KZAK報告(第5回) G-5 No353 2012年4月19日(木)
塩山でバス待ちの25分間に, 食糧とガソリンを仕入れ11時発のバスに乗る. 巨大なマスを空間に支えた銀杏の紅葉と, 日本一だというコロガキ襖の間を,素晴しい秋天が埋めている三原色交錯の中を,
定員を充たしたバスは走り抜けて行った. 途中,
老人を交えた何人かの乗客を加えると,
ニッカーにアタックザックの,姿よろしき単独行の女性がスックと立った.
広瀬の紅葉は既に終り, 西沢行きの人も少ない. 売店で牛乳を飲み, 空瓶を入れる箱の中に転がっていた,しなびた蜜柑を貰い受ける.
店のおかみにそれを所望した堤さんの勇気に感心する.
前回の帰路に拾い集めたスモモは,すでに清水さんの家で,芳醇な香りを放つ果実酒になっているが,
その木は一年の仕事をなし終えて冬眠に入っていた. 山の畑に葱が植わっているのを見て, 1, 2本失敬しようかというフォローアーたちを,リーダーとして私は厳しくたしなめた.
それに対する二人のあくたれはサラリと聞き流したが,
今回私が着て来たチョッキの格好が悪いという,密かな話を耳聡く聞き取って,<もう外では絶対着るのはよそう,家でスモーキング・ウエアにでもしようか>などと考えていた.前回幕営した沢の付近の日当たりのよい場所で昼食にする.ゴーゴーうなるホエーブスを止めると,静けさが寒さの条件ででもあるかのように寒さが来た.あついソバガうまかった.葱が入っていれば…, で話が戻った.
葱の話は,些かの経緯を経て拾いものの話に至っていた. 清水さんの最大の収穫はカメラ, 堤さんはアイゼン, 私は時計であった. 私はアンカーを歩く不利を思った. リーダーの権限で,あからさまにトップにたつことを決めて,そうしたが,
柳下のドジョウは冬眠しているようだった. 2時に河原に下って小憩. 最後の登りも快調なペースである.
前回あれほどの豪華さをみせていたお花畑は一面の枯れ色で,
ミヤコザサの薄緑が山肌の基調に変わっていた. 休憩はススキの斜面にひっくり返った. いつの間にか空はすっかり曇ってしまっていた. ややあって(休憩に入って7分後)3人の脈拍数を数えてみたら, 30秒間に, 堤さんは45, 清水さんは52,
そして私は60であった.
年齢は争えないものだ. そこから峠まではすぐであった.
峠のプレートを懐かしく見て, 雁坂小屋に下る.
埼玉国体で増築したという立派な小屋だ. 宿を乞うて中に入ると,
例のバスの女性が既にルンペンストーブにあたっていた. 大阪弁であった.
水は氷のように冷たく洗いものの手が痛い. 女の子はアルミの椀をストーブに乗せて,手際よく一人前の飯を炊いた.
この小屋の主人と,雁峠山荘のひげのおやじとは,従兄弟関係だそうな.
そういえばどこか似たところがある. ここの峠の植物のネームプレートは彼が立てたのだという. その一覧表が紙に書かれて壁に張りつけてあるのを清水さんに写真をとって貰った.
この山小屋には雁坂文庫という書棚があったて, かなりの本が収められていた.
夜半から雨になり, 風が出てきた.
第14日
雁坂峠-十文字峠(1967/11/12)
4時半起床.
荒れ模様である.今日は,秋場所初日で,菊花賞レースだ.それに首相出立で全学連の出る日でもある.きっと下界も荒れることだろう.6時15分出発.
峠に立って驚く. すごい風である. 勿論, 雨を交えて. <小屋へ戻って一日停滞しようか>とも考えたが, 破風の避難小屋という手もあるし,
午後からよくなるかもしれぬ,という小屋の主人の言葉もあって, 強行することにする. 成長した樹氷が風に叩き落とされて厚く道に敷かれた中を,
ポンチョをはぎとられまいと,その裾を押さえて雁坂峰の登りにかかる.
雁坂峰から道は左に折れて, 今度は風をまともに受ける.
一度コルに下って東破不の登りだが, これだけ吹かれて降られる一種の爽快味があるから妙だ. やや間をおいて2パーティーに合う.
西破不の下りがひどいという. 西破不で雲が一時切れてむこうの山が見えた. この辺は岩の多いところで風は益々強さを増した.
晴天ならば奥秩父屈指の展望尾根であろう.
笹平の避難小屋でガソリンをかけて火をたき間食を入れる. 雨は小降りになった. 道の真ん中にデンと座った露岩を過ぎ, 林班境界57〜58の標示を見て, 戸渡尾根分岐,
とさか山分岐をやり過ごすと, 木賊山の頂上である.
雲は強風に飛び去って薄日さえ射して来た. 朝日岳の雪渓が浮かび上がって来た. ここの下りで最強の風にぶつかった. まともに立ってはいられぬ. 清水さんの帽子が飛んだ. 甲武信小屋はすぐ下にあった.
小屋で暖をとり, 昼食をとる. 冬季休憩料は40円である. 小屋の風向計はSSWを指している. 風力は5程度か. 甲武信岳は名が売れている割に小さい山である. ここにNo19を打ち写真にする.
周囲の山々は勢揃いした. この下りから積雪が多くなった.
深い所は1mもあろうか.
甲武信に比べて三宝山は大きな山だ. 頂上のやぐらに登って四方の山の眺望を堪能する. 武信白岩にはビバークできそうな岩が2ケ所にあった. この岩頭に立つと鼻水が珠となって空間に飛び散って行った.
三宝山はカメラファインダーには入りきれぬ大きさで眼前にあった.昼の月が所在なく青い空に貼りついていた.私はペーパームーンのメロを口ずさんでみた.
十文字峠には工学院WV十周年・関東国境縦走・十文字峠・67.9.17というプレートがあった.
十文字峠小屋は今年ここに新築され, 経営者,
山中新治氏は下の小屋とかけもち, 建設費百万円で3間×10間の大きさである.私たちは主人と夕食を共にした.
この夜,シュラーフに毛布をふんだんに使ったが,シンシンと寒さが来た.
第15日 十文字峠-三国山(1967/11/13)
4時30分起床. すでにストーブはがんがん焚かれていた. プレートNo20はこの真新しい小屋に打たせて貰い, 6時30分発.
<眺望絶景道悪し>の標識を横目で睨んで十文字山へ登る.鬱蒼とした原始林の下道を朽ちた木と落葉でボカボカしている.シャクナゲの背が他所と違って著しく高い.
やがて,秩父の原生林が終わり,カラマツの造成林になる.右手に雪の浅間が見えて来る.左手下は戦場ケ原で梓山部落への道が続いている.風で耳が痛く,清水さんの襟巻きを借りてターバンのように頭に巻く.前回の山行でお馴染みの,林班標示の木の杭が再び現れた.526である. 数字で読みとれないのがある.
私が<あきらかでない>というと清水さんは<さだかでない>という.<アキラカサダカでない>が<秋山さだ子でない>に通じる.そうであろう.秋山さだ子さんは今や清水さだ子さんだからな.私はこの語呂合わせを発表せずに一人でニンマリした.弁慶岩からは上毛三山・八ケ岳・中央アルプスが一望である.<眺望絶景>はあっているが<道悪し>は嘘である.枯木の間のコースはヒナタボッコハイキングであった.久しぶりに境界見出標があり,そこで些かの話題があったが省略しよう.適当な配置に適当な展望台があり,梓白岩もその一つである.独標1849.8mを土地の人はヨモギ三角点と呼ぶ. ここに工学院WVの67.9.23の板切れが打ってあった. 新三国峠には有料道路が抜けている. 両神山が目の前である. 三国山へは20分の登り,
林班標示は379, 工学院は10月15日, NECはNo25
40年12月とあった.
今回私たちは準備が不十分でプレートは品切れ, ここへは次回再び来た時に打つことにする. 甲斐駒が真っ白な頂きを僅かに覗かせていた.
旧三国峠で,来年3月に予定している次回コースを眺めやってから下山にかかる.
とっつきで道を間違えて15分ロス,
ややあって, 再度道をとり違えて10分ロス. ほとんど廃道に近い道を強引に下って信濃沢橋着1時20分.
昼食後, 予定より5分早めに出発したことが幸して, 全くニューなバス(工夫輸送用)に拾われて中津川部落まで一ッ跳び.
さて, ここで,一日一本の4時40分のバス待ちで,
裏手の小高い岡に登って,今回の山行の最悪のヤブコギをしたことをつけ加えておこう.この岡の中腹にはTVアンテナの林があって,
私たちがテレビ山と名付けたことも記念にしよう.
おおい被さる頭上の岩角へぶつからぬように, 特殊は型の屋根をもったバスが三峰口に着いたのは,
もう真っ暗になってからだった.
3人の中の2人が <今,キのつく話をしていたのだが,キがつかなかったろう>というと,キのつく行為の正当性を主張する第3の男は,ニンマリして<只今,定期がきれている>と云ったものだった.
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