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掲示板 | 石井信也 |
KZAK報告(第8回) G8 No356 2012年5月10日(木)
第21日
白岩-馬返(1969/4/27)
大宮の駅に入ってきた汽車の窓から清水さんが手を振っていて, それとすぐわかった. 夜行の信越線はすいていた. 3人は頭を寄せて今回のコースについて話し合い,最終的にそれを決定した.
それは<一応,栂峠へ出てみて…>というものであった.十国峠図幅では国境に沿う道は殆どなく,そこがどのような様子なのか私たちには殆ど見当がつかなかった.会合を持って話し合うたびにコースが変更された.出発前に決めたコースはこの汽車の中でまた覆えった.
小諸で小海線に乗り換え小海で下車.白岩に入るバスは1日1本でどうしようもない.タクシー屋(?)は,無論,起きてはいない. ひとまず行けるところまでということで, 一番のバスを川又で捨て, 運よく人夫運搬用(?)のマイクロバスをつかまえて大桑まで乗せてもらい,
25分歩いて白岩部落に入る. 三寸木(サンズンギ)へは更に15分, 無人小屋のあるところを左に折れて山道に入ることになるが, 予定より早かったので30分朝寝をする.
道はところによりかなり急であるが,轍があるところを見るとジープなら入れるものらしい. 1時間弱でこの道は終わり,
小屋があって木馬道が右と左に斜面を上がっていた.
清水さんが見つけて切り抜いて来た古い雑誌の記事では,<木馬道を右手にとり…>とあり私たちは躊躇せず右手へ進む.
かなりの勾配である. 汗が滴り落ちるところには,
ギョウジャニンニクの若芽が,
みずみずしい緑をみせているが,<今夜の食卓に…>と思っても採集する気にはとてもなれない.
炭焼きの小屋掛けがあるところで木馬道は終わり, その先は霧の中に沢筋が続いていた. かすかな踏み後が右の尾根に続いているようだった.
私たちはそれを選んだ. 尾根に登ると遠くに御座山(オグラヤマ)の頭が雲の間からぽつんと見えた. 私たちが登って来た谷の反対側には,南画に出て来そうな岩山が霧を纏って峙っていた.
どうやらコースを間違えたらしい. だがここまで来たら前進するより仕方あるまい. 雲でも切れれば様子もわかるだろう.
暫く地図を眺めていた堤さんは,五万図の上の一点を指して<この辺だ>と断定した.
早春の尾根は未だ木の芽吹きが始まらず, 下萌えもないので,
歩きづらいといっても大した困難はない.
私たちは次第に高度をかせいで先刻の沢の源頭に着いた. 沢は案外浅かった. そこから例の岩の城塞にとりつき, それを登ると三角点があった. このピークは国境上の1681.5mの独標に違いない. 堤さんの判断はまさに正しかったのである.
私は彼の読図力の素晴らしさに舌を巻いた. 小憩の間に霧は晴れて見通しがよくなった. 真下に木馬道が見える. 栂峠と思われる辺りも見当がつく. どうやら木馬道を左手にとれば峠に通じているものらしい.
そうだとしたら, 例の雑誌は大したミスプリをやったものだ.
でも, 峠より手前で国境へとび出したことを喜ぶべきだったのだろうか.
シャクナゲのヤブコギをして, 岩山を一段下り昼食にする. その間に雨がパラパラ来たが, ザックに跡を残す程度ですぐに止んだ.
昼食後は落葉松の林の中のササのヤブコギであった.
霧の中を動物的感覚で彷徨しているうちに霧が晴れて突然道に出た.
最近ブルドーザーで削った広い道であった.
栂峠は確認できなかったが, すぐ左手の丘の向こうであるらしい.
道を歩くということは何と楽なことなのだろうか. 約30分で左手に入る小道にであい, これに踏み込んでみたが, 四方原山へ続いているものらいので引き返す. キツツキが叩き, ツツドリが鳴き, ミソサザイが先導してくれる. 再び広い位置を辿ると, 雑誌の記載にある山火事の跡が, 右手の斜面に広がっていた. 全く意外,
この道は切り通しを抜ける自動車道となり, 天国からの階段のように, うねうねと下界へ続いていた. 勿論,
五万図はこれに関する何らの情報も伝えてはくれない. ここで待望の太陽が顔を出した. 私たちはここから尾根の踏み跡に入り,
明るい落葉松の芽吹きの中を, 水の戸(1470.7)の腹を巻いて県道へ下る.
下りきったところには立派な小屋があり, 自動車つきで人夫がいた.
十石峠への道をきくと, 乗っていけと云う.
そこには良い水もあると云う. が,
十石峠では日程が中途半端になるので, 厚かましくも馬返(マゲシ)まで乗せてもらうことにする.
車には<与志本>と書かれていた. この地方の事業家だという.
そういえば今日歩いたコースでも<与志本>と書かれたポール何本か見た.
自動車は十石峠を越えて<秩父佐久線>をすっとばして,
古谷部落の落合橋まで私たちを運んでくれた. 運転手はお礼を受け取ろうとはしなかった. 私たちはここから約30分山に入った沢の近くに幕営した. 堤さんが野菜を洗い, 清水さんが飯を炊いている間, 私は里までビールを買いに行って来た. 約1時間かけた後のビールは, 思った程うまくはなかった.
第22日 馬返-大上(1969/4/28)
大野沢を12分さかのぼると小屋があった. 別棟の便所つきだ. それが分かっていれば, 昨夜はここまで登って来ていたものを…. そこから落葉松の中の緩い登りを20分で大上峠である. 疎林の中のこの峠を私はすっかり気に入った.
地面は苔が覆っていて, その透き間を落ち葉が埋めていた.
小さい石仏が一体ちんまりと座っていた. いつのまにか空は真っ青に変わっていた. 林班の標識であろうか. 100ホの1という石柱が埋まっていた. 境界伐採が左手の尾根を上がっていて, 私たちはこれを辿った.
登りきると<図根>と彫られた三等三角点なみの石柱があった.三角補点なのだろうか.妙義が見えていて清水さんが写生をした.夏みかんがうまい.一度下ってきつい登りを終えると三角点1484.4の肩にあたるコブである. ここにも図根があり, 今度は浅間が見え出す.
遥かに送電線が通っている辺りは十国峠なのだろうか.
大上峠はぐっと低くなり,十国峠の方面にも境界伐採が続いているのが見えた.
この分では十石峠-大上峠の間も歩けそうだ.
このコブから矢沢峠へは16分の下りで,
ここには明大WVのプレートがあり,
女子班と書かれているのは, 手分けをして仕事をしていることが伺えた. ここの林班標識は27である.
留夫(トメブ)山に似た次のコブの登りには少々顎を出したが,
これを下ると左手から大きな沢が入り込んでいる. 広々したところに至る. 右手はひどい崖であるが, 木があるのでちょっと気がつかない. 今までもずっとそうであったが,境界の右手,
即ち群馬県側は手入れが行われてないのに反し, 左手の長野県側は一度伐採され, きれいに植林が行われている.
ここから次のコブの一本松を目当てに登る. 登りきると尾根は緩み,
小さい起伏の二つ目で林班標識は1番になって終わっていた.
ここは余地峠のすぐ上である. 八ツ岳が全貌を現し,
それに見とれていると身体が冷えてきた. 左手下に植林をしている人がちらちら動いている. 余地峠へは一気に下って昼食にする. 林班らしい石柱は34ホの2で新しく始まっていた.
境界伐採は更に続いている. 一つの高みをゆっくり巻いて,次のピークは1337mの三角点である. ここで境界伐採は途絶えていた. 地図上での境界は右に90度折れていて,
そこはずり落ちるような斜面であるが, 木の所々に白いペンキが塗られていて, それが境界であることがわかる.
私たちはこの木を頼りに注意深くそこを下りた. 赤いテープが左手前方に続いている. 私たちは尾根筋をゆく白いペンキの方を選んで間もなく踏み跡を失った.
些かのヤブコギの後, 峠状の所に着く.
旧田口峠であろう. 今日の後半歩いた所は,
今回のスケジュールには入っていなかった所である. 地図上から判断して, 無理だと思っていた所であったが,
つい欲を出して足を延ばしたものである. が,
ここから先はかなりの困難が予想されたので,沢筋を下って,初めの予定の勧能(カンノウ )部落へ下ることにする. 下りは,
落ち葉がうず高く積もっているが明らかに道が続いている. やや下ると<象ケ滝線延長歩道1694m・高崎営林所>という標示が目に入る. やがて, 沢には流れが始まり一息入れて水を楽しむ.
水流は青石を美しく洗い出していた. 右岸は切り立った崖で,
その新緑の間にヤシオツツジが鮮やかな桃色をみせていた. キベリタテハが舞い上がる. 笛吹の西沢が最後の秘境と週刊誌に紹介されたことがあったが,
この沢こそそれに値すると思えた. 滑があり,
瀬があり, 淵があった.
そして最後にアッと息を呑む象ケ滝となってこの渓谷は有終の美を飾っていた.
それは三段の見事な滝であった.
林道を20分下った最初の部落熊倉は山吹の花が満開であった. 勧能へ更に20分, ここにはバスが入っていて温泉があった. ここで左折し南牧川を渡って民家数戸の馬坂(マサカ)部落に至る. とある一軒で道を聞くと,
<お茶でもどうぞ>という. 品のよい中年の婦人はお茶をつぎながらこんな話をしてくれた. ―ここは川中島の戦に参加した侍の後裔の部落であって, この家は400年を経ている. 鎧や兜もあり,
時々そんな品物を調べに来る人もある. この母屋は長野県にあるが,
横の小さい流れが県境で, 倉庫は群馬県に建ててある―
今ではその用を失ってしまったような小さな峠を越えると,大上部落がすぐ下に見え,前方に1194mの立岩が堂々たる風格をみせていた.
この下りで堤さんが足を痛めた. スキーの捻挫の跡かもしれぬ.
夫婦で畑を打っている傍らに数本の葱が置いてあるのを見て, 譲ってくれと頼むと, 持っていけと云う. 何なら家へ行けばホーレンソウもあると云う. 金を受け取ろうとしないので, 背負い籠の中に, 何がしかの金を入れて, 逃げるようにそこを去る. 下仁田葱をぶら下げて歩きながら,
私は三木俊介氏(同僚)のことを思い出して, 一人でニヤニヤした.
線が滝は美しい線のような滝であった. センというのは滝の意で,
センがタキは累語加重かもしれぬ, という浅薄な知識を披瀝したことを私は恥じた. 威怒牟幾(イヌムギ)不動の分岐には見事な土筆の群落があったが,
今回は食料が豊富なのでそれを見過ごし, 5分ほど登って幕営地と決めた. 空には月があった. そして夕餉の席に山桜の花がホロホロ落ちた. この夜,
どうしたことかマンジリともせず夜のあけるのを一人待った.
第23日
大上-上発地(69/4/29)
うすく雲がかかっているが今日もよい天気らしい. 今日のコースは道が明瞭で気楽なものだ.
沼の平を経て星尾峠に至り, 身の丈ほどの竹の間を荒船へ向かう.
行塚山の分岐に今回初のプレートNo24を打ち,
ザックを置いて駆け足5分で行塚山(1422.5
別名京塚山)へ.
そこは素敵な展望台であった. 妙義に代表される怪奇な山容をもつ西上州の山々に囲まれて, 私たちは有頂天であった. 堤さんが奇声を発すると, 見事なこだまが返ってきた. それはYaho, Yaho, Yahoというようなありふれたものではない. Yahoは Y a h o なのである. 2秒の声が7秒にも反響するのである. 十分エコーを楽しんだ後, ヤッホーがきっかけで,
調子っぱずれの<海賊の歌>を歌いながら下って行くと, 二人の女の子が笑っていた. 右すべきか、左すべきか、迷っている二人に,
行塚山は是非行ってきなさいと勧めて分かれる. 名にしおう荒船山の絶壁へは20分, 展望を楽しんでいると,
<写真を撮って送ってください,
これが住所で…,タバコをきらしちゃったので,少し…>と無邪気にもズーズーしい団体にどきもをぬかれる.やがて,例の二人組がやって来て,<5分なんて嘘です. 遠いので止めました>と云う. 全くもってもったいない話だ.
内山峠へは些かの道程であった. ルート254号では自家用車が時々私たちを尻目にとばしてくので,少々気分を壊したが,
私たちもガーデンハウスから物見平までバスに乗る. この辺,
<只今分譲中>である. 待望の牛乳にありつけなかったのは残念,
昼食はいつのもようにラーメン.
物見岩へは20分の登り,
例年,この時期のこの辺は,ハイカーがい集するのだが今日は人影も疎らである.
あとで知ったことだが, 沖縄デーで東京は大荒れ,
ダイヤは混乱したことが一つの理由であったようだ.
コースタイム40分とある物見山へは20分でとばし,
ここにNo25を打つ. この辺一帯, 道が縦横に走り, 道の間に山があるといった感じである. <道のあるところは山じゃない>些かキザな山観を持って,
私たちはぶんぶんとばし, 志賀越へ10分, 香坂峠へ9分,
そして矢川峠へ10分と思いきや,
ここは長野県から自動車道が通じている新しい峠らしく(群馬県側へは通じていない), 旧峠へはそこから10分,
この一帯うつくしい茅戸の起伏が続き, オキナグサが散見される.
田部重治の八風越えの紀行にもオキナグサに関する記事があるところをみると,
植生というものは, 容易には変わらぬものらしい.
八風山へは30分以上もかかったが,
ここが今回最後の目標地点であり, コブシの花がうつくしい.
山頂には工学院WVのプレートが打たれていた.
境界線は八風の山頂からわずかな踏み跡をつけているようであったが,
私たちはこれに分れを告げ, 上発地へどかどか下る.
上発地はカミホッチと呼ぶが,
私たちはこの地を今回の山からのジョウハツ地としてバスの人となる.
最後に, 帰りの急行おビュッフェで食べたもりそばのうまかったこと,
駅そばより遥かに上等で金60円也を記しておこう.