理科実験を楽しむ会
もっぱら ものから まなぶ石井信也と赤城の仲間たち 

  KZAK報告(3)  G-3  No351   201245()

 

  6  月夜野-上岩(1967/8/9)

  山へ行く日と山での朝は, 予定した時刻に正しく目覚めるから不思議だ. 意識が先に目覚め,続いて目があくが,胃はなかなか眠りから覚めない.昨夜のサラダの残りにマヨネーズをかけて少々胃に入れる.マヨネーズが<まず寝ようぜ>に聞こえて妙だ.

 今日は清水さん宅で自動車を出してくれることになっているので何かしら気が楽である.お父さんの友人,佐藤光男さんの運転は見事であった.八王子付近で雨になったがたいしたことはない.前回ジープで下った林道では,野兎が車の前を横切ったりした.丁度100キロで両国橋に着いた. セキレイが尾をふっている. 雨は小降りであった.    

  清水・佐藤両氏に別れを告げ, 宮の沢の右手から少し入ると月夜野の部落に達する. 第一の目標平野山は見えないが,地図で判別すれば遠くはない筈だ. 草が少々被っているところはあるが, 道も悪くはなく, 緩やかな勾配で山腹をぐるぐる回っていた. 炭焼窯がありシイタケの栽培が行われている杉林を抜けると, 一つの峠に達した. <薄久保山 731.2m 秋山村青年団>という道標が1本あって, 矢印がその山の方向を指していたが, 地図上ではこの山は見当たらず, 平野山は現地には見当たらなかった. 時々霧が晴れて下方に姿を現すのは青根の部落であろうか. ここから道はあちこちに別れていたが3人寄れば,の知恵が正しい道を選ばせたようだ. 間のなく3等三角点を見出した. 入道丸に違いない. ここからの下りは急で, 滑らぬように樹木の助けを借りるとシャワーを浴びた. 造道峠からも県境に沿う尾根道が続いているようであったが, ここを左に折れて安寺沢(アテラザワ)部落にくだる.

  造道はツクリミチと呼ぶ. 私たちはKZAKの山行を始めてから, 山での道のありがたさと,その判断の難しさを感じ始めていた. 登山者のための道があり, 山の人達の生活のための道があり, けもの道があって, それらが山の中で入り交じっているのだ. 地図にない道がいくらもあり, 地図にあっても存在しない場合もあった. 新道ができると廃道ができる場合もあるようだ. <道は実用という「て」から考えなければならぬ>と清水さんは云い, <道は生きている>と私は思った.この下りは安寺沢の1軒の家の庭に私たちを導いた. 「休んでいらっしゃい」くせのない発音で留守番の嫁御は私たちを接待してくれた.タケノコ・ダイコン・ネギの煮物,サンショの漬物,つけたウメにたっぷり砂糖をまぶしたものをお茶うけに,うまいお茶をいれてくれた.この家の主人はイノシシを百頭もとったとか,庭の梅の木は1本で千個もの実をつけるとか, 山の話題は聞いて楽しい.

  <こけむした石垣と,清らかな沢音の安寺沢部落の嫁さんは親切であった>林道を歩きながらの3人の合作は続く. <その子どもはカメラを向けると泣き出すほど素朴であった>まろやかな丘に沿って道は延びていった. 苗岡部落へは約1, 新旧の橋が見事な比較を見せている秋山大橋の,新しい方で秋山川を渡ると一古沢の部落, 県境の境橋で神奈川の奥牧野部落に入ると,やがて亭々としたアカマツの疎林の向こうに日向(ヒナテ)の部落が見えて来た. ここへの道は, 滝をかけた深い谷の上に朽ちた橋を渡しているのがそれらしかったが, とても渡れそうにもないので, 甲斐(サイキ)橋で再び山梨県に入り田野入部落で他の道を聞く. 教えられた道は地図上の等高線が示すように谷筋に深く入り込んで迂回していた. 堤さんは新調の靴で左足にまめをつくり苦労をしている様子だった. 日向部落のとある家で水を貰い, ついでに, 庭を借りて昼食にする. この大植(オオハニ)さんの人々も親切であった. 土間を使えというのを遠慮すると, 軒下にむしろを敷いてお茶をいれてくれた. 食事の間にひどい雨になった. 台風くずれの低気圧が梅雨前線を刺激した局地的に大雨になるという予報を, 自分たちのいる所は<局地>ではないという都合いい解釈で,大雨を避けてきたのだが, 遂にここで, ここが局地になってしまった. 紅茶は堤さんがいれると広島風に甘味が不足であった.  

 一つの峠を越えると桃源郷のような葛原(トズガハラ)の部落がのぞかれた. 道は坦々しいて<私たちは仕事をしていない>と清水さんがポテンシャル論をぶった. 向原(ムカイハラ)の部落で堤さんの足のまめは最悪の状態に達した. そして, 清水さんの提案で堤さんと私が靴の交換をした. それは一応成功であった. 部落を過ぎると左手に, 見事な河岸段丘の上の上野原部落が遠望された. 中央高速道路の赤い鉄橋が見えていた. 道はやがて幅員5.5mの立派なものに変わり, 名倉を経て境川橋で桂川を渡ると甲州街道につきあたった. <県境 山梨-神奈川>という大きな看板の横を自動車はしぶきをあげてとばしていった.

  佐野川入り口で右折し再び静かな林道に入る頃, 私も堤さんと同じ位置にまめができかかって来て, また靴の交換が行われた. 3人とも右足はそれぞれ自分の靴, 左足は, 堤さんは石井の靴, 石井は清水さんの靴, 清水さんは堤さんの問題の靴をはいた. 大きさの関係から清水さんの靴を堤さんは履けないという条件で,このローテイションが決まったのである. 勿論, 堤さんと私は左靴がややきつく, 清水さんのそれはかなり緩くはあったが, それほど不都合ではなかった. ちんばの靴が林道を登っていった. ちなみに傘はそれぞれ他の者のザックにさした. 雨が降り出した時にはそれの方が抜くのに便利だからである.

  水の関係で上岩部落を今夜の幕営地と決めていた. 私は些か不本意であったが, 空模様がおかしいので,土地の人のすすめに従い公民館を借り受けた. 部落の人達は親切であった. 売店のおばさんは私たちのビールを冷蔵庫で冷やしてくれた. 管理人の家では風呂に入りに来いという. そして部落長さんが挨拶に来た. 夜になってひどい豪雨が来た. 私の<不本意>という言葉が笑いの種になった. 

 シュラーフザックの中での堤さんの言葉を借りれば足が燃えた.激しい雨の音を聞きながら私は今日一日のコースを辿ってみた.道志の多摩の人情は美しかった.道志の多摩の部落は美しかった.そして,道志の多摩の地名も美しかった.安寺沢・日向・葛原・御霊・道志….<道志>をミチトシと読めれば男の子の名前に,と清水さんが云っていたが果たしてミチト…(後で辞書をひいてみたら,<志>はノリかフサとしか読まなかった)

 

 第7  上岩-笛吹(ウズシキ)(1967/8/10)

  2時に起床して飯をつくる. 外は大雨である. 深夜, 放送が太平洋横断のコラーサ2世号がこの雨で難航している旨を伝えていた. 長野に震度3の地震があったとも報じてきた. 雷鳴が遠くに聞こえていた. <このひどい雨では出掛けてもしょうがない><もう一寝入りしよう> 450分に目を覚ますと雨はあがっていた. 結局6時出発で生藤山(ショウトウサン)を目指す.

 標高僅かに500600m, わたしは雲海の上に出た. 層雲は安定しているが上空では東よりの風がかなり強いらしく, 激しく雲が流れている. 更に上層にはレンズ雲も見えていた. 遠く南方には前線に沿って雲堤が巡っていた. 道は少し滑るが泥は流されてしまっていて, 雲母片岩が覗いている. 富士はそのボディーだけが, 陣場山は頂上の小屋までが見えていて, 清水さんは億劫がらずに, これらを写真に撮った. ヤブコギというほどではない萩のヤブワケが終わると三国峠であった. 堤さんは山梨, 清水さんは神奈川, 私は東京に向いて放尿する. 生藤山へは空身で5, 再び峠に戻ってプレートNo10を打ち込み, 神奈川県と別れを告げる頃には層雲が移動し始めていた. 小さいコブを二つ越えると熊倉山に至る. 丹沢の三峰が山の象形文字をつくっていた. その左手は大山である. この辺りから陽が照り出して,これからのコースが見通せた. 尾根筋から東京側は層雲が被っているが, 一つ一つの頂から, 山梨県側に張り出す枝尾根が9本見事に配列していた. 「ラインダンスの足のようだ」と堤さんが云う.「上部が白い雲で隠れているのが…」と言いかけて私は足を滑らせ,とっさに掴んだ小枝がポキンと折れると甘い香りがした.クロモジである.<もうそろそろ三頭山が見えても>と遠くに目をやると,今度は前の清水さんにどかんとぶつかった.「信也さんは前方の山を見,私は後方の山を見ていた」と彼は云った.二人の性格をズバリ表現したと私は思う.先程の小便の向きにしたって… この尾根道は山の一つ一つを忠実に辿っていたが,栗坂峠の少し先ではじめて山腹を左手に巻いた.その辺りで道の判定に十分ほどロスする.道のまわりは草が刈ってあった.<曾てあった>と清水さんがアクセントの位置を替えて云った.浅間峠でニーニーゼミが鳴き出した.アケビが青い実をつけている.葛のヤブコギでは私のザックにある清水さんの疑問符形の傘の柄がつるにひっかかって,何度も引っ張られた.日原峠に近い草原では突然足元から三羽のコジュケイが飛び出して驚かされた.ついでながら,先刻,大きな蛙を踏み潰しそうになって清水さんが悲鳴をあげた一幕もあった.日原峠で昼食とする. 人の声がするので声をかけたが返事だけあって姿はみえない. ひょっとすると天狗であったかもしれない. ここからの富士は素敵だということだが, その富士は右の耳を僅かに出していて間もなく消えた.

 雲は踊っている,は清水さんの表現であったが, 自分ではキザだとは思ってはいないようだ. 成る程, 雲は躍動的であった. 土俵岳には,どこかのグループの集中登山の記念ポールがぶち込んであった. この辺から時々明るい草地が出現した. 林間にはオニノヤガラが立っていた. 高さ約140cmの茶色の茎の上部に同じく茶色の花をびっしりつけたラン科の植物である.

  雨で出発が遅れ, 更に目地の地図の栗坂峠の位置とそのコースタイムが違っていたことで, 予定時刻からはかなり遅れていたが, この時点に於いて,私はなお三頭山を越える考えを捨ててはいなかった. しかし…鴨沢へは早くても8時になるだろう. 果してバスはあるだろうか? 清水さんの左靴は大丈夫だろうか? 一歩譲って槙寄山から数馬に下った場合, 昨日の豪雨で道がくずれてバスが不通ということはないだろうか? 私はいろいろ懸念した. 「どうするんだ」と堤さんが云った. 「リーダーが決めてくれ,リーダーが行けと云えば俺は行くよ」という清水さんの言葉が私を決心させた.「笛吹へ下ろう」私は言った.この決定に二人は些か軽蔑の面持ちを見せながら内心はほっとしたに違いない.<リーダーの判断は妥当性がある>とか<強行できないことはない>とかいう言葉が飛び出して笑いを誘った.こう決まればあとはのんびりだ.小棡峠(コユズリ)でゆっくり腰を据えて山を見た. こうすると,山も花も虫も美しかった. 私たちはあまりに先を焦っていたようだ. 権現山がすぐ目の前にあった. アザミの花にヒョウモンチョウが飛び交っていた. シャクトリムシが地図の上をジェット機並みのスピードで走って行った.

  丸山は道から2分はずれていて視界はないが, 二等三角点があった. 笹尾根と呼ばれるだけあって峠への下りは一面笹原であった. そして,おりたった笛吹(ウズシキ)は美しい峠であった. 広い草原にアカマツが適当な配置で立っていた. 中央に<大日>その下に<みぎかずま ひだりさいはら>と優雅な文字が刻まれた石碑があった.ここに打ちつけたNo11のプレートは自分達の足跡を二度見る最初のものになる筈だった. 雨がポツポツやってきたがすぐあがった. その雨で濡れた草が靴の中をぐしょぐしょにした. オオルリが鳴いている. 清水さんが口にした擬声音は私が書き取る暇もなく忘れてしまうような奇妙なものであり, 本人も再び表現できないほど難しいものであった. 林を出ると明るい伐採地であった. 奥多摩三山がデンと構えていた. 木橇の道をがくがく下ると笛吹の部落で,嬉しくも2分後にバスが来た.

  バスは五日市で電車に接続していて, 靴の中のぐしょぐしょの足を洗う時間もなかった. <足を洗う>ことは私たちにはできないことなのだ.  

 

 

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