は私にとって一方ならぬ驚きであった)振返ると, 道らしき一筋の線が上がっている. そして意外にも,
全く意外にもトイメンの樹間から人が現れたのである. 群馬富士重工,10人パーティーとのこと. 三国峠からである. 私の頭の中には, 雪上を走る明瞭なトレースが強烈に浮かんだ. 実に10人分である.
胸の高鳴りを覚えた. 常にコース予定には悲観論の私も,
さすが楽観論者に急変した. 彼らの午前中の行動はガスの中であったとのこと. セバトの頭は大きく, どこが山頂か不明の樹間を, トレースはブラウン運動をしていた.
とにかくそれでも指導標のある笹平へ出た. セバトの頭へ30分, 三坂峠へ3時間, KWVとある.
このすぐ近くの草地に設営と決める. 雪に濡れた靴下を絞る為素足になる頃,
ガスが再びこの稜線を包んだ.
南面の雪渓に水を汲みに出掛けた石居スイトウ長は布バケツに雪を満たし,
融水は得られず,の報告をした. 私がノンビリ天気図を取り終わる頃, 夕食の昨夜にほぼ同じブタ汁ができあがった.
3人のペースとの違いを再確認させられる.
第43日 笹平-三国峠(1971/5/3)
パラパラ降る雨はたいしたことないが, 稜線独特の強風に眠れぬ夜は皆同じであった.
日本海低気圧に伴う温暖前線の通過である. テントのポールが折れると同時に起床. 1時17分である.
ピッケルで補強して再度横になったが, 寝ていられるわけがない.
ポール係が誕生して朝食の支度に掛かる. 風は益々強く,
その代り空には降るような星が天の川を擁して輝いている. 誰かが,
流れ星が見えたという. 強風に耐えられなかったのかも知れない(そんなばかな!!).
防衛庁長官に昇格したポール係の飯島さんは任務を果たしながらの朝食となった.
テント撤収の頃は, またもやガスがやって来た.
今度は寒冷前線であろう. 気温0度, 風強く, 強烈な速度でガスが断続的に流れる. 風に打たれて頬が痛い.
筍山への尾根と, 県境との分岐に少し手間取ったが,
ガスの切れ目にのぞく稲包山を目標に下る. 割合形の良い山である.
樹間の石南花の大木が低山を感じさせる. 昨日までの2000mの稜線と違い, 今日は稲包の1597.7mが最高である. 山も白さを失った. 樹間の残雪も汚れている.
右手後方に上ノ間,白砂が白く高い.ガスが戯れかかっている.風はやわらいで来た.20分下った尾根の肩に, 日本山岳会越後支部の鉄板があった. 道はハッキリしている. 時々急坂もあるが, 概して緩かである. 小さなピークをいくつか過ぎる.
上州側の残雪を歩けるところもある. 三坂峠の少し手前で,
単独山行の男に逢う.
雪上にしゃがんだ一見きゃしゃな彼からは「一人」という雰囲気が感じられ,それがピッタリであった.三国峠からである.大学4年の時から上越国境の山を登り始め, 今年で5年目とのこと.
「フーン…」という感じがあった.山好きな人々が何処でも入る日本の山なりし.
細い尾根を登り始めるところが三坂峠であった.変色した古い指導標がなければ通り過ぎたであろう.それには「セバトの頭←三坂峠→小稲包山,1961.横浜市大WV」とあった.
越後側への道が薄くあるが,上州側はない. かっては栄えた峠であるかも知れない. 前線は完全に通過したらしく, 晴れてくる. 気圧の山の接近を高度計が知らせてくれる.
登り一ピッチで小稲包山であった. 低い笹の山頂は展望を欲しいままである.
板切れに「三坂峠−小稲包山ー稲包山,福島市大」とあった.後方は,浅間山−白砂山−苗場山が望見でき,今朝出たテント場からここに至る尾根もよく見える.
足下から稲包への稜線は,三国峠,平標,谷川へと伸びている.山頂近くの木を切り,KZAK42と記して, ビニールテープで潅木に抱かせる.
稲包へは少し下って,雪渓を直登.石南花のブッシュを抜けると,小さな残雪の分岐であった.ザックを下ろし,清水さんと頂上へ走った.奇妙な名前のいわれは知らぬが,とにかくこの2〜3年間思いをめぐらし続けた山である.
ニッカーで拭った手で握手を交わした. 二等三角点の山頂には,
石の祠があった. 国道17号線が赤谷湖へ下り, 谷川連山は近くなった. 三国峠の神社にある「ここはへえあちゃとだんべの国さかい」という字が頭をかすめた.
10分下った広い残雪の上で昼食とする. 太陽が輝き, 白砂を近づけてくれる.
景色に満足し, 腹のいっぱいになった.
この3日間の天候, コース, その他全てに対するつきは最後まで続きそうである.
送電線鉄塔の立つ鞍部へ下り, 笹尾根を登る. 笹は腰位の高さで,
道は一応明瞭である. 薮歩きに慣れてきた私たちには,
ほんの踏み後程度の道でもどんなにありがたいことか.
三国峠の近さを知ってから足は速くなった. キワ平の頭からはその三国峠が良く見えた. 人も居た. 長倉(蔵)山への登りは足がひとりでに上がった.
稲包山へ2時間15分, 三国峠へ30分とある.
前橋営林署の保安林の黄鉄板がやたらとある.
雪で始まって今回の山行は三国峠へも残雪を滑り降りて終わった. 平標でスキーを楽しんだ人達, 谷川連山で日焼けしたハイカー, そして親子連れの三国峠散歩と, ここからはやはり広い登山の対象となる上越国境であることを知らされた.
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