KZAK報告(第10回) G10 No358 2012年5月24日(木)
第25日
鳥居峠-四阿山(1969/7/31)
上田駅から草津行きのバスに乗り約1時間, 鳥居峠で下車したのは私たち3人だけである. 一面に薄い霧がかかったこの高原は, カッコーの鳴き声だけがいやに高い. 暫くは林道を北上する.
荷はかなり重く, 歯茎がずきずき痛む.
昨日, 出発直前,
歯齦炎を切開したところだ. 一方,
清水さんは胸の痛みを訴えていた. どことかで打撲したとのこと.
歩いている時にはたいしたことはなさそうであったが,
ザックをおろす時と背負う時には苦痛の色をあらわした. 約30分で林道を左手に入り,
ブッシュの中にささやかなみちしらべをみつけ,
草地の中のひどい登りを終えるとドーム状の高みにでた. ここが的岩山頂らしい. 秋草が今は盛りだ. ここを緩く下ると的岩に着く. 源頼朝が善光寺参詣の折,
これを的に弓を射たという伝説の岩である. それは万里の長城を彷彿させる(規模は格段に小さいが)見事な城塞であった. よじ登ろうとすると大きいアカアリの大群が食いついて来た.
彼らは音をたてて液体を発射しながら攻めてきた.
アリの大きな顎が私の手の皮膚につき刺さった. 格闘の末,
彼らの屍を越えて岩に登る. 岩の上にはホツツジが咲いていた.
ここに工学院ワンゲル(以後,
KWVと略記する)のプレートが43・10・5と日付を入れていた.
あまり人が入りそうもないのに道は手入れがしてあり歩きやすい. 独標(2037)へは約1時間,
更に1時間で水場への分岐に至る.
今回のコースは四阿山から先は資料がなく, 水場は期待できないので, 10リッターの水を持って来ているが, 明日からのことを考えると, ここを宿とするのがよさそうに思えたのでそう決める. 水場へは0.2キロとあった.
夕食はカレー. 5時30分就床.
外は雨である.
第26日
停滞(1969/8/1)
目が覚めると雨だ. 停滞を一決すると, また,
眠りに陥る. 起床9時30分. 雨漏りでテントの中はかなり濡れている. 11時の朝食後, 空身で偵察に出る.
森林帯はすぐに切れ, あっけなく四阿山頂に着く.
約20分であった. 山頂には祠が二つあり, それぞれが、二人くらいなら入って座れる程度のもの.
ひどい風だが, 雨はさほどでない.
KZAK32を打ち込んだ後, 痩せた尾根を東北に辿って三角点をみつけ, 次の目標浦倉山への道を探す. ここから先は五万図上には道はない. 清水さんを山頂に残し,堤さんと二人で下る.踏み跡は明瞭である.長野電鉄でつけた黄色いペンキのNERの文字が所々にあった. そこに○印が書かれていた. 私たちはこれを<ネロ>(NERO)と呼ぶことにした.これは適当な間隔を置いて岩や樹に書かれてあった.ガンコウランに覆われた広場で道は二分していた.右手は尾根の笹原へ,左手は樹林帯の中を下っているらしい.その分岐には樹の切り株に黄ペンの○印があり近くに<菅平へ>と書かれた半分に割れた指道標が落ちていた. 地図では浦倉山へは尾根続きである.
この指道標はこの切り株に打たれていたものであり, 従って矢印の向きから, 左手へ下るのが菅平への道であり,
浦倉へは右手の尾根を辿るのが正しかろうと私は判断した. ガスがなければ, 浦倉山が見えそうな場所であった. 私たちはここで引き返した.
2時半にテントに帰るともうすることがなかった.食当,堤氏苦心の作,マゼメシを食うと早々にシュラーフに入る.寝足りているので,眠くもない.時間つぶしの連想ゲームは私たちを夢中にさせた.笑うと胸が痛いといいながら,清水さんは笑い転げた.外は小雨である.
第27日 四阿山-浦倉山(1969/8/2)
2時半, 一人で起き出す. 中天には星が二つ三つ見え, 林間に菅平の灯が光っていた. 急いで堤さんを起こす. だが, 忽にしてその灯は消えていった.
ガスが広がって来たのだろう. もう少し様子をみよう.
私たちはまたテントにもぐり込んだ. 四阿山から浦倉山への尾根は幅広く, 薄い尾根があらこちらに張り出しているので,
目標の山が見えなければコースがとれないのではないか, というのが私たちの心配であった. 晴れてさえいればそんなに苦労するところではないのだが….
目が覚めると5時であった.
相変わらず薄い霧である. 行けるところまで行こう.
私は二人を起こした.
8時7分発. 四阿山を8時31分にパス.
昨日の分岐9時.
ここでどちらの道をとるか決めなければならぬ. 堤さんが左手,
私が右手の道を調べることにする. 私の選んだ尾根は丈の低い笹原の中にトレースがあり, 方向も地図上の境界にほぼ一致していた. ところがやがて, 道は薄くなり, しかも,
それは二分し, またそれが二分して,
だだっ広い原の中へ消えていた. 勿論,
霧のためその先は見えない. 分岐点に帰ると,
間もなく堤さんも帰ってきた.
<毛無峠⇔菅平>という道標があるという.沢へ下ると見えた道は尾根筋を辿っていたという.「それがこんな樹の高いところに…」と堤さんがそばの樹を指さす方向を見上げて,清水さんが<ここにもある!>と例のかん高い声を上げるのを見ると,
そこには指道標の半分が<毛無峠>という文字をみせているではないか.
喜びと拍子ぬけのカクテルをゴクンと飲みこんだ3人,
暫くは無言. 積雪の多いこのあたりでは指道標はあんな高みに打たなければ用を成さぬとみえる. 菅平へのコースは四阿山を経て, 根子岳を通るものであったのだ. さて, こうなると気分は明るい.
それに昨日一日休養しているので, 身体の調子も申し分ない.
私の歯の痛みはもうない. 清水さんは三角巾で胸を縛りあげた.
毛無峠・菅平の標識は1960年5月に打たれたもので<県境縦走コース>とあるところをみると,今後暫くは発見できる期待が持てる.ネロの黄ペンも続いている.やがて,霧が晴れた.右手下に田代池が見える.左手には根子岳から四阿山への吊尾根が美しい弧をみせる.ポール山(737)のピークから浦倉・土鍋の方向が見渡せた.
遠く小串鉱山の建物も見える. 山肌のグリーンはチューブから絞り出した絵の具の色だ. 浦倉山だと思っていた山は, その前山のポール山(692). 更に一時間で笹に覆われた浦倉山に着く.
ここはポール山658, KWVHA43・10・28, KZAKは33.
昼食. 1時40分出発. この辺からネロは極端に少なくなり, 約20分下った地点で, 完全に道を失った.
それは尾根といってもだだっぴろい笹薮で,方向としては三つが考えられた. その頃から, また, 霧が出始めた.
この辺の笹は肩ほども丈があり, 倒木も多くて困難を極めた.
行く手を遮る巨大な倒木の上にザックを置き, 右手へ堤,
中央へ清水, 左手へ石井と分かれて踏み跡を探したが駄目であった.
間もなくドシャブリがやってきた. 最後の黄ペン迄戻ってみた.
方角はどうやら左であるらしい. 私たちはそれを選んだ.
といより, それにかけた,
というべきだったろう. このコース(といっても一面の笹原)は少し下り気味であった. ぐっしょり濡れた笹薮を漕ぐのは水中を歩いているのに等しい. To the skin
という語が実感として来た. 右手に尾根が競り上がって来たので,
右へ右へとこれに寄る. 高みに登れば…しかし,
この尾根お右手はひどい斜面であった. 結局,この薮漕ぎは2時から始まって5時30分で終わりにした. 幕営する広場もないまま薮の繁みを圧し広げ, オオシラビソの枝を切り敷いてテントを張った.
ロープは倒木の枝に絡みつけた. テントの中はかなりの傾斜で,
ザックを敷いてこれに足を乗せて横になった. 曾て人が歩いたことすらないような, そこは場所であった.
正規のコースの左手に入り込んでしまった,と堤さんを私は思った.
右手だと清水さんは主張した.
第28日
浦倉山-万座(1969/8/3)
4時起床. 空には半月がかかっている.
α米はすぐに炊けた.私が他の二人勝るのは起床の強さだけだ.やがて二人も起き出した.ハンバーグとたくあんの朝食,6時出発.
私は昨日の地点まで戻るのがよいと考えていたが, 堤さんは反対であった. 彼は高い木に登った. 東の方角に峠状の所があて雲がこれを越えて流れているという.
土鍋山らしいのが見えるという. 私たちはその方角へ強引に突き進んだ. トップ堤, セカンド清水,
私は二人が漕いだ跡を歩かせてもらう. トップは倒木に足をとられて何度も転倒した. 清水さんの胸はいつの間にかすっかりよくなっていた.
振り返ると私たちの通った跡が一筋の線となって続いていた.
昨日見えた美しいグリーンンフィールドが下の方に広がっていた. 約1時間のヤブコギの後,植相が変わり笹は浅くなった.
といっても倒木の数が減ったわけではない. それから約20分で沢へ出た. <助かった>という気分であった. 水を飲んで, 顔を洗って….
この対岸を登るとイワスゲの草原であった. これが例の緑の正体であった. 胸まであっても抵抗にはならぬ. シラベの木が1本あって黄ペンの○があった.正規のルートの尾根が張り出していて,ここへ下って来る踏み跡が見える.
土鍋山への登りは黄ペンに導かれながら,それでもやはり薮は漕がねばならない.ひと喘ぎの後,土鍋の肩からは須坂の町と千曲川の流れを眺め,再び霧の出始めた土鍋の広い尾根の左の端を辿る.最近,誰かが歩いた形跡がある.土鍋山の最後の斜面は美しい草原であった.このところ急速に増した清水さんの植物に関する知識を評価しながら,リンドウの草原を突っ切る.この見事なリンドウは,殆ど人の目にとまることもなく,咲き,そして枯れていくのであろうが<それがリンドウの幸せというもの>だと清水さんは云う.土鍋の山頂は樹木で覆われた薄暗い場所で,KZAK34を打つ.
北へ向かって一度激しく下ると, すぐ吊尾根となり, 再び登って破風山の分岐に至る. それは, ぐしょぐしょの酷いものであったが, 私たちは久しぶりに道を踏んだ. やがて, 破風の断崖の上に立つ.
そこは絶景を味わえる場所であるに違いないが, 今は霧で何も見えぬ. 毛無峠へは草地の道をがくがく下る.
右手から吹き上げる霧には硫黄の香があった.
右下には小串鉱山があるはずである.毛無峠は赤茶けた広場で,堤さんが拾い上げた石ころは鉄の塊であった.KWVは43・10・29とあり,
私たちもザック35をこの地に打った.
硫黄を運ぶロープウエイが, がらがらと頭上を走っていた.
ここから自動車道を小串鉱山入り口迄歩く. 境界はすぐ右手の上を走っているはずだ. 途中の水場で昼食にしようという意見も出たが,
バス待ちの時間を使った方が得策なので, バス停迄行くことにする.
左手には遠く犀川の蛇行が見え, それはモナリザのバックの流れを思い出させた. 2時30分バス停着.
バスは2時40分の予定だ. 雨がザーッと来た. バスは3時に来た. 昼食はあおずけになった.
台風7号の影響で空模様が怪しくなってきた. それでも万座の宿は(予約で)満員だという.
でも, どうにか宿を得た.
それは日進館といって, 我々のこのきたなさをもってしても,
引け目を感じさせないような宿であった. 先ず風呂へ.
<いい湯だな>と口ずさむ鼻の先へ天井から雨が漏ってきた.(湯気の滴ではなく,本物の滴なのだ)
堤さんのすねは赤く大きく腫れ上がっている. 次に洗濯.
夕飯前にビールを3本(3人で)開け, どんぶり飯をおかわりし,
家族連れが残していったおかずを頂戴してすっかり満腹し, そしてがっくり寝た.
第29日
万座-横手山(1969/8/4)
外は相変わらず烈しい雨だ. <予定の三国峠まで行けるはずもない> 私はふとんの中でぼんやり考えていた.
<野反湖までは行けないことはない.しかし,食料の買い足しもせにゃならぬし>二人はまだ寝ている.私はひとふろ浴びて,また,布団にはいった.ラヂオが天気は午後回復すると報じている.台風7号は我々が歩いて来た群馬・長野の県境を走り,
太平洋に抜けた模様だ. 雨も小止みになってきた.
旅館で食料を少しばかり分けてもらって, 午後出発.
雨水が流れている沢沿いの道を, 約1時間で山田峠へ登る.
風が強く視界が悪い. ここの避難小屋は屋根が飛ばされていて使用できない. ポール山631より左手に入ると立派なケルンがある. 渋峠は昔スキーで越えたことがあるのだが,
すっかり変わってしまって, 面食らう.
ヒュッテが2軒あり,
スキーリフトの下の道を横手山へ登る. <アジャとダンベの国境>という看板の表現が面白い.
横手山の遠望もゼロ, KWVは68・10・4で,
私たちもプレートの37を打つ.
36は登れなかった万座山のためにとってあり, 冬,
スキーで打つ予定. 突然,
霧の中から怪獣が現れた.
巨大なパラボラ・アンテナが夕陽を浴びて銀色に光って出現したのである. ここには, 久しぶりの境界見出標があり,
それが所有地界を示すものだという前橋営林署の説明があった.
アンテナの鉄塔の下には横手山頂ヒュッテがあり, 水を使わせてくれるというので, ここに幕営をきめる. 水はモーターで組み上げているのだそうだ. 流しにはお湯も出る豪華さである.
近くにはわずかではあるがコマクサがあった. 夕食後はヒュッテのストーブにあたらせてもらい, スキー映画のおまけがついた.
第30日
横手山-大高避難小屋(1969/8/5)
2時半頃, 雨が降り出したがすぐ止んだ. 4時30分起き出す. 風が強いが展望がある.
スキーリフト駅の屋上に出ると,見える,見える! 白根・浅間・黒斑・四阿・根子・土鍋….
残念ながら遠くの山は駄目だ.小屋でもらったパンフレット<横手山頂からの展望360度>と見比べて, 暫くは立ちん坊であった.
6時50分出発.
ここから鉢山へは最近ハイキングコースができたと小屋のおばさんが云う.
日図の地図にも案内はない. スキーツアーの道標が続いている.
これは道の左手に貼られるように作られたものだが, 左手に適当な立ち木がない所では, 左手の樹に逆さに貼られているのが面白い.
四阿山の分岐の錯覚を思い出す. 草津峠は深い薮の中で,
昔は草津と志賀を結んだ重要な峠であったろうが今は見る陰もない. KWVは68・10・5で2年・勝田親司の名が裏にあった.
工学院の関東国境縦走は手分けをして歩いていることが知れる. 鉢山へは約30分. この山頂には池がある筈だが,
森林の底には霧が沈んでいて発見できぬ. ここからは沢状の,
というより沢のひどい下りだ. 下りきると,
そこには別天地が開ける. 四十八池である.
尾瀬のミニチュア版だ. 左手に滋賀山が美くい.
シガというのはこの地方では樹氷のことだそうだ.
熊の湯から自動車を入れる計画でもあるのだろうか. 広い道が大沼池へ続いている.
大沼池の水は透明度が高いが生物は棲まぬという. 岸辺には草も生えぬ. それは赤石沢の強酸性の水が原因だという.
口に含んでみたが味はない. 茶屋が一軒あって,
後ろに赤石山の岩峰が望まれる. 道は明瞭,
それに1/30というような指道標がある.
山頂が30/30なのであろう.
先ず頂上までは2ピッチと見て15/30で休憩する予定で歩き出したが, どうしてどうして, なかなか骨があり, 10/30で一休み, タケシマランが赤い実をつけているのを指して,
「清水さん,この花何だい」と聞くと,暫く考えたあげく,はたと手を打って言ったものだ.「タケシバオーだ」
指道標の数字は先刻より人の年齢になぞらえて語られていた.18歳で高校を卒業し, 1年浪人し, 大学に入学した.
そろそろタバコを吸ってもよい年だな. 私たちは20/30でタバコにした. もっとも先ほど10歳でタバコ吸ってしまっていたが.
間もなく稜線に到達して大学を卒業し, 景色のよい所で婚約もし,
遂に目指すマイホームが目前に来たが, どうしたことか山頂には30/30は発見できなかった. だが,
私たちは30として山頂の岩頭に立った.
展望がよい. 大沼池は熊の毛皮を伸ばした形をしていて,
大鳥池(朝日連峰)に似ている. KWVがあり, 私たちのプレートは38である. 昼食の間にテントを干す.
志賀の東館山から大勢の団体が来て山頂がごったがえしたのを折に出発する. 5分ほどで仙人池に至る. きれいな池でヒメカユウが咲き, ヤンマガ舞っていた.
一度高度を下げて林を出ると右手にガラン谷が一望される. 湯沢の頭, ダン沢の頭と快調にとばし,
小高山の草地でひっくりかえると雷が鳴り出した. これを背に聞きながら小高山を越えると, 今日の目的地三五郎小屋はすぐ左手下である. 3時20分である. すでに先客があったが外出中らしい. 火を焚き, 飯を炊き,
食い終わった頃, 小屋の主は横手の笹の中から現れた.
岩魚釣りから帰ったのである.
夜, 私は彼・南場氏から岩魚と山菜の話をいろいろ聞いた.
堤さんと清水さんの寝息が流れていた.
第31日
大高避難小屋-野反湖(1969/8/6)
8時30分発. 雨がパラパラ来たが,
ほてった身体に快感を与えて止んだ.八高山頂に今回最後のKZAK39を打つ. これは私の年齢の数字だ. 林間の水たまりの軟らかい土にはケモノの足跡があった.
林を抜けると広い斜面が広がってきた. かもしか平だ.
水場もある. ニッコウキスゲはすでに終わりに近いが,
シモツケのピンクが素敵だ. 高沢山へは17分, KWVの上田君の受け持ちも,
多分ここまでだと思われるが, プレートの日付は10月5日であった.
北方は曇っているが, 南方の展望はよく,
東方に白砂山がちょっと見えてすぐに隠れた.
あとはハイキングコースで三壁山を通って野反湖に下る.
湖畔ではどこかの高校美術クラブがキャンパスを並べていた. (うちの美術クラブも7月下旬に来たはずである) バスは3台でゆっくり座れた. 長野原3時10分発,
急行草津はがらがらだった.
工学院ワンダーフォーゲル:組織的に関東国境縦走を行っている.
標識はブリキで白地に赤の吹きつけ模型.
KZAK:私たちのプレート. 国境(クニザカイ)を歩く会の頭文字を鉄板に彫り込み,
地は白で彫り込みに黒を埋めている.
ポール山:木またはコンクリートに<山>という字が書かれていて番号がふってある.
境界見出標:営林署でつけたもの.厚めのブリキ,赤い地に白ぬきの文字,縦型.
私ごとだが,9月30日, 谷川岳で自分の身体に異常を感じ, 医師の診断の結果は心臓病で, 登山厳禁を宣言されてしまった. 従って今回, KZAKのメンバーから外してもらうことにした.
私の後はルーキーの東風谷氏に引き受けてもらうつもりで, その内諾を得ている.
清水高校には山の会がって、会員の山行は機関誌<里程>に掲載されています。このKZAKの記録もそこから転載したものです。KZAKには不参加でも、私は山の会の会員であり続けていました。
理科実験についてのお問い合わせ等はメール・掲示板にてお願いいたします。 | |
---|---|
掲示板 | 石井信也 |